日射しが痛い。
ナカジは額から流れ落ちる汗を手で拭って学帽を外した。そうしてそれを団扇代わりにして仰ぎ、今更のように首にかけたタオルで顔を拭いた。
時々通り過ぎる工場の人たちが、こちらを珍しそうに眺めていくのが耐えられない。ナカジはうつむき、学帽を目深にかぶると、手に握った芝刈機をゆっくりと押し始めた。
遠くの方で小型エンジンの唸りが聞こえる。あれはKKかMZDか、それともやらせてくれと騒いでいたタロか。そんなことをぼんやりと考え、ナカジは目の前に広がる芝生の海を眺めて、幾度目になるのかもうわからない深い深いため息を、そっと吐き出した。
――暑い。
なんで自分がこんなことを。
ぶちぶちと口のなかで文句を繰り返しながらも、ナカジはきちんと芝刈機を押していく。がりがりと地面を引っ掻く手応えと共に、機械の後方から刈られた芝が吐き出されてくる。跳ね上がる土が靴を汚す。いらねぇ靴持ってこいとKKが言っていた意味がわかった。着替えも持ってこいと言っていた意味も。
「調子はどうよ」
不意の言葉に顔を上げると、当のKKがポカリスエットの缶を差し出しながら立っていた。所々に掻き集められた芝の小さな山を眺めて、「頑張ってんじゃん」と感心したように言う。
「こまめに水分取れよ。熱中症で倒れられたらこっちがたまらねぇからな」
「はい」
なんかあったら呼んでくれと言って去っていく。どうやら様子を見に来ただけのようだ。少し迷ったが、ありがたく御馳走になることにした。実際いくら水分を取っても全てが汗となって流れ出ていってしまっている気がした。
フタを開けて冷えたそれを喉の奥へと流し込む。今雨が降ったら最高に気持ちいいだろうと思った。そしてそんなことを考えている自分が少し意外だった。夏が来ていることは知っていたけれど、ここしばらくのあいだは、ただ暑いとしか感じていなかったのに。
今が夏だとか、高校最後の夏休み中なのだとか、だからどう過ごそうとか、そんなことはかけらも考えている余裕がなかった。
『ごめんなぁ、二人とも。ほんとーにごめんなぁ』
そのクセ、このままずっと夏が続くような気がどこかでしていた。いいや、続いてくれればいいと願っていた。
今、未来の自分を考えるのは難しい。
飲み終えた空き缶を芝の山にそっと立てる。そうしてナカジは芝刈機のハンドルを握り直した。
――暑い。
だけど、ともかくは目の前の仕事を片付けなければならない。この程度のことがこなせなくてどうするつもりだ。ナカジは自分をそう叱咤し、再びゆるゆると歩き始めた。
時刻はまもなく二時になろうとしている。今日も真夏日の予報が当たった。
ナカジとタロがヘルクリーンで初めて仕事をしたのは去年の五月のことだった。朝方マックで飯を食っていると、そこへ偶然KKとMZDがやって来た。そうして暇ならバイトをしないかと持ちかけられた。
その時二人は予定していたバンドの練習が御破算になり、暇を持て余している状態だった。自分が今日学校を休んだのは練習の為であって別にバイトをする為ではない、とナカジは気色ばんだが、日給一万の昼飯付き、という言葉にははからずもぐらりときた。
なによりも決定打となったのは、現場が女子大のプールであるという事実だった。「女子大」という言葉に瞳を輝かせたタロに引きずられて、結局ナカジは働いた。生まれて初めての肉体労働だった。
二度とするか、と翌日重度の筋肉痛と共に誓ったのだが、タロはそれからも暇な時にバイトをしているようだった。そのお陰で人手が足りないからとナカジに声がかかり、今年はこの酷暑の真っ只中で働くことになってしまった。
暑さは辛い。馴れない肉体労働も辛い。
だけど今は少しだけ感謝している。今日のことがなければ、ナカジは十日以上も家に閉じ籠もったままになっていた筈だから。
メガネ団のメンバーである昭一が、先月脱退したのだ。
田舎の父親が倒れた、という、よくある話だった。よくあるからこそ、そういったことが自分の身近で現実に起こるとは思っていなかった。どこか遠い世界の話のように感じていたのだ。
だが現実に昭一の父親は倒れ、次男坊の彼は実家に帰ることを決意した。
「田舎帰ってどーすんの?」
最後の練習を終えたあと、メンバー三人だけの淋しい送別会でタロが訊いた。
「ラーメン屋さんになるんだ」
ビールジョッキを半分も片付けないうちから顔を真っ赤にして昭一は答えた。中学校教師である兄は数年前に結婚しており、一時は店を閉めようという話になっていたそうだ。それを俺がやるから、と昭一が止めたらしい。
二十四で人生を決めるのか、とナカジが呟くと、音楽やめるわけじゃないし、と昭一は笑った。偉いんだな、とは言えなかった。それが人として当たり前のことなのかも知れないと思ったのだ。
なのに、別れ際になって泣きやがった。
『ナカジぃ、俺やだよぉ。帰りたくないよぉ。タロぉ』
酔って、みっともなく泣きわめいて、そうして謝った。ごめんなぁ二人とも、ほんとーにごめんなぁ。支えられなければ歩けないほど泥酔して、地面にへたり込んで土下座をするみたいに両手をついて、ひたすら謝罪の言葉を繰り返す。
ショウちゃん、もういいよ。タロのあやす声を聞きながら、ナカジはずっと昭一を見下ろしていた。そして昭一が涙と鼻水と泥とゲロで汚れた顔を上げた時、
『ふざけるな』
ナカジはゲタでその顔を蹴っ飛ばした。
『見捨てると決めた相手に甘えるな』
――ふとした瞬間、あの時の昭一の顔が思い浮かぶ。傷ついたような、怒ったような、それでいてふと酔いから醒めたような、現実に立ち返ったようなそんな顔。あれはひどいよとあとでタロに言われたが、代わりにどんな言葉が選べたのか、その答えはまだみつかっていない。
むしろ唾をかけてやれば良かった。いっそのことギターで殴ってやれば良かった。
泣きたいのはこっちの方だ。お前がいくら嫌だと言ったところで、父親の体を治してやれるわけじゃない、お前の人生を代わりに歩いてやれるわけじゃない。そんなことは神様にだって出来やしないのに。
噛みしめた唇が痛かった。誰もなにも言わなかった。音もなく霧雨が降り始めていた。
頼むから子供みたいに駄々をこねないでくれ、泣きたいのはこっちの方だ。そう思いながら、事実ナカジは泣いた。頑張れよと声をかけてやれる資格のない自分が惨めだった。
そんな風にして梅雨が終わり、期末テストが始まる頃、昭一は地元に帰っていった。予約を入れていたスタジオは全てキャンセルして、ナカジに高校最後の夏休みが訪れた。また二人になっちゃったねと、電話の向こうでタロが淋しげに呟いた。
『――ところでさ、ナカジ、バイトしない?』
『なんだ、いきなり』
『一日だけでいいんだ。おっちゃん(注・KKのこと)に、誰でもいいから連れてこいって命令されてて』
誰でもいいから、という言葉に引っかかったが、どのみち暇を持て余す毎日だ。たいして考えることなく了承していた。
もう少し考えてから返事をすれば良かったと、今ではちょっぴり後悔している。