今回の現場はとある工場だった。春先からほったらかしにしていた敷地内の雑草を全部キレイにしてくれ、というのが依頼内容だそうだ。
 それは掃除の範疇に入るのか、とタロと共に疑問を投げかけたが、キレイにしろと言うのであればガラス掃除も絨毯の洗浄も雑草の駆除も全部掃除だ、とKKは言った。
「ま、ある意味なんでも屋みたいなもんだよな」
 うちみたいな零細企業は仕事を選んでられないんだと、車のハンドルを握りながら苦笑する。その隣ではMZDが眠そうに目をこすりつつ食事を済ませていた。
 もうすっかりお馴染みとなってしまったこのメンバーに影を加えて、朝の八時半から草刈りが始められた。
 ナカジに割り当てられた仕事は、構内の空き地に植えられた芝を全て刈ることだった。
 そんな簡単なことでいいのかと思ったが、実際にやってみると手動の芝刈機はでっぱりに引っかかってしょっちゅう進行を妨げられるし、刈られた芝が足元に飛んできて靴に入りチクチクする。更に遮るものがなにもないので日射しは真上からじりじりと照りつけてくる。
 ――これは一体なんの拷問だ。
 仕事を交換しないかとタロに打診しようと思っていたのだが、十時の休憩の時に話を聞いて、やめた。
 KKたち大人組は刈り払い機で工場の周囲の草を刈ったあと、カマでもって根っこを掘り返すという、実に面倒で体力の要る作業を行っていた。なにより藪蚊が多くてたまったもんじゃないとタロが泣いた。朝方買ってきた虫よけスプレーはとうに空になっているそうだ。
「でもさ、神様はスプレーしないでも平気な顔してるんだよね」
 実際喰われてないし、と不思議そうにタロが言うと、煙草の灰を叩き落としながらKKが笑った。
「血を吸う蚊はメスだって言うからな。嫌われてんだろ」
「なに言ってんの! 俺様ほどのフェミニスト、世界中捜したってみつかんないよ!?」
「女にやさしいのと女にもてるのはイコールじゃねぇだろうが」
「なるほど。おっちゃん、上手いこと言うなぁ」
 呑気に会話を交わしながらの昼食であるが、ナカジは相槌を打つ余裕もなく冷し中華と格闘していた。
 腹は確実に減っている。しかし空腹を感じる胃はナカジの体を離れて異次元にでも移送されてしまったかのような気分だった。
 食わねえと午後もたねぇぞとKKに言われ、無理やり半分は腹に納めた。ぐったりとうなだれて水ばかり飲む自分と引き換え、ほかの三人(プラス影)は、何故そんなものが食えるのだと思うようなごってりしたものばかりを注文し、呆れるほどの勢いで片付けている。
 あとに残された空の皿と、半分残った冷し中華は、まるで「目で見る体力の差」だった。
 工場へ戻る途中に寄ったコンビニで、KKがリポビタンDを買ってくれた。悔しかったが飲んだ。そして飲みながら、意外にこの男は面倒見がいいのだなと、ナカジはちょっと感動した。


 日射しが痛い。
 工場のなかで一番大きな空き地だった。午前の終わりから取りかかっていたのだが、ようやく終点が見えてきたところだろうか。
 春からぐんぐん伸びて、いやぁまいったもんだよと工場の責任者は笑っていた。それがわかっているなら、何故折りを見て定期的に刈らないのだろうかとナカジは首をひねる。だがこういうのも時期があるのだろう。祖母が庭をいじる時だって、季節によって植えるものが変わる。それと同じだ。
 ナカジは無心で芝刈機を押し続けた。もはや足がチクチクすることなど気にしていられない。ひたすら機械を動かして芝を刈り、刈られた芝を熊手で集め、また歩く。
 時折思い出したように生温い風が吹いた。あちこちでかげろうが上がっていた。今ならきっと工場の屋根で目玉焼きが作れるに違いない。
『誰でもいいから連れてこいって』
 疲れて立ち止まりたくなるたびに、日給一万円、と心のなかで呟いた。
 芝を刈るだけで一万円。暑さにうだって汗など大半出尽くして、多分明日には腕の日焼けと筋肉痛がものすごいだろうけど、芝刈機のハンドルを握りしめて無心になって歩くだけで一万円。昼飯もついていた。
 今日の一万円でなにを買おう。そういえばギターのケースがぼろぼろで、そろそろ買い換えようかと思っていたところだ。ちょうどいい。タロのバイト先へ行けば、顔見知りの店員が少し安くしてくれるし。
 突然芝刈機が動かなくなった。つんのめったナカジは爪先で芝刈機を蹴ってしまった。ハンドルに力を込めるが、なにかが引っかかっているようで動いてくれない。仕方なしに強く引っ張ると、ぶち、となにかが千切れる感覚があった。
 機械をどかして見てみれば、地面が少し掘り返されている。どうやら刃が引っかかって芝生を根元から引っこ抜いてしまったようだ。
 後ろめたい気分で引き抜かれた芝生を眺めていたが、やってしまったものは致し方あるまいと、ナカジは再び歩き出す。どうせまた生える。中年オヤジの頭髪じゃあるまいし、繁殖力の強い植物だ。放っておいても、どうということはあるまい。
 しかし芝刈機の向きを変えるたびに、引っこ抜かれた芝生が目に飛び込んできた。そこだけ土が見えるのだから目立ってしょうがない。
 一往復したところでナカジはあきらめた。機械を置いて芝生の禿げた部分に戻り、抜かれた芝生の小さな固まりを手に取った。もう一度埋めようとするのだが、思いの外根っこが邪魔をして上手く埋まってくれない。
 散らばってしまった土を掻き集め、両手で強く押しつけた。少し浮いた感じで芝生が立った。こんなものかと胸の内で呟き、ナカジは立ち上がる。
 そうして再び仕事に戻ったが、やはりちらちらとその部分を眺めてしまう。上手く根付いてくれなかったらどうしようと不安が胸をよぎる。そんなつもりはなかったのに、自分があの芝生の未来を奪ったのだとしたら。
 ナカジは再び植えた芝生のところに戻った。軽く引っぱってみて、簡単に抜けるかどうか試してみる。
 抜けた。
 やばい、とあわててまた埋め直し、何度も何度も回りの土を手で叩く。
 日に焼かれて汗まみれになって、更に泥だらけになって、自分は一体なにをしているんだと、ナカジはしゃがみ込んだまま茫然とする。頭がクラクラするのは、きっと暑さのせいだ。吐き気がするほど暑いせいだ。
 夏が人を狂わせる、とか、そんなフレーズは誰が最初に使い始めたんだろうと、くだらないことをぼんやり考えながら土を叩いた。何度も何度も、しまいには自棄のようになって、いい加減許してくれよとななめに植わった芝生に頭を下げて。
 ――すまなかった。
 悪かったよ、そんなつもりじゃなかったんだ。だってまさかこんなことになるなんて思いもしないだろう。俺はただ言いつけ通り芝刈機を押していただけだ。今日ここに連れてこられたのだって半ば無理やりみたいなもんだったし。
 ナカジの反省を嘲笑うかのように芝生は浮き上がり、乾いた埃を宙に飛び散らせる。
 なんでこんなものにかかずらってるんだ。流れ落ちる汗がくすぐったくてイライラと腕で拭った。どこかでセミが鳴き始め、構内放送で女性の声が誰かを呼んだ。
 工場の敷地の外れにある空き地のど真ん中で、ナカジは芝生を植えている。もはや誰も通り掛からず、車の音も聞こえない。どれだけ叩いても土は固まってくれない気がして、ナカジはだんだん怖くなる。焦りで余計力が籠もるが、結局のところどこまでやればいいのか、その到達ラインを自分は知らないのだと思い至って不意に叫び出しそうになった。
 ――ごめん。
 そんなつもりじゃなかったんだ。事故だよ。そうだろ? だって俺、芝生なんていじったことなかったし、こんな事態初めてでさ。
 言い訳してももう遅いけど。
 ――ごめんな、よく知らないで、どうしたらいいのかも知らないで、ごめん。
 ごめんなさい。
 あんなこと、言うつもりじゃなかったのに――。
 メガネに落ちたしずくが汗なのか涙なのか、ナカジには判然としない。灼熱の太陽がじりじりと背中を焼く。セミの鳴き声が突然死んだように止まった。


 夜空に大輪の花が咲き、一瞬ののちに爆発音が耳を打った。
「たーまやー」
 缶ビールを宙にかかげたMZDが嬉しそうに声を上げた。その隣では煙草をくわえたKKが床に横たわり、だるそうに煙を吐いている。
「俺ら今、不法侵入してるんだよね?」
 影に焼きそばをわけてやりながらタロが振り向いた。そうなのか、と驚いてMZDを見ると、「堅いこと言わないの」と笑って手を振っていた。
「花火終わったらおとなしく帰るよ。別に鍵壊して入ったわけじゃないんだし、平気っしょ」
「屋根付けとかねぇ方がわりぃんだよな」
 横向きになって煙草の灰を叩き落とし、MZDからビールを受け取りながらKKも言う。仕事が無事に終わって気が抜けたのか、いささか眠そうな目だ。
 帰り際、大きな川に架かる橋を渡っている時、タロが花火の姿をみつけた。寄っていこうと皆に強く言われて仕方なしにKKは車を止めた。MZDと影が花火の会場近くにあるビルの屋上へとみんなを連れてきて、ついでに買い物まで行ってくれた。
 ラムネとたこ焼きと焼きトウモロコシが今日の夕飯だ。ナカジは屋上の隅の方で壁に寄りかかり、打ち上がる花火をぼんやりと眺めている。
「俺、今日仕事出て良かったー。花火まで見れるなんて思わなかったよ」
 ねーナカジ、とタロが振り向くが、返事をする気力はない。疲労による眠気が頭にまとわりつき、もったいないと思いながらもナカジは目を閉じた。
 閉じたまぶたの裏で、一度強く爆発音が響いた。のろのろと目を上げたが、もう既に花は散りかけている。暗がりのなかでちりちりと瞬きながら消えていく火花はまるで小さな流れ星のようだ。なにか願い事をしたら叶うだろうかと思ったけれど、願い事を思い付く前に火花は消えて、あとには暗闇しか残っていない。


流れ星、消えた/2009.03.29


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