風が吹き込んでくると思ったら、案の定窓が開きっぱなしだった。KKは横になっていた体を起こして腕を伸ばし、指先に引っかけて窓を閉めた。まだ夢から醒め切らぬ目をごしごしとこすり、携帯電話を開いて現時刻を確かめる。
午前一時三十七分。
寝る前に自分はなにをしていたんだろうと画面を閉じながら考えた。部屋の電気は付けっぱなし、寝ている最中にどうにかしたのか灰皿の吸殻が床にこぼれている。KKはそれらをつまんでゴミ箱に投げ入れ、散らばった灰は手でこすって見なかったことにしてしまった。明日も仕事だ。――確かその筈だ。閉じた携帯電話の画面を再び開き、曜日を確認した。水曜日。確かに仕事だ。休みまであと二日。
KKは床から起き上がり、なんでこんな時間に目が醒めちゃったかなあ、とぼんやり思った。朝まであとどれぐらい眠ることが出来るだろう。
部屋の電気を消してベッドにもぐり込み、枕に頭を乗せる。そうして煙草、と思った瞬間に、さっき見ていた夢の感触が戻ってくるのがわかった。内容は覚えていないけれど、悪くない夢を見ていた。もう一度あそこへ戻りたい。そう思うが、きっと駄目だろうなというあきらめが、KKの意識を早くも眠りから遠ざけている。
ここのところ、KKの不眠症は悪化の一途をたどっていた。夏の繁忙期を過ぎていたのが幸いだった。人員的な余裕があるので作業車の運転は誰かにまかせられるし、まったくのど素人を入れていないから自分が指示を出さなくても仕事は進む。中途半端に眠い頭と妙に重い体で黙々とワックスを塗り続けて、早二ヶ月。さすがのKKも、そろそろ医者の世話にならなきゃなんねぇのかと考え始めている頃だった。
何度かMZDの店にも行った。ドアの外の騒がしさがあればいくらかは眠れる。騒がしい方が眠れるというのもおかしな話だが、実際そうなのだからたまらない。なるべく店の主とは顔を合わせないようにしているけれど、みつかっていないわけはないだろう。変なこと言ってこなけりゃいいけど。KKは髪の毛を掻き回し、一度短くうなり声を上げて寝返りを打った。
本音を言えば、MZDが用意してくれたあの部屋に住みたいぐらいだった。空が暮れるのを眺めて今夜は大丈夫だろうかと心配し、明け方の弱々しい光をみつめては、またかよ、と自分に舌打ちをする日々にはうんざりしていた。
絶えることのない音楽と、笑い声とざわめき、それがあれば安心して眠れる。必要なのはそれだけだ。自分のことは無視してくれていい。むしろ構われたらうざったい。
KKは目を開けて真っ暗な部屋のなかをみつめた。そうして小さくため息を吐き出した。誰がそんなわがままを聞き入れてくれるっていうんだ? ベッドのなかで横になり、自分の肩を抱くように腕を回して目を閉じた。甘ったれてやがる。心の底で吐き捨てる。
だけど本当はわかっている。多分今の自分は、実に数年振りに人恋しいのだ。
「おあよ」
半開きの目で呟いたKKを、榊はイスに座ったまま見上げている。なにか言いたげな顔をしているが、KKは無視して予定表を受け取り、さっさと時刻を書き込んだ。
「午後は早稲田合流でいいんだよね」
「ああ。モップ余分に積んでおけ。二階の機械室、剥離するぞ」
「わかった」
帽子をかぶり直してKKは隣の倉庫へ向かった。同僚がおはようと声をかけてくるのには、ども、と小さくうなずくだけだ。みんなKKの体調不良には嫌でも気付いている。
「まーだ調子悪いのか」
ワックスの缶に腰かけて煙草を吸っていた高橋が、からかうみたいに笑いながら言った。なにか言い返してやりたいところだが、上手い文句も思い浮かばない。KKは苦笑を返すだけだ。
「おねーちゃんと濃ゆぅい一発やったら、すっきりして眠れるかもよ」
「高橋さん、そんなんばっかしっすね」
呆れてKKは鼻を鳴らす。
現場に集まるうちの半数は三十を過ぎて所帯も持たず、しかし欲望だけは持て余していますという風な男たちだ。そんななかでこの高橋という中年が一番精力的で、口を開けば女と酒とギャンブルの話ばかり。ある意味気楽でいいが、付き合う体力がない時はひどく神経を苛立たせられるから困ってしまう。
適当に話を切り上げておいてKKは荷物をロッカーに放り込んだ。そうして作業用の靴を拾って起き上がった時、不意に立ちくらみに襲われた。あわてて靴を放り出すとロッカーに寄りかかった。高橋たちは先に外へ出てしまっている。誰にも見られなくて助かった。
――まいったな。
ぐらぐらと揺れる意識を感じながら、香月のところにでも行ってこようかとぼんやり考えた。あの医者なら睡眠薬ぐらいは持っている筈だ。そう思いつつロッカーの扉を閉めると、誰も居ないと思っていたのに榊が立っていた。真似をするようにロッカーにもたれかかり、腕組みをしたままこちらをみつめている。
「大丈夫か?」
KKは一瞬、なんて答えればいいのかわからなかった。そっと目をそらして関係ないところをみつめ、
「……あんたにゃ関係ねぇだろ」
洗剤のこびりついた靴に足を通す。
「しばらく休んでもいいんだぞ」
「休んだって変わんねぇよ」
ぞんざいに答えておいてKKはモップを缶に移し、床に置いた。榊はその場から動かないまま言葉を続けた。
「十二月までは比較的暇だしな。夏のバイトも、少しは手伝えるようなことを言っていたし」
「そうだな。誰かの抜けた穴埋めてもらうんなら、今から仕込んどいた方がいいもんな」
KKはもう一度ロッカーに寄りかかって榊を見た。あちこちしわの増えた顔、口髭も髪も白髪が目立つ。こんな老いぼれ、と思いながらも、KKはどうしても言わずにはいられない。
「俺の代わりはいくらでも居るって話だろ。――クビにしたいんならはっきり言えよ」
悪態をついたのは自分の方なのに、何故か胸がむかむかする。榊はなにも言わないままだ。じっと押し黙ってこちらをみつめている。KKは逃げるようにうつむいて缶を拾い上げた。
「行ってくる」
「……気を付けて」
残っている作業車は一台だけだった。KKは荷台にモップの缶を積むと扉を閉めて後部座席に乗り込んだ。
「はいはい、お仕事出発するよー」
おちゃらけた口調で高橋が言い、作業車は現場を目指して発進した。KKは窓ガラスに頭をもたれかけて外の風景を眺めながら、一体いつまで続くんだろうと考えた。不眠症のことではない。この毎日が、だ。通い飽きた現場で機械のように体を動かし、同僚の言葉に愛想笑いを返し、美味くもない飯を食い、うっすらとした眠りのうちに夜を過ごしまた朝を迎える。
『嫌なら辞めてもらっても構わないぞ』
何度も聞かされた榊の言葉を思い出してKKは口元を歪めた。
――変わんねぇな。
あんたはいつだってそうだ。結局のところ、使い勝手のいい道具が欲しいだけなんだ。
KKから電話がかかってきた時、MZDは珍しく仕事をしていた。といっても、提出された音源を聴いていただけで、基本的には趣味と変わりない。ただヘッドホンで音に集中していたので、テーブルで震える携帯電話の存在にしばらく気付かなかった。
「もしもし、僕ですが」
『仕事中か?』
ヘッドホンを首にかけて「そーでもないよ」と答えながら、なにかあったんだろうかとMZDは考えた。KKの声に力がない。そもそも電話があること自体珍しい。
「大丈夫だよ。どしたん?」
『……』
電話をかけてきたのはKKの方なのに、なかなか会話が進まない。MZDは急かすことなく、ボールペンを指でもてあそびつつ言葉を待った。
『変な頼みで悪いんだけどさ』
「うん」
『……ちょっと、寝るまで居てくんねぇか』
即座に疲れた顔のKKが思い浮かんだ。そういえばここのところ、ずっと顔色が悪かった。事情は訊くまでもないだろう。MZDは楽譜と書類をまとめながら「いいよ」と返事をしていた。
「俺、仕事持ってくけどいい?」
『いい。っていうか、仕事しててくれ』
うるさい方が眠れるというのもおかしなものだと笑って電話を切った。確認したら着信は二度目だった。珍しいこともあるもんだ、だから今日は雨なのかな。
MZDは口笛を吹きながら荷物をまとめた。バーテンの一人に出かける旨を伝えて店を出る。雨は小降りになっていたのでそのまま宙へ飛んだ。タオル用意しといてと言えば良かったかな、と思ったが、多分KKは準備してくれている。頼みごとなんて、本当にらしくない。
十月半ばを過ぎて季節は一気に様変わりした。それまで猛暑の名残が長々と続いていたのだが、ここに来てようやく世界は秋という季節があることを思い出したらしい。暑さにあえいでいた街路樹も、やっと落ち着いて色褪せ始めたように見える。MZDは意外と秋が好きだ。四季の穏やかな移り変わりのなかに身を浸し、安穏と日々を過ごすのは、存外悪くない。
案の定KKはひどい有様だった。疲れ切った顔でベッドに腰を下ろし、窓から入り込むMZDの姿を力のない目でみつめている。俺が居るだけでなんとかなるんだろうかと神様が不安になるほどだった。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃねぇから呼んだんだ」
「そだね」
MZDは濡れた服をタオルで拭い、その合い間に、思わず手を伸ばしてKKの体を抱きしめていた。
「なんだよお前、珍しい顔して」
「なに、珍しい顔って」
「困ってる」
そう言うとKKは驚いたように目を見張ったが、しばらく考え込んだあとに、そうかもな、と呟いた。
「こんなにひどいのは初めてでな」
そう言って片手で顔を拭い、ぼんやりと床の上へ視線をさまよわせた。荷物をテーブルに置いたMZDは、そんなKKの姿を立ったままみつめている。髪に手を触れると、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。