KKは事務所で机に着いて缶コーヒーを飲み、隣の席で榊が地図帳をめくるのをぼんやりと見守っている。
「あった。ここだ」
 そう言って榊は互いの机がくっついてる辺りに地図帳を置き、ページがめくれてしまわないよう上にセロハンテープの台を乗せた。フタをしたままのボールペンで、ここ、と榊が示す場所をのぞき込んだKKは、海が近いんだなと関係のないことを考えていた。
「このビルの十二階」
 言いながら榊は一枚の図面を引っぱってくる。地図に描かれた方角を合わせて、この部屋だ、と図面に丸を付けた。KKは図面に描かれた嵌め殺しの窓から見えるであろう風景を地図のなかに探した。しかしデパートや病院の名前はあるが、訪れたことのない土地ゆえに現場として使える建物があるのかは榊の報告を待つしかなかった。
「ここにあるビルに入れることになった」
 榊は地図帳に戻って目標から真南のある地点に小さく印を付けた。KKは欄外に書かれた縮尺のメモリを頼りに大まかな距離を計算した。直線で二百五十から三百メートルといったところだろうか。風の影響がどれぐらいあるのかが問題だなと考えながら煙草を引き抜いた。
「当日は夕方からパーティーがあるそうだが、必ず一度会社には戻るという話だ。二十一時から二十三時のあいだと考えておけ」
「戻りの足は?」
「手配済み。ただ少し電車で移動する。あとな、スーツ着てこい」
「はあ!? マジで?」
「マジで」
 とぼけたように答えて榊は缶コーヒーを拾い上げる。
「現場は普通のオフィスビルだ。夜勤清掃のフリで入ることも考えたんだが、調整が面倒でな。商社相手の商談か、なにかのクレーム処理で入る取引先ということになった」
 KKは煙を吐き出しながら思いっきり顔をしかめた。このくそ暑いのにとぼやいても榊は涼しげな表情を崩さない。
「スーツがないなら新調しとけ」
「埃かぶってんのが一着あるよ。――あ、でもあれ、夏用じゃねえな」
 ワイシャツもどこにあるのか覚えていない。この際だから一着上下で揃えてしまおう。黒っぽいのにしておけばジジィの葬式にも使える。冗談でそう言うと、「それはいい考えだな」と榊が笑った。
 長い梅雨がようやく明けた七月下旬。半年振りの「仕事」だった。
 毎度のことながら手筈の周到さには舌を巻く。いつかはこれを一人でやらなければいけないのだと考えると気が重かった。裏を固める人間は得意分野にそれぞれ配置されているが、おのおの細かく連絡を取ることを考えたら、多少面倒でも一人で下見に行って一人で実行する方が断然気が楽だった。
 実際手筈を整える為の顔合わせにも何度か連れて行かれるようになっている。どうせなら便利な人間になっておけと昔から言われているが、それは単にジジィが手を広げすぎているだけじゃないのかとKKは考えていた。
 別に無理に続けなくてもいいような仕事だ。頼まれれば金次第で引き受けないこともないが、誰かを食わせる為に嫌々動く必要はない。一番リスクが大きいのは実行犯の自分たちだ。下見や調整の連中はおこぼれで甘い汁を吸っているだけなのだから。
「まぁ、どのみちまともに生活の出来る人間は一人も居ないがな」
 帰り支度をしながら榊は言った。
「だからさ、別に俺らが連中の面倒見てやる必要はないわけじゃん」
 そもそも稼ぎの半分近くは連中に奪い取られ、こっちはリスクが高いばかりでたいした儲けにもなりはしない。ここまで面倒に仕立て上げたのは当の榊だ。その理由を手間が省けるからと言うが、KKにしてみればあまり違いはないように思われた。
「お前の代になったら好きにしろ。私は別に構わんぞ」
「へえ?」
 俺の代っていつ来んの。冗談めかしてそう訊くと、
「五年後だ」
 やけにきっぱりと榊が答えた。
「……へえ。じゃあ五年経ったら半分はリストラだな」
「かわいそうになあ。ちゃんと退職金は出してやれよ」
「だからそれが面倒だっつうの」
 二人は話をしながらビルを出た。向かい側にある焼き鳥屋が換気扇からもくもくと白い煙を吐き出している。榊は鳥の焼ける匂いに足を止め、つられてKKも足を止めた。
「――飯でも食っていきますか」
「ご馳走様です」
「誰も奢るとは言ってない」
「いいじゃん。ボーナス出たんでしょ?」
「お前だって出ただろうが」
 ビールビール、と呟きながらKKは先に立って店へと向かった。暖簾をくぐって扉を開けると、らっしゃい、毎度、と威勢のいい掛け声がぶつかってくる。店の隅のテーブル席に身を押し込んで生二つ、と注文しながらメニューを開く。向かいに座った榊も煙草を取り出しながら同じようにメニューをのぞき込んできた。
 ――まるで最初からこの世に存在しなかったかのように。
 そんな風に、ある日突然姿を消すのだろう。五年、という区切りを聞いたのは今日が初めてだった。だけど恐らくずっと以前から決めていたのだ。榊の言葉に迷いはなかった。
 五年後、榊の痕跡が消える。
 今こうして向かい合い、つまみにあれこれケチをつけるこの声も、煙草の煙も、なにもかも。


 フロアに足を踏み入れた瞬間、来るんじゃなかったなと後悔の念が押し寄せてきた。イベントの日らしく客でごった返している。天井に向けて叩きつけるように鳴らされる音楽とステージに詰め寄る観客の群れに眉をしかめ、KKは薄暗いバーカウンターへと逃げ込んだ。
「なんにします。――あれえ?」
 一個だけ空いていた隅っこのスツールに腰を下ろすと、バーテンの晃が珍しそうにしげしげとこちらの顔をのぞき込んできた。
「どうしたんですか。おめかししちゃって」
「別に。――仕事だよ」
 言いながらKKは煙草に火をつけ、ネクタイをゆるめた。黒に近い灰色の背広上下と革靴、アタッシュケース。念の為にと細い銀縁の伊達メガネ。髭を当たっていないのが引っかかるが、一応どこから見ても普通の勤め人だ。明かりの落ちたカウンターでは闇に溶け込んで落ち着いているが、ひとたびライトが戻れば、なんでこんなところにサラリーマン? という風に、逆に悪目立ちしている気がする。
 KKは酒をもらうとステージから顔をそむけるようにして煙草をふかした。メガネを外して胸ポケットへ入れ、がりがりと大げさに髪の毛を掻き回す。やはりこういう格好は落ち着かない。
「いよっ」
 背中をこぶしで殴られ、反射的に睨み返していた。MZDが苦笑しながら降参というように両手を挙げてぶらぶら揺すっている。
「そんなに怖い顔しなくたっていいじゃーん」
「……生まれつきでな」
 投げやりに呟いてKKは酒を飲む。やはりスーツ姿が珍しいらしく、MZDはカウンターに寄りかかりながらじっとこちらを見下ろしてきた。
「仕事?」
「仕事」
「意外と似合うじゃん」
「そりゃどうも」
「でも大変だね。いちいちそんなの着なきゃいけないなんてさ」
 ね、と同意を求めるように笑っている。KKは煙草の煙を吐き出して、
「……そうかもな」
 足元に置いたライフル入りのアタッシュケースを爪先で軽く蹴飛ばした。
 やがて隣の席が空くとMZDが座り込んできた。晃からコーラをもらい、カウンターに寄りかかってステージへと振り向いている。お前はやんないのと訊くと、今日はお客さんだからと笑った。音楽が大音量でかかっているので互いの耳元で怒鳴るようにしなければ声は聞こえない。
「なあ」
 腕をつついて振り返らせた。
「お前の知り合いでさ」
 訊こうと思ったのに、言葉が喉の奥で引っかかった。不思議そうにこっちを見るMZDに向かって、なんでもない、と首を振ると、KKは煙草をもみ消して立ち上がった。晃からよく冷えた缶ビールを売ってもらって部屋へと向かう。
「淋しかったら添い寝したげるよ」
 からかうような口調に、ただ小さく笑い返した。
 部屋の明かりをつけて扉を閉めるとようやく落ち着いた。音はまだ聞こえるがさっきに比べればずいぶんマシだ。アタッシュケースをテーブルに載せ、その上に缶ビールを置き、背広を着たままソファーになだれ込む。ぼんやりと天井を見上げていると、やがて扉がノックされた。
 返事はしなかったが扉が開いた。MZDがするりと部屋に入り込んできた。
「別に添い寝はいらねぇぞ」
「あら残念」
 さして残念そうでもない顔で奴は言い、ちょっと居させてよとソファーに寄りかかる格好で床に腰を下ろした。KKはしばらくしてから体を起こし、のろのろと上着を脱いでネクタイを外した。缶ビールを拾い上げてフタを開け、ひと口ふた口、特に美味いとも思わずに飲み下す。
「大変だったの?」
 声に振り向くと、MZDが雑誌をぱらぱらとめくりながらこっちを見上げていた。
「なにが」
「仕事。――なんか疲れてそう」
「別に……」
 昼間の作業をこなしたあと立て続けの仕事だったから大変といえば大変だが、この程度ならいつものことだ。KKは肩をすくめて煙草へと手を伸ばした。
「ねぎらいの言葉でもいただけるんですか」
「するわけないじゃん」
 冷たく言い放って奴は雑誌に目を戻した。明らかに不快そうな表情が横から見えた。KKは苦笑すると煙草に火をつけ、ゆっくりとそれを吸い込んだ。
「……ちょっと、元気なさそうだなって思っただけ」
 取り繕うような呟きが聞こえた。見ると奴は雑誌から目を離してテーブルの上をみつめていた。そうしてぎこちない動作で振り返ってくる。KKは口の端を持ち上げて笑い返すとソファーの上で座り直した。指で灰皿を引き寄せて足の上に載せる。
「お前さ」
 少しためらってから、思い切って訊いてみた。
「今までに死なれて、一番悲しかったのって誰?」
「――やなこと訊くなあ」
 MZDは雑誌を放り出して盛大に顔をゆがめた。両膝を抱え込み、そこへ顔を突っ伏してしまう。KKはおとなしく返事を待っていた。くだらないことを訊いたなという自覚はあった。
「なんで?」
「え?」
 ちらりと目を上げて逆に訊き返してきた。
「なんでそんなこと訊くん?」
「……」
 上手く答えられなくてまたKKは肩をすくめた。嫌ならいいけど。誤魔化すように呟き、煙草の灰を叩き落とす。
 奴はしばらくこっちを見ていた。真意を探ろうとしているのか、妙に真剣な眼差しだった。KKは逃げるように目をそらせてしまった。自分でも何故そんなことを訊いてしまったのか良くわからなかった。
「――これくれた人」
 しばらく経ってから、観念したようにMZDが左手を上げた。蛍光灯に照らされて、薬指に嵌められた飾り気のない指輪が鈍く光を返している。
「すごく好きだった人。……もう、ずっと前に死んじゃったけど」
「……結婚してたんだ」
「んー、はっきりそうとは言えないんだけどね」
 俺様人間じゃないし。おどけて言ってみせるが、目は淋しそうだ。
「もうずっと前だよ。お前が生まれるずーっと前。大昔」
 そう言ってMZDは言葉を切った。軽く唇を噛んでうつむき、じっとなにかを思い描いている。
 ――やなこと訊いたな。
 今更のように後悔の念が押し寄せてくる。だけどKKはなにも言えずに言葉を待っていた。煙草をもみ消して缶ビールへと手を伸ばす。その手を、不意に止められた。
「俺、泣くかもよ」
「……」
「ウソ。冗談」
 MZDはKKの手から缶ビールを奪い取るとゆっくり飲んだ。そうして缶を返し、
「誰が死んでも悲しいんだけどね。そんなのは当たり前だけど、特に誰って訊かれたらこの人かな。……すっごく泣いた。いっぱい泣いた。なにしてても泣いてた」
「ふぅん」
「俺も、死ねたらいいのにって思った」
 ぎこちない空気をどうにかして誤魔化したかった。自ら招いた結果とはいえ、あまりにも軽率すぎた。KKは小さく咳払いをして足を組んだ。灰皿をソファーに置き、またちびりとビールを飲んだ。
 気が付くと奴がこちらに振り返っていた。なんだよ、と目を向けると、MZDは照れたように笑ってみせた。
「……手、握ってもいい?」
 少し迷った末に右手を差し出した。奴は指先をそっと握ってくる。そうして唇をわずかに触れて、しばらくのあいだ考え込んでいた。
「彼女が死んだ時にさ」
「……うん」
「俺の歴史も消えちゃったんだよ」
 意味がわからなくてMZDを見た。奴はちろりと目を上げてこちらを見返すと、自嘲するように唇をゆがめた。
「すっごい長生きじゃん、俺って」
「……長生きって言うかさ」
 そもそも根本からして違う存在なのだから、そんな風に言われてもどう返事をすればいいのか困ってしまう。
 言葉に詰まるKKを見て、MZDはおかしそうに笑った。
「今までに知り合った奴のことは全部覚えてるよ。一人も忘れてない。……いろんな奴が居て、いろんな人生があって――みんな一生懸命でさ」
 すごいよね、人間って。ぽつりと呟いた。
「何食わぬ顔で交じってることもあったけど、やっぱりなんか失礼だなって思うんだよな。俺は、腹は減るけど食わなくたって死なないから頑張って働くこともないし、病気もしないし怪我も平気だし。だから少し離れて見てる。いっつも。……それでいいんだ。誰かに個人的に深く関わってあれこれ口出しするのはフェアじゃないと思ってたんだけど」
 MZDは言葉を切って指輪に視線を落とした。
「……彼女が、そばに居てあげる、って」
「――嫁さん?」
「うん」
 うなずいて、ソファーに頭を乗せるように座り直す。
「人間の苦労を知りなさいって言われた。いつまでも高みの見物じゃなにも変わらないわよ、だってさ」
 当時のことを思い出したのか、奴はおかしそうに小さく笑った。
「神様に説教とはいい度胸だな」
「さすがは俺の嫁だろ」
 MZDは苦笑する。


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