駅に近いといっても、特に目立つものがあるわけじゃない。孝介が稲羽市へやって来る何年も前にシャッターを下ろした小さな商店と、今にも閉店しそうな小さな店、その隙間を埋めるのは農協や地方銀行のATMコーナーと空きの目立つ駐車場ばかりだ。
 孝介は紙に描かれた地図を元に道を曲がった。遼太郎が教えてくれた、足立のアパートへと至る地図だった。ポケットには菜々子から受け取った五千円札が突っ込んである。
 足立のアパートなど何故知る必要があるのだと、当然のように遼太郎は訝しがった。
『秘蔵のコレクション見せてくれるって言うから』
 口から出まかせだったが、遼太郎はそれ以上追及してこなかった。若い者同士の付き合いに口を挟むべきではないと判断したようだ。あまり遅くなるなとだけ言って孝介を送り出してくれた。
 そうして今、件のアパートの前に立っている。
 どこにでもありそうな、平凡な二階建てのアパートだった。築年数は結構行ってそうに見えた。二階へ上がる為の外階段の手すりがひどく錆びついている。八つ並んだ郵便受けには半分しか名前が入っていない。入室しておきながら名前を書いていないだけなのかも知れないが、長いあいだ野晒しになったままのチラシの端が、妙に侘びしく見えた。
 足立の部屋は二〇二号室だった。孝介は無意識のうちにため息をついてから、錆びついた外階段を上がり始めた。
 呼び鈴を鳴らしても足立はすぐには出てこなかった。塗り直されたばかりらしい真っ青なドアをみつめて、孝介は気長に待った。再度呼び鈴を鳴らす。……出てこない。
 不在なのだろうか? 孝介は一瞬ドアポストか郵便受けに金を突っ込むことを考えたが、郵便受けでは最悪風に飛ばされる可能性もあるし、住んでいる筈なのにチラシまみれのドアポストでは永遠に気付かれないような気がする。勿論遼太郎に預けるわけにはいかない。出直すのも面倒だ。孝介はつのる苛立ちと共に呼び鈴を押し続けた。
「はいはいはいはい」
 やがてドアの奥から焦れたような声が聞こえてきた。
「なんの御用ですかぁ?」
 ドアを開けた足立は、外に立つ孝介の姿を認めると驚きに目を見張った。
「あれ、君――」
「居るならさっさと出てきてくださいよ」
 不機嫌に言って孝介は五千円札を取り出した。
「返しに来ました」
「……」
 足立は金を一瞥したあと、腕を組んでドアにもたれかかった。
「君にあげた筈なんだけどな」
「……欲しいなんて言った覚えはありません」
「キスしてくれたのに?」
「……っ」
 思い出したくない記憶が甦りそうになるのを、孝介は気力でねじ伏せた。ずい、と金を押し出して「とにかく返します」とだけ繰り返す。
「ふーん……」
 足立は不満そうにアゴを掻いている。今日はフード付きの薄手のトレーナーに灰色のジャージという出で立ちだった。こうしていると、とても刑事だとは思えない。孝介は視線を落として玄関に目を向けた。脱ぎっ放しの靴やサンダルがでたらめに放置されている。隅の方には決して小さくない埃が溜まり、男の独り暮らしってこんなもんなのかなと孝介は思った。
「まぁいいや」
 つ、と孝介の手から札を引っ張ると、足立はそれを指に挟んでひらひらと振った。
「どうせだから、ちょっと上がっていきなよ。汚いとこだけど」
 そう言って返事も聞かずに奥へと戻っていく。閉まりそうになるドアを手で押さえたまま、孝介はしばらく立ち尽くしていた。玄関を入ってすぐのところは風呂場のようだ。擦りガラスのドアが見えた。その奥は台所らしく据え付けの食器棚が認められた。更に奥にある居室との仕切りの辺りで足立は立ち止まり、「ほら」と言って手招きをした。
「……お邪魔します」
 孝介は狭い玄関に入り込んでドアを閉めた。
 台所には大きなゴミ袋がひとつあり、その脇にジュネスのものらしいスーパーの袋が放置されてあった。居室は脱ぎ散らかした洋服と雑誌と小さな段ボールの箱と衣装ケースと詰め込まれたオーディオセットとテーブルと溜まった埃とでカオスな状態だった。唯一ひらけているのはベッドの上だけだ。汚いところ、という台詞が謙遜でなく使用されている現場を、孝介は初めて目撃した気分だった。
「あーっとねえ、……ま、そこ座って」
 しゃがみ込んで床に落ちている洋服を隅へと放り投げながら、足立はベッドを指差した。ほかに腰を下ろす場所がないのだから仕方がない。だがそこも静かに浸食されつつあるようだ。枕の脇にはやはり雑誌が一冊と、それから何故か大きなサルのぬいぐるみが居た。
「あ、それ?」
 片付けの手を止めて足立はにへらと笑った。
「可愛いでしょ。アイちゃん」
 アイアイのぬいぐるみだから、と言ってまた足立は笑った。それは小さな子供くらいもある大きなぬいぐるみで、孝介は離れた場所からアイちゃんを眺め、なるほど俺はお前に間違えられたのかと心のなかで呪詛の念を送り始めた。
「実家に居た時は違う子だったんだけど、大学入る頃にはボロボロになっちゃってさ。見てるのも忍びなくってお焚き上げに出しちゃったんだよね」
「……え、わざわざ神社に?」
「供養だよ、供養」
「いや、知ってますけど……」
 あん時は悲しかったなぁと足立はぼんやり宙をみつめた。
「それ以来ずっと持ってなかったんだけど、警察入ってすぐの頃に、デパートでその子に一目惚れしちゃってねえ」
 そう言って足立は恥ずかしそうに頭を掻いた。しっかりと寝癖の残る頭だった。
 孝介はアイちゃんへと視線を戻した。そっと腕を伸ばし、ベッドにだらりと落ちる手をさわった。「抱き心地いいんだよ、その子」と言って足立は立ち上がり、ぬいぐるみの頭を撫でた。まるで命あるものの相手をしているかのようだ。
「なんか居ないと落ち着かなくってさ」
「……子供みたいですね」
「あ、笑ったな」
 孝介の苦笑を受けて、足立も照れくさそうに口元を掻いた。
 笑いたくもなる。いい年をした大人だというのに、まるで毛布が手放せない漫画の登場人物のようだ。


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