――よく聞いて。
 何度も何度も断った。だけど彼女もあきらめなかった。何度もやって来ては説得しようとした。私のこと嫌いなの? それならあきらめもつくんだけど。――いっそのこと嫌いだとウソをつけば良かったのだ。それなら話は早かった。
 ねえ、よく聞いて。俺は君たちと同じ場所には立てないんだ。年老いたりしないし、死の恐怖も知らない。結婚したって子供も残せない。そんな不毛な結婚、意味ないだろ?
 ねえ神様、よく聞いて。あなたが愛そのものであることはみんなが良く知っている。だけど実際のあなたは臆病風に吹かれてなにもしようとしない。あふれんばかりの愛があったって、誰にも分け与えなければなにも持っていないのと同じじゃない。あなたってそんなにちっぽけな存在だったの?
 ……君に幸せになって欲しいだけなんだけど。
 あなたがそう出来るのよ。あなた以外の人なんて絶対に嫌。今ここでうんって言ってもらえないんだったら一生一人で淋しく暮らす方がマシだわ。ねぇ、もう私の人生に関わってるの、わかってる? もしあなたが普通の人間だったら素直に結婚してくれたの? それとも、そんなの関係なしに私のことが嫌いなの?
 MZDは力なく首を振った。……好きだよ。勿論、好きだよ。
 彼女は微笑むとその手を取り、指輪をそっと滑らせてきた。
 臆病者の神様、私があなたを人間にしてあげる。これから毎日同じ朝を迎えて夜を迎えるの。今までは草が鳴って初めて風の存在を知るように隠れてたんでしょうけど、これからはそうはいかないわよ。あなたの歴史を一緒に作りましょう――。
「……なんか、かわいいじゃん」
 MZDは照れ笑いを浮かべている。だけどやがて小さく首を振った。
「でもさ、……やっぱり死んじゃうんだよな。覚悟してたけど、やっぱきつかった」
 彼女の死と共に、彼女のなかにあった自らの歴史も失われた。MZDは再び姿を消した。気まぐれな風のように突然現れ、突然消える。音楽を通じて仲間を得るまでは、そんな風にただ存在するだけだった。それで満足していた。それが当たり前なんだと思っていた。
 指輪を見るたびに彼女を思い出す。そうして幾度となく自分に言い聞かせ続けた。
 もう二度と。
 二度と誰かのなかに残りたいとは望まない。
 結局いつかはその人も消えてしまう。
 そうしてまた取り残される。……誓った筈なのに。
「KK」
 手を引かれて顔を上げた。
「一個、お願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「……俺のこと忘れないで」
 誰がお前みたいな変な奴――茶化しかけた言葉は口のなかで溶けてしまった。うつむいて手を握るMZDはなんだか子供のように見えた。
『五年後だ』
 誰だって、他人に依ってしか自分を知ることが出来ない。誰かに名前を呼ばれて初めて自分が存在する。
 ――待って。
 その人はいつも遠くに居た。自分よりもはるか先を歩き、ちっとも立ち止まってくれなかった。置いていかれそうなのが恐ろしくて、KKは必死になってあとを追った。待って、そう懇願する言葉が口から出そうになるたびに、いつもその人は振り返った。そうして試すようにKKを見た。
 その目はいつも同じことを語っていた。――別にお前など必要とはしていない。お前が遅れてどこかに消えてしまっても構いやしない。
 懇願の言葉が喉に詰まる。足が痛くなって、息が切れて、もう少しで倒れてしまいそうになるのをKKは怒りによってこらえ続けた。自分の価値は道端の石ころ以下だ。だけど、あの男に認められなかったら、俺は一体誰だっていうんだ?
 我慢する為に唇を噛みしめ、そこから血が流れても、それでもKKは男のあとを追い続ける。時に姿を見失いそうになり、大声で泣きわめきたくなっても、そうしたとたんにお払い箱になるのを男の目が語っている。
 冷たい目だ。人でなしの目だ。こっちが子供だろうと容赦はしない。男は自分に価値を求めている。使えるかどうか、それだけを見極めようとしている。
 KKは言葉を呑み込む。ぎゅうと腹の底に押し込んで、意味もわからずに歩き続ける。
 MZDが手を握りしめた。泣きそうな目でこっちを見上げ、後悔するようにすぐにうつむいてしまう。KKはその手を握り返し、わかるよ、と呟いた。
 誰だって置いていかれるのは怖い。
 いつも言葉を呑み込んでいたからそれが当たり前になってしまったけれど、本当は、いつも心のなかで叫んでいた。
 ――待って。
 俺がここに居ること忘れないで。


「KK」
 手に唇が触れた。
「KK、好き」
 煙草が吸いたい、と思う。
 組んでいた足をほどき、残り少なくなったビールを飲もうと持ち上げながらも、途中で手が止まった。
「……ジィさんが」
 呟きにMZDが顔を上げた。不思議そうにこちらを見上げている。
「五年後に引退するって」
「――引退?」
「引退とは言わなかったけど。……五年経ったら俺の代になるから好きにしろって」
「なんで五年?」
 そんな先の話を何故今からするのか。
 榊の「五年後だ」という言葉が、KKのなかで不意に重い実感を伴って湧き上がってきた。死ぬつもりなんだ――と、今までぼんやり感じていたものがいきなり現実となって目の前に突きつけられた気がした。
 ――あぁ、そうか。
 ジィさん、死ぬって決めたんだ。
「……だから?」
「え?」
「だから今日、あんなに疲れた顔してたん?」
「……してたか?」
 手を離して顔を撫ぜた。自覚はなかった。
「だからあんなこと訊いたんか」
 MZDの声は怒りでわずかに震えている。
「お前、人殺してるクセに、身内が死ぬのは耐えられないんだな。って言うか、やっぱりジィさん以外のことはどうでもいいんだな」
「なんだよ」
 なにを怒られているのかさっぱりわからなかった。不意に立ち上がったMZDをKKはぽかんとした顔でみつめていた。
「ジィさん死ぬのがそんなに嫌か」
「……嫌とか、そういう問題じゃねぇだろ」
「ウソだね。思いっきり動揺してるクセに」
「してねぇよ」
「五年も待たされんのが怖いんだろ。毎日毎日、あと何年、あと何年ってタイムリミット迫ってくるのが怖くてたまらないんだろっ」
 アタッシュケースに叩きつけるようにして缶を置いた。
「……なんなんだよ、さっきから」
 確かに多少の動揺はあった。病気が原因で余命を告げられたのとは意味が違う。あの男が決めたことだ、安易に覆されるとは思えない。
 MZDは、しかし嘲笑うように鼻を鳴らすだけだった。
「お前も所詮はその程度か。あーあ、がっかり」
「……」
「そんなに怖けりゃ俺が心配の種取り除いてやるよ。五年後も今もたいして違いないもんな!」
 そう叫ぶと奴は壁の向こうへと消えていった。KKは真っ黒な壁をみつめ、憎々しげに舌打ちを洩らした。なにが気に食わないのかさっぱりだ。そうして缶ビールを拾い上げて中身を飲み干し、
 ――まさかな。
 俺が心配の種取り除いてやるよ。
 壁の向こうでは大音量で音楽が続いている。KKは一度ソファーに横になろうとして思いとどまり、また壁をみつめ、それからあわてて立ち上がった。
 扉を開けると予想以上の音量で音楽が耳に飛び込んできた。人込みを想定していたKKは、だからいきなり首の辺りをつかまれてどこかに引き寄せられるとは思いもしなかった。少しお辞儀をするような格好になったKKの額に、思いっきり頭突きが食らわせられる。
 目の前で星が飛んだ。
「お前ホントにジィさん以外どうでもいいんだな! なんだってそんなに自分勝手なんだよ! なんでそんなに大事に出来る人居るのに人殺せんだよ! 俺の愛の告白も盛大に無視ですか、このろくでなしが!!」
 MZDが泣きそうな目でこっちを睨みつけていた。咄嗟のことでなにが起こったのかよく理解出来なかったKKは、額に手を当てたまま奴の顔を見返すばかりだった。
 不意に胸を突かれて部屋へと押し戻された。ぐいぐいと押しやる腕から逃げるように後退を続け、やがて奴が後ろ手で扉を閉めた。
「すっげー腹立つ」
「……」
「すっげーむかつく。マジで吐きそう」
 KKは舌打ちを洩らすとどっかりとソファーに座り込んだ。MZDはこちらを睨みつけたまま立ち尽くしている。その視線を受けて同じように睨み返し、
「喧嘩売るってんなら買うぞ」
 奴はわずかに口をゆがめた。そうして不意にうつむくと、いきなりその場にしゃがみ込んで頭を抱えてしまった。
「あーもう、なんでかなあ」
「……」
「なんで俺、好きな人には嫌われるかなあ」
「てめえのことなんざ聞いてねぇよ」
 くだらねぇと鼻を鳴らして缶を取り上げた。だが中身はからっぽで、KKは苛立たしげにそれを握り潰すと壁に向かって投げつけた。
 今更のように動揺が襲い掛かってきていた。
 五年後。
 奇しくも奴の言った通りだ。既にカウントダウンが始まっている。これから年を越すたびに、あと四年、あと三年――そんな風に思わなくてはいけないのだ。
「くそっ」
 テーブルを蹴りつけた。それでおしまいになった。もう二人ともなにも言わずに、おのおの好き勝手な方を向いて、ただ黙っていた。
 しばらくしてKKが煙草を取り上げると、それが契機になったように奴も立ち上がり、ソファーに座り込んできた。KKが吐き出す煙の行方を追い、
「やな話だよな」
 ぽつりと呟いた。
「ジィさんって意地悪だな」
「性格悪いんだよ、あの男」
「昔からか」
「……まあそうだな。昔からだな」
 特に仕事の時は顕著にそれが出た。ひどく冷静で、少しでも失敗すると役立たずと何度も罵られた。
「よく嫌になんなかったな」
「そうだな。……ほかにどうしようもなかったからな」
 小さく苦笑して、目の前のアタッシュケースを眺める。
 ほかに、どうしようもなかった。あとを追うことしか考えられなかった。少しでも泣き言を洩らせば平気で置いていかれる。
 あの目がいつも語っていた。お前など居なくなっても構わないんだぞ――。
「……っ」
 不意に鼻の奥が痛み、あわてて唇を噛みしめた。そっぽを向いた時わずかに涙が落ちるのがわかった。悟られるのが嫌でじっと耐えていたが、やがて首に手をかけて抱き寄せられてしまった。
「……離せよ」
「やだ」
 言いながら、逃げることもしなかった。気持ちを落ち着かせようと深く息を吐き、ゆっくりと力を抜いていった。
 奴の手が煙草を奪っていく。それを灰皿に置くと、空いた手をそっと握りしめられた。
「前もって予告されるのって、ホントに嫌だよな」
「……」
「ジィさん、マジで性格わりぃな」
「性格悪いんだよ…っ」
「でも死なれるのも嫌だよな」
 もう言葉が出なかった。KKはうつむいて顔を寄せ、唇を噛み、じっと涙をこらえていた。手に力を入れると、痛いほど握り返してくれる。
 奴はずっと髪を梳いていた。時折慰めるように頬に唇を触れ、そうして強く抱きしめた。
 やがてそろそろと体を起こしていった。
「KK」
 握り合った手をぼんやりと見下ろしている。一度奴の手が前髪を掻き上げたけど、顔は上げなかった。
 手を引かれて顔を寄せた。額をくっつけたまま、しばらく沈黙が続いた。
「……ひどいこと言ってごめんな」
 KKは体を離して、ただ首を振った。安堵のため息が小さく聞こえたあと、奴が立ち上がった。離れていこうとする手をKKはあわてて引き止めた。驚いて足を止めたMZDになにも言えないまま、それでも懇願するように強く手を引いた。
「……」
 ――待って。
「KK?」
 KKは首を振る。
 ――待って。行かないで。
「……用があるなら、いいけど」
 そう言って離そうとする手を、今度は奴が握りしめてきた。
「なんもないよ。そばに居てあげる」
 KKは思わず苦笑した。
「嫁さんの台詞だな」
「だね」
 さっきと同じようにソファーに座りながら、MZDも苦笑した。
「じゃあお前があの時の俺だ。怖くてなにも出来なかった俺」
 MZDはそっと手を持ち上げて唇を触れた。真剣な眼差しでこちらをみつめている。
「俺のこと嫌い? だったらあきらめもつくんだけど」
 KKはなにも言えずにうつむいた。握られた手からは力が抜けてしまっている。KK、と催促するような呟きに、ずいぶんと逡巡を繰り返してから、首を横に振るしか出来なかった。
「ありがと」
 頭のなかがぐちゃぐちゃだった。自分がなにをしたいのかよくわからなかった。ただ――。
 ――行かないで。
 頼むから、一人にしないで。
 顔が近付いてきて唇が触れた。うかがうようにのぞき込む目を見返して、そっと目を伏せるともう一度唇を重ねた。
 言葉はない。
 そのまま、長いこと抱き合っていた。ずっと奴の手が髪を梳いていた。


神経衰弱/2007.08.07


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