年末のMZDは珍しく忙しかった。クリスマスイベントが終わりその片付けと共に、今度は大晦日に行われるオールナイトイベントの準備が始まったからだ。
 この時ばかりは普段昼行灯の彼もあわただしく打ち合わせに走り回った。勿論大変なのは店の連中も同じことだ。普段の仕事に加えて余計な作業が山積みとなっているが、不思議なことに忙しければ忙しいほど士気は上がった。いつもは気付かない場所に目が届き、誰かが命令したわけではないのにいつの間にか材料が出揃っている。お前ら普段からそれやれよとMZDが皮肉を言っても、そこに険悪な空気はひとかけらも存在しなかった。だったらオーナーも毎日店に出てくださいよと誰かが言い、誰もが笑った。
 まさに師走って感じだよねーと店の連中と笑いながら毎日が過ぎていった。既に儲けのことは頭になかった(勿論全くなかったわけではないけれども)。神が考えるのは、どうしたらみんなに楽しんでもらえるのか、その一点だけだった。
 「楽しい」が仕事になる、を実感する年の瀬だ。
 そんなあわただしいなかで久し振りにKKが姿を見せたのは、年末も押し迫った十二月三十日。相変わらず青のつなぎを着たまま、ひどく重い顔つきで昼頃不意に現れた。
「――あれ?」
 その時のMZDは溜まっていた書類仕事を片付けようと店に残っていた。久し振り、とカウンター席に着いたまま手を振ると、KKはのっそりと目を上げて片手を上げ返してきた。
「珍しいね、こんな時間に」
「……夜勤のあと、午前中だけ仕事してきた」
 そう言ってふらふらと隣の席に座り、上着のポケットから無造作に煙草を取り出した。MZDは灰皿を渡してやり、しばらく横顔を眺めたあと「なにか飲む?」と訊いた。
「コーヒー。……お湯沸いてんのかよ」
「沸いてるよ。まだ機材のスイッチ切ってないし」
 MZDはカウンターのなかに入り、俄かバーテンダーに変身してコーヒーを入れ始めた。KKは火の付いた煙草を持ったままカウンターに突っ伏して、ぼーっとどこかをみつめている。
「まだ仕事あったんだ」
「……さっきのが仕事納め。掃除の仕事はこれにて終了」
「お疲れ様でしたー」
「まだ部屋の大掃除が終わってねぇんだけどな」
 ようやくKKはのろのろと体を起こした。ぼんやりとした顔つきで煙草を吸い込む。
「明日の夜は暇なんだろ? 遊び来いよ」
「なんで」
「年越しのカウントダウンパーティーあーんど、ニューイヤーいらっしゃいませパーティーやるからさ」
「……なにその頭悪いネーミング」
 だるそうに笑ったあと、差し出されたコーヒーを受け取った。MZDはむっとしてその顔を睨みつけたが、KKは素知らぬ表情でカップを口元に運んでいる。久し振りに会ったというのに、つれないのは相変わらずだ。
 ――まぁ、しょうがねぇか。
 思わず苦笑が洩れる。KKが気付いて、なんだよと問いかけるみたいに目を向けてきたが、今度はMZDが素知らぬ顔をする番だ。
「お前こそ珍しいじゃねぇかよ。寝てる時間だろ?」
「んー。早い時間に打ち合わせがあったのと、あと書類の整理」
「ふうん」
 大変そうねと言うので、大変なのよと返してやった。
 フロアの明かりは、普段はハロゲン灯を幾つも点して調整しているのだが、今は蛍光灯がついているだけだ。いつもとは違ってがらんとした雰囲気が強く、少し淋しく思っていたところだった。KKが現れてくれてMZDの心は躍ったが、残念ながら彼がここに来る目的はひとつしかない。
 煙草を二本灰にし、最後にコーヒーを飲み干すと、ごっそさんと呟いてKKは立ち上がった。案の定部屋へ行くようだ。
「あー待って待って」
 MZDはあわててカウンターから抜け出すとKKのあとを追った。
「なんだよ」
「抱きついていい?」
「……」
 しばらく苦い表情のままKKは立ち尽くしていたが、振り切るのも面倒だと思ったのだろう。やがて「どうぞ」とぶっきらぼうに答えた。
 MZDは満面の笑みで抱きついた。愛情補給、と言って両腕でぎゅうと抱きしめる。だらりと下がったままのKKの両手が悲しいが、ここは見ないふりをすることにした。
「何時ぐらいまで居る予定?」
「さあな。店開く前には帰るつもりだけど」
「俺居ないかも知んないけど、泣かないでね」
「……なんで泣かなきゃいけないのよ」
 いつも通りのやり取りだけど、寝不足のせいかKKの返事は重い。あまりに素っ気無いので逆にMZDの方が泣きたくなってきた。腕の力をゆるめて顔を起こし、少しむくれて睨みつけてやる。
「たまには優しくしてくれたっていいじゃん」
 だがどんよりとした目がこちらを見下ろすばかりだ。
「お前はちょっと優しくすると思いっきり付け上がるから嫌なんだよ」
「ひどっ。これでも一応気は遣ってるつもりなんだけどなっ」
「俺のことは気にすんなって」
 諭すような静かな物言いに、MZDはそれ以上なにも言えなくなってしまった。
「寝かせてください」
「……はーい」
 渋々腕を放して、KKが部屋へ向かうのを見送った。扉が閉まり、フロアは再び静寂で満たされる。MZDはのろのろと歩いてカウンターに戻った。KKが飲み終えたコーヒーのカップと、吸殻が二本並ぶ灰皿をみつめながら、顔を横にして突っ伏した。
 せっかく会えたのに、なんだか余計に淋しくてたまらない。いつものことだと言い聞かせてはみたが、釈然としないものが胸に残った。いっそのこと思い切り嫌われた方が気は楽だ。なんだってあんな奴のことで俺がこんなにもやもやと。
 不意に左手の指輪が蛍光灯を反射して光るのが見えた。MZDは指を伸ばして形見を眺めた。
『私のことが嫌いなの? だったらあきらめもつくんだけど』
 ――嫌いになれるなら、話は早い。
 思わず苦笑してしまう。
「俺も成長しねぇなあ」
 愛することしか知らずに生きてきたのに、なにかを嫌いになるなんて無理な話だ。ただ相手が望むなら、わざと嫌われることは出来る。
 相手が望めば。
 MZDはのろのろと体を起こした。カウンターに両手を付き、目の前に散らばる書類をじっと見下ろす。
 やれやれ。
 一度頭を振ると再び書類仕事に戻った。今は悩むよりもやるべきことがある。忙しくて良かった。


 KKが目を醒ましたのはかなり遅い時刻だった。思った以上に長く眠ってしまったらしい。扉の向こうではBGMが流れ、人の気配が感じられた。もう店は開いているのか。頭を掻きつつソファーから起き上がり、腕時計で時間を確認する。午後八時二十分。寝過ぎだと内心舌打ちを洩らしたが、翌日のことを考えれば昼夜が逆転しているのは有り難いことなのかも知れない。とりあえず帰って出来る部分の掃除を始めよう。煙草に火をつけてKKは考える。
 部屋を出ると思った通り店は開店したあとだった。数人のバーテンがKKに気付いて「居たんですか?」と驚いたように声を上げた。お邪魔しましたと言ってそそくさと出ていこうとしたのだが、意外なことに影に呼び止められてしまった。
 とはいえ影は喋れるわけではないから、呼び止めるというのも実力行使だ。フロアを出ようとしたKKの腕をつかみ、ぐいぐいとどこかへ引っぱっていこうとする。
「なんだよ」
 影は、こっちこっちとKKの腕を引く。引きずられるようにして連れていかれた場所は、懐かしいかな、従業員用の控え室だった。
 なかに入るとソファーでMZDが寝こけていた。影は主を指差し、胸倉をつかんで揺さぶる真似をした。どうやら起こせということらしい。KKはその意図を汲みながらも、しばらくじっと立ち尽くしていた。やがて机に乗る灰皿を拾い上げるとソファーに寄りかかるようにして腰を下ろし、煙草を取り出した。
「……なんで居るの」
 影は、うーん、と首をひねるばかりだ。KKは煙草に火をつけ、煙を吐き出しながら振り向いた。MZDが眠っている。
 ――なんで居るの。
 かすかな苛立ちが胸のなかに湧き起こる。
 煙草を一本灰にしてからようやくKKは動いた。ひたひたと頬を叩き、「起きろー」としきりに声をかける。しばらくそれを繰り返していると、わずらわしそうに身じろぎをしながら奴が目を開けた。
「――あれ?」
 KKの姿に気付き、あわてて起き上がる。ぼさぼさの髪の毛を誤魔化そうと両手で梳きながら、
「え、あれ? なんで居るの?」
「なんでって……さっきまで寝てたから」
「え? や、あの、俺変な顔して寝てなかった?」
「別に普通の顔だったけど」
 呆れてKKは答えた。普段はこっちの寝顔などいくらでも見ているだろうに、何故自分が見られる側になるといきなりあわてるんだろう。煙草を引き抜きながら観察していると、奴はしきりに、そっかーならいいんだけどーとうつむきながら繰り返していた。そうしてちらりと目を上げたかと思うと、今度はだらしなく笑いかけてきた。
「やーでも、目が醒める時にKKが居てくれるとは思わなかったなー」
 満面の笑み、というのだろうか。しまりのない顔を見ていると、逆にKKは失笑したくてたまらなくなる。そう、と短く答えて、誤魔化す為に煙草に火をつけた。
「帰るんじゃなかったのかよ」
「んー、時間が中途半端だったからさ、ちょっと仮眠してた」
「あっそ」
 不意に手が伸びてきた。軽く前髪を掻き上げられたので目を向けると、やたら嬉しそうにこちらをみつめている。そうして静かに抱き寄せられた。
「あーもー、KK好き。大好き」
「……」
 KKは横目で影の姿を捜した。壁際にふわふわと浮きながら、主と同じように笑っていた。お前ら二人揃ってバカだなと、思わず心の底で呟いていた。
「反応薄いなあ。なんかないの」
「俺になに期待してんだよ」
 煙草を吸う為に体を離して、逆に訊いてみた。
「なにって――そりゃあ、優しい言葉とか甘いささやきとか」
「なんて言ったら満足するの」
 不意にMZDの笑顔が消えた。こちらをみつめたまま、そろそろと腕を離してゆく。


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