「いい加減退院しろよ」
 KKはパイプイスに座り込んでぶっきらぼうに言い放った。榊は苦い顔でスプーンを口にくわえている。いいからとっとと食え、と言うと、「そんなこと私に言われてもなぁ」と不満げに呟いた。
「退院したいのは山々だが」
「そんなに病院の飯は美味いのか」
「美味い」
 予想外の返事に思わず吹いた。
「自分じゃこんなに色々作ったりしないからな。お前も食うか?」
「いらねぇよ」
 KKは呆れて窓の外へと視線を投げた。暮れかかった中庭の片隅でハクモクレンのつぼみが風に吹かれて寒そうに震えている。もうじき春だ。三月には白が良く似合う。
「まぁ退院出来たとしても、しばらくは自宅療養だな。傷口がふさがるまでは下手に動けん」
「……」
 そのあとはどうなんだ、と訊きそうになってKKは言葉を詰める。このあいだは冗談めかして言ったが、榊の「引退」とその後のことも真面目に考え始めなければならないのかも知れない。
 榊の入院からひと月以上が過ぎた。社長の居ない現場にもようやくみんなが馴れ始めている。それでも臨時で短期のバイトを雇っているし、事務所に戻ってもどことなく締まりがないように感じられた。
 人が一人居ないだけなのに、大きな違和感は拭えない。
「そろそろ予定表出す頃だろ」
 コップの水を飲んで榊が言う。
「うん。今度書類持ってくる」
「女学館の日程が早まるとか言ってたのはどうなった?」
「あれは変更なし。四月入ってからでいいってさ」
「そうか。ほかと重なると面倒だから良かったな」
 まるで明日にでも現場に出るような口ぶりだ。
 毎年春夏冬と学校が長期の休みに入る時期には私立校の校舎の清掃がある。かなり大掛かりな仕事で人数を取られるから現場が重なるのは非常に辛い。
「ジィサン、学校だけでいいから出てこいよ」
 足を組んでKKは笑う。
「毎朝病院まで迎えに来てやるからさ」
「ふざけるな」
「いいじゃん、どうせ暇でしょ?」
「お前がおんぶでもしてくれるならワックス塗ってやる」
「ふざけんな」
 病院を出る頃には辺りは真っ暗になっていた。駅前のラーメン屋で簡単に夕飯を済ませたあと、アパートへ戻ろうとしてふと駅で足を止めた。
 店へ行こうかどうしようかとずっと迷っている。
 ここのところ、仕事は忙しいが気分は楽だ。疲れている時ほど店で眠っているせいだろう。結局去年の秋からずっと部屋を借りっぱなしにしている。もっともこれほどの頻度で以前のように従業員用の控え室を借りることは出来なかった。そんな迷惑はかけられない。そういう意味ではあの場を提供してもらえたのは有り難い。
 そのいつでも行ける気楽さが、逆に店へ行こうとするKKの足を引き止める。
 習慣のように店へ通い続けて、いつしかそれが当たり前になるのが怖かった。今でも半分なりかかっている。あそこで眠れるのは嬉しいが、それがずっと続けられるという保証はどこにもない。ある日なにも言わずに消えてしまう可能性もある。借り賃として渡していた金はとうに突っ返されたし、――MZDは「勝手に無くしたりしない」と言ったけれど、その言葉が信用出来るものなのかどうかKKには判断がつかなかった。
 あの場所に馴れてしまうのは恐ろしい。なくなった時の失望を思えば思うほど足がすくむ。
 それでもKKは迷った。そうして迷った末に結局アパートへ戻ることにした。なにも考えずに寝てしまおう。どうせ朝は勝手にやってくる。


 扉が開いたので顔を上げると、戸口のところにKKが立っていた。
「よー、お久し」
「……」
 KKはなにも言わずにただうなずくばかりだ。グラスの酒を舐めるようにして飲んでいる。
「ごめんね、ちょっとお邪魔してました」
 MZDはそう言ってソファーから立ち上がった。ここってなんか居心地いいんだよねー、と言うと、
「お前の店なんだから好きにすりゃいいだろ」
 重い口調でそう返された。
「……なんか怒ってる?」
「別に」
 寝てねぇだけだ、とKKは言う。MZDは不意に出会ったばかりの頃のことを思い出した。当時のKKはいっつも不機嫌そうな目で煙草をふかしていた。どことなく洩れ出る苛立ちを、なぁんか変な奴と思って見ていたが、それが睡眠不足から来るものだと言われてもあまり納得は出来ない。
 店へ来るのも久し振りだ。前の時から数えてひと月近くが経っている。ともかく邪魔をしては悪いからとサングラスを首元に引っかけて出ていこうとすると、背後から声がかかった。
「お前さ、帰りたきゃ帰っていいぞ」
 一瞬なんのことだかわからなかった。
「え、あ? あぁ、帰る時は起こせってことでしょ」
「違うよ」
 言葉を続けようとしてKKはだるそうにソファーに腰をおろし、グラスをテーブルに置いた。帽子を取って髪を掻き回すと大きなため息をついてこちらを見た。
「俺に構わず好きに帰れって言ってんの。鍵持ってんだから出る時はちゃんと閉めてくし、別に昼まで付き合うことないんだぞ」
「……俺、邪魔だった?」
「違うよ」
 KKは片手で顔を拭い、わずらわしそうに首を振った。
「もういい。この話、また今度な」
「なんだよ」
 いきなりわけのわからない話を吹っかけておいて「また今度」もないだろう。MZDはフロアへ向かいかけた足を逆向きに方向転換させて壁に寄りかかった。
「なに。文句あるならとりあえず言えよ」
「……別に文句じゃねぇって」
「じゃあなに」
「だから今度な。とりあえず俺、眠いんだよ」
「じゃあ横になりながら話せよ。聞いててやるから」
 そう言うと、KKはグラスに伸ばしかけた手をおろして苦笑した。
「俺、眠いんだって」
「ここは俺の店だ。俺の好きなようにさせてもらう」
「……」
 不意にKKがタオルケットを放り出した。そうして立ち上がって戸口に向かうので、
「なんだよ、駄々こねるだけこねといて言い分通じなかったら逃げんのか。だらしねぇ」
 いきなり横っ面を張られた。負けじとMZDも殴り返し、二人はしばらくのあいだ睨み合った。
「お前ね、すぐに手が出るの、悪い癖だよ」
「……てめぇに説教される筋合いはねぇ」
 どんよりと重い目がこちらをじっと見下ろしている。本当に昔のようだとMZDは思った。あの頃はこんな目付きをしょっちゅうしていた。自分を傷つけるものがどこから飛んでくるのかと警戒する冷たい目。
 MZDは息を吐いて小さく首を振った。
「俺だって別に喧嘩したいわけじゃないんだよ。お前が寝るのも邪魔したくはないんだけどさ、簡単にでいいから説明してくんない?」
「……」
「このままじゃ、こっちが眠れませんよ」
 おどけて言ったつもりだったが、KKは目線を外しただけだった。そうしてまたふらふらとソファーへ戻り、床のタオルケットを拾い上げて座り込んだ。
「言った通りだよ。帰りたきゃ帰れっての」
「……帰りたいと思わないから帰らないだけなんだけど」
「じゃあそうすりゃいいじゃん」
「――あれ、そんだけ?」
 その為に今俺ら、殴り合いした?
「俺のことは気にすんなって言ってんの」
 それだけ言うとKKはようやく安心したような顔つきでソファーに横になった。
「わかった?」
「……わかったけど……」
 なにかが腑に落ちない。
 MZDはのろのろとソファーに歩み寄って床に座り込んだ。
「そもそも、お前のこと気にかかったからこの部屋作ったんだけどな」
 そう言うとKKは渋い顔つきになり、ゆっくりと身を起こした。
「邪魔なら出てくからそう言って」
「邪魔じゃないよ。なに言ってんの。ここ、お前の部屋なんだから好きにしなよ」
「……俺の店だから好きに使うって言ったじゃん」
「いや言ったけどさ、それは言葉のあやっていうか。――ってか、さっきからなに拗ねてんの」
「拗ねてねぇよ」
「拗ねてんじゃん」
 まるで子供がむずかっているかのようでちょっと可笑しかった。MZDはソファーに座り直してKKの顔をのぞき込んだ。言葉に詰まったKKは唇を噛んでうつむき、こちらの視線を避けていた。
「なに、俺が気ぃ遣って朝まで一緒に居ると思ったん?」
「……そうじゃねぇけど、」
「けど?」
「……」
「KK?」
 むっつりと黙り込んだままだ。MZDはおとなしく言葉を待った。
「俺が――」
 不意に言葉を口にして、KKはちらりと視線を上げた。だけど目が合うとすぐに逃げていってしまう。MZDは深くは追わずに、不精髭だらけの口元を眺めていた。
「起きるまで居るって言うだろ。あれがさ」
「うん」
「なんか、わりぃなって思ってさ」
 ――やっぱ気にしてんじゃん。
 思わず苦笑が洩れた。
「まぁ俺の店だから、俺が居るのは当たり前だし」
「そうだけど」
 むっとしたような顔でKKが振り返る。
「でも別に住んでるわけじゃねえだろ」
「うん、そうだね。ここはお前の部屋だし、俺のベッドはないし」
「……なんか、嫌味ったらしい」
「そういうつもりじゃないんだけど」
 MZDは降参、という風に笑いながら両手をぶらぶらさせた。
「じゃあホントに黙って帰っちゃっていい? 店の奴らにはほっとくように言ってあるんだけどさ、でもそうしたら、KK起きた時に一人ぼっちだよ。それって淋しくない?」
「……」
「どうする?」
 KKは唇を噛んだまま指先でタオルケットをいじっている。うつむいた目がなにかを言いたそうにしているのが見えた。MZDは、なに? と訊くように唇の端を少し持ち上げた。一度こちらを見たが、目が合うとまたすぐに逃げてしまった。
「今日」
 不意にぶっきらぼうな呟きが起こった。MZDは驚きながらも続きを待った。KKは一瞬だけこっちを見て、何故か怒っているかのように目をそらした。
「……とりあえず、今日は、帰るな」
「うん」
「…………起きるまでここに居ろ」
「うん、いいよ」
 KKは唇を噛みしめ、顔を真っ赤にしてうつむいている。たったこれだけのことを口にするのにどれほどの勇気を振り絞ったというのだろうか。
 前髪に手を触れると驚いたように顔を上げた。手を止めて目をのぞき込むと、戸惑ったようにあちこちへと視線をさまよわせた。MZDはゆっくりと髪を梳き、やがてそっと抱き寄せた。KKは最初ぎこちなく体を緊張させていたが、なにも言わずに髪を梳いていると少しずつ力を抜いてもたれかかってきた。
 ――図体はでかいのにな。
 お前は本当に子供みたいだとMZDは思った。裏切られ続けてきた子供だ。不信の塊だ。
 KKの内には大きな空洞がある。今までの人生をかけて作り上げてきた大きな「真っ暗」だ。全部をそこに放り込んで、ずっと見ないフリをして、だけど時々言葉に出来ないなにかが間欠泉のように噴き出してKKを苛立たせているのがよくわかる。
 自業自得だと言ってしまうのは簡単だった。誰だって大小問わずそういうものはあるのだろう。見て見ぬフリが出来ないのは、この男がごく稀に垣間見せる隙のせいだ。
 行き場を失った子供が、誰かの迎えをひたすら待っているかのような、そんな顔。
 頬を寄せると不精髭が口元を引っ掻いた。MZDは苦笑して顔を起こし、訝しげにこちらを見る目に向かって笑いかけた。
 そうして我慢出来ずに頬に唇を触れると、びっくりしたように目を見開きながらも、口の端を持ち上げてかすかに笑い、KKはうつむいた。
 ――うぅわ、やっべ。
 KKの髪の毛を引っぱりながらMZDは固まった。
 どうしよう、勃っちゃったよ。
 あれー?


王様の耳/2006.10.08


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