「おっはよー」
 ジィさんに信用されていない俺も、人手が足りなければ現場には呼ばれる。そういうのはたいてい夜勤だったり早朝出勤だったりするからあんまり嬉しくないんだけど、まあ変わった作業内容だったりもするから、普通の掃除仕事に飽きてるこっちとしてもちょっとは有り難い。
 で、人手が足りないから当然ほかにも人が呼ばれているわけで、そういう時はだいたい初顔の人が居たりもする。入ったばかりのアルバイトとか、その日の為に急遽呼ばれた人だとか。
 久々にお声がかかった掃除仕事は夜勤の現場で、繁華街にあるファッションビルの一斉清掃だった。ほかのみんなはどうやら昼間も仕事してきたらしく、俺が現場着いたら一様に疲れた顔でお出迎えしてくれた。
「なにみんなして萎びちゃってさー、枯れるにはちょっと早くない?」
 なーんて軽口叩きながら作業車の後部座席のドアを開けた瞬間、妙に堅苦しい挨拶の言葉が俺を待っていた。
「おはようございます」
 なかに座ってたのは男の子だった。黒縁メガネにちょっと切りすぎたみたいな黒い前髪。与えられた青のつなぎはぶかぶかと言ってもいいほど大きくて、袖と裾をこれでもかってほどにめくり上げている。
 夜勤に出るんだから十八才にはなってるんだろうけど、緊張してぎゅって結んだ口元にはまだ子供っぽさが残ってた。
「バイトのナカジ君。今日が初出勤。よろしくしてやって」
「よろしくお願いします」
 座席に腰掛けたまま深々と頭下げられて、俺はなんか一瞬面食らってしまった。あ、どもーなんて言いながら車に乗り込んで、意味もなく静かに扉閉めてみたり。
「え、なか、なかじ君?」
「はい」
「どういう字書くの?」
「なかそとの中に道路の路です」
 教えてもらいながら頭のなかで漢字を書いてみる。……ちょっとかっこいいかも。
「そっか、初仕事で夜勤じゃきっついねぇ」
「はあ」
 俺は荷物のなかから掃除用の汚れた靴を取り出して足元に置いた。その時、見馴れないものが目に飛び込んできた。
 ゲタ。
 しかも新品じゃありませんよかなり履き込まれてるみたいでちゃんと足の形に板が汚れてる。
 俺、なんか知らないけどそれ見た瞬間笑っちゃった。うわすげぇゲタだよゲタ、なにこれ誰が持ってきたのいつ使うのこんなもの、剥離やってる時に履いちゃうつもりですかそれって自殺行為でしょねえねえねえ。
 俺が騒いでるのに、運転席と助手席に座った二人は苦笑いを返すだけだった。
「ねねね、誰の? これ、誰の?」
 俺が座席を揺らしながら訊くと、前に座った二人は同時に後ろを指差した。つられて振り向くと、新人バイトのナカジ君がこっちを見てた。
「……え、ナカジ君の?」
「はい」
「え、なんで? あ、わかった、舞台かなんかで――」
「普段履きです」
「……え、いっつもこれ履いてんの?」
「はい」
「ふうん……」
「……」
「……あ、でもちょっとかっこいいよね! なんか古風な感じでさ、ホラなんてったっけ、学ラン着て帽子かぶってなんかこうマントみたいなの羽織ってる感じで――」
「バンカラですか」
「そうそれ! バンカラ! 古き良き時代って感じで、」
「そうですね」
「……」
「……」
「…………ねー」
 必要以上に満面の笑み作ったまんま、俺は窓の外を向いた。そうして思った。
 ――やっべ、俺この子苦手かも……!
 無表情の相手はKちゃんで馴れてるつもりだったけど、俺ちょっと甘かったみたい。コーヒー買ってくると言って車を抜け出した俺は、即行で携帯電話を取り出した。勿論かける相手はKちゃんだ。
『なんだ』
 背景にわずかに流れる音楽と共にKちゃんのいつもの声が聞こえてきた。俺は耳の奥にその声を染み込ませてから言った。
「Kちゃん」
『なんだよ』
「Kちゃん愛してる」
『……』
「なんか言ってよぉっ」
『うるせぇな、仕事はどうしたんだよ』
「これから。ちょっとコーヒー買いに出てきた」
 自販機に小銭を滑り込ませてボタンを押した時、誰かに肩を叩かれた。振り向くとジィさんで、煙草をくわえたまま片手を挙げていた。俺は携帯電話に向かいながら小さく頭を下げて缶を取り出す。そろそろ開始時間が近いみたいだ。
「仕事始まりそうだから切るね」
『おお』
 なんの為に電話してきたんだよと愚痴られたけど、いいんだ、声が聞けたから。
 車に戻るとほかの作業車も到着していて、荷物を下ろしたり入館手続を済ませていたりと、着々と準備が始まっていた。俺は買ったばかりの缶コーヒーを開けて一気に飲み干すと、気合を込めてごみ箱に放り込んだ。
「うっしゃー、ちゃっちゃと終わらせようぜー」
「なに張り切ってんだよ」
「だって最愛の人が俺の帰りを待ち侘びてるんだもん」
 俺のそんな言葉を聞き馴れているみんなは、はいはいって感じで軽く流してしまう。唯一反応を見せてくれたのは、(ま当然と言えば当然だけど)初顔合わせのナカジ君だけだった。
「最愛の人、ですか」
「え、うん」
「……」
「え、なに、羨ましい? ねねね、そういえばナカジ君って彼女居るの? ちなみにどんなタイプが好みなの? やっぱ奥ゆかしい感じ? 大和撫子みたいな、」
「そうですね」
「……」
「……」
「…………ねー」
 いいよねー可憐な感じの娘、なんて言いながら俺はモップの缶を持ち上げる。そうして思った。
 ――駄目だ、この子タイミングがわかんねー!
 世渡り上手が得意技であるこの俺が、一人の少年を前にして今本気で泣きそうだった。ってか泣いていいかな? まだ仕事始まってないけど、即行で帰りたくなってきた……。


「……っていう子でね」
「ふうん」
 俺の話を、Kちゃんはソファーで横になったままだるそうに聞いている。うつ伏せになって顔をこっちに向けて、片手を床に垂らした格好。
 ソファーの脇の床で横になっている俺は、目の前でぶらぶらと揺れるKちゃんの手を握ったり放したりしながら、ぽつぽつと夕べの出来事を喋っていた。
 仕事が終わったのは朝の五時過ぎだった。車で近所まで送ってもらってのろのろ歩いて帰ってくると、Kちゃんは何故かソファーで眠りこけていた。
 まさかとは思うけど、俺が帰ってくるの待っててくれたのかな、なんて思いながら寝顔見てたら、一人だけベッドに行くのは申し訳ないような気分になってしまった。
 なんか色々と面倒になっちゃったから、部屋から毛布と掛け布団を持ってきて布団の方をKちゃんにかけて、俺は着替えもせずに毛布にくるまって床で眠った。
 出来ればソファーになだれ込みたかったんだけど、そんなことしたら多分殴られるのでひとまず我慢。でもなんとなく、仕事終えたあとのKちゃんがベッドにもぐり込んでくる時の気持ちがわかったような気がした。大袈裟かも知れないけど、それくらいの威力はあった。
 目を醒ました時、居間には午後の光が差し込んでいた。Kちゃんはとっくに起きてたみたいだけど、ずっとソファーで横になってた。
 俺が起きるとコーヒー飲むか、なんか食うかって、色々訊いてくれる。とりあえずコーヒーだけもらって、それから二人でぼーっとしてた。晩飯は外に行こうってだけ決めて。
「ナカジって珍しい名前だな」
「ねー。最初聞いた時、なんかあだ名なのかと思っちゃった」
 そう言って俺はやっと起き上がる。座ったままソファーのKちゃんに抱きつくと、Kちゃんは仰向けになって俺のこと抱き返してくれた。胸の辺りに顔を置いて、頭撫でてくれる感触に目をつむる。
「そういえばKちゃんの本名って、なんて言うんだっけ」
「は?」
 表札に書いてあるだろ、って素っ気なく答えられた。そうじゃないでしょう。あれは組織が付けた偽名じゃないですか。
「……もう忘れた」
「うっそ」
 ご冗談を、と呟いて俺は立ち上がった。毛布を床に落として、Kちゃんを両足ではさみ込むように向かい合ってソファーに座る。
 俺と知り合った時、KKは既に今の名前を名乗っていた。組織のなかで知り合ったんだからそれは当然だよね。でもそうやって偽名をもらう以前の名前がある筈なんだ。俺はそれを知りたいんだけど。
 じっと見下ろしてると、Kちゃんはかすかに首をかしげてみせた。
「訊いてどうすんだよ」
「え、別に意味はないけど。なんとなく知りたいだけ」
「どうせ役所が付けた名前だぞ」
 そんなもの知ってどうするんだ、って、Kちゃんは冷たく俺をみつめている。
 知らないわけじゃなかったけど、この時の俺は忘れていた。Kちゃんは赤ん坊の時、養護施設の前に捨てられていたってこと。秋だったそうだって、そんな話も聞いてたのに。
 言葉に詰まった俺の左手を、Kちゃんがそっと握る。
「名前付けたきゃ勝手に付けろよ。返事するとは限らねぇけど」
 俺は黙って指を絡めて、そのまま手を引っぱり上げた。Kちゃんの手の甲にキスをした時、KKでいいだろって呟くのが聞こえた。
 KK。
 殺し屋さんとしての記号。
「……KK」
「なんだ」
「Kちゃん」
「なんだよ」
「Kちゃん愛してる」
「……」
「返事してください」
「うるせえよっ」
 殴られた。
 俺は頭をさすりながらKちゃんに抱きついた。もう一度名前を呼んで、不精髭の残る頬にキスをする。
 KK。Kちゃん。
 俺から剥奪された、過去の俺の名前。
 俺がなれなかったもう一人の俺。
「今日焼き肉にしよー」
「好きにしろよ」
「精力付けてエッチしよー」
「……」
「あ、なんなら今する?」
 殴られた。


名前を呼んで/2009.04.29


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