「でも今、アイちゃん居ないし。菜々子ちゃんにお願いしたら、僕、堂島さんに殺されるし」
「ええ、俺も菜々子の為なら犯罪に手を染める覚悟は出来てますよ」
「だからさ」
 仕方ないから君で我慢するよと言って、当然のように両手を開いた。
「ね。三千円あげるから」
「冗談じゃないですよ、なんで俺が」
「あれ、不満? じゃあ二千円」
「なんで安くなるんですかっ」
「じゃあ千五百円」
 ごちゃごちゃと話が長くなるにつれて値段が安くなるらしい。自分の価値が下がっていくという感覚にどうにも耐えられず、孝介はつい文句を言いそびれてしまう。足立はどうやら本気のようで、あぐらを掻き、開いた両手でじれったそうに孝介を呼び続けている。
「…………わかりましたよ。じゃあ、三千円で」
 にたり、と足立が笑った。言いなりになるのは口惜しかったが、わずらわしいことに関わり続けるのも嫌だった。適当に済ませてとっとと部屋へ上がればいい。どのみち、こいつとは一度経験済みだ。
 ――そう思っていたのに、甘かったようだ。なにがおかしいのか足立はにまにまと笑い続け、「へえええええ」とわざとらしく声を上げた。
「現職刑事の甥っ子くんが、エンコーしちゃうんだあ、へえええええ」
「な……援交ってなんですかっ」
「だってそうでしょ? お金もらっていやらしいことしようってんだから、エンコー以外の何物でもないよねえ。いやあ、真面目そうに見えても、人ってわかんないもんだねえ」
「…………!!!」
「最近の日本は腐ってると思ってたけど、まさかここまでとはなあ。僕、驚いちゃったなあ」
 足立のわざとらしい台詞に、言い返す言葉が思い付かない。孝介はこぶしを握りしめながら、なんでこんなこと言われて我慢しなけりゃいけないんだと思った。しかし咄嗟に脳裏へ浮かんだのは遼太郎の姿だった。仕方がない、上司としての叔父の顔に免じて、今だけは我慢してやる。
「……………………俺が払えって言ったわけじゃないでしょうが」
「じゃ、タダでいいよね。はい、おやすみのちゅうー」
 なにか色々と解せないものはあるが、ひとまず考えるのをやめることにした。孝介は足立の前で両膝を付き、のろのろと顔を差し出していった。
 唇が触れて、当然のように舌が入り込んできた。ぬるりとした感触に触れたとたん、孝介は無意識のうちに逃げ出そうともがいていた。だが首に回った足立の腕が強く孝介を押さえつけており、どうしても逃げることはかなわなかった。それでもアゴを引くようにして顔をそむけ、ようやく出来た隙間から息を吸い込んだ瞬間、また足立が唇を押し付けてきた。
「ん……っ」
 いつの間にか足から力が抜けている。気が付くと抱きしめられる腕のなかで、足立の背中にしがみついていた。気持ち悪いと気持ちいいの両方を行ったり来たりだ。鼻にかかった声が洩れるたびに足立はかすかに笑い、そのたびに孝介も我に返って逃げようとするのだが、下半身の鈍い痛みが重くて立ち上がれない。
 最後に大きく舌を吸ったあと、足立の唇は離れていった。
「……」
 足立はにまにまと相変わらず締まりのない笑顔でこちらをみつめていた。孝介はその背中から手を放し、ゆっくりと身を引いていった。
「ありがとね」
「……っ」
 孝介はわざと口を拭った。そうしてよろよろと立ち上がり、無言で背を向けた。
「おやすみ」
 返事はしなかった。


 目を醒ますと、足立の姿は消えていた。どうやら起きて早々に帰っていったようだ。あいつも忙しいんだかのろまなんだかわかりゃしねえと遼太郎がぼやくのに、孝介はなにも言えなかった。
 翌日は朝から曇りがちの天気だった。そろそろ梅雨入りのことを考えなければならないのかも知れない。それでも、完二は救出済みだ。孝介にとっては、それが唯一の明るい事実だった。
「お兄ちゃん」
 菜々子と揃って家を出たあと、人通りの少ない道で孝介は呼び止められた。
「あのね、足立さんからお兄ちゃんにって」
 そう言って菜々子が取り出したのは五千円札だった。菜々子は大金を持つのが恐ろしいといった顔で、札を孝介に突き付けてくる。
「朝おきたらね、足立さん、お兄ちゃんにわたしてって言って」
「……」
「クリーニング代だって言ってたよ」
「……そう」
「お洗濯したの?」
 菜々子のきょとんとした顔に、孝介はどう返事をすればいいのか一瞬だけ悩んだ。
「ちょっと、頼まれもの。――ありがとね」
「うんっ」
 頭を撫でてやると、菜々子は嬉しそうに笑った。孝介は金をポケットに突っ込み、菜々子と共に歩き始めた。
 鮫川の河川敷でいつものように菜々子と別れた。学校へ向かう足取りは重かった。


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