勿論MZDだって眠る。
確かに神様だけど身体的には殆ど普通の人間と変わりないから、腹も減るし眠くもなる。不便じゃねぇの、と昔訊いたことがあるけれど、その時奴は、
『不便があった方が便利な時に嬉しいっしょ?』
――と、わかるようなわからないような返事をした。普段ちまちまと地面を歩き、機械の力に頼らなければ己の能力を上げることの出来ない普通の人間からしてみれば、奴の思考は常識を外れている。まぁ理解出来なくても仕方ないのかも知れない。なにせ奴は神様だから。
ともかく、MZDも眠る。
神様が眠っていると世界中が平和なような気がするから不思議だ。ただしその爆睡が人様の寝床を占領してのものでなければ。
「……」
KKはくわえていた煙草を灰皿に置くと、煙を吐き出して酒をひと口飲んだ。そうしてソファーの前に立ち、灰皿の脇に置かれているヘッドホンとプレーヤーを見遣った。なにが入っているのか興味もあるが、今はそれを確認する気力もない。
とにかく眠い。
MZDはタオルケットを頭までかぶり、足を下ろしてうつ伏せた恰好で眠っていた。規則正しい呼吸音の合い間に、時折おかしな擬音が洩れてくる。鼻でも詰まってんのか、と思いながらKKは足を上げ、とりあえず奴の肩を軽く蹴っ飛ばした。
反応はない。
「……」
酒でもかけてみるか、とも思ったけれど、そのあとに自分が眠ることを考えたらあまり無茶はしたくなかった。結局KKはテーブルにグラスを置き、着ていた上着で思いっきりMZDの頭を叩くことにした。
効果は抜群。
「いってーなぁ!!」
MZDははたかれた頭と顔の一部を押さえつけて起き上がった。KKは上着を肩にかけると、
「邪魔」
ひと言だけ呟いてあごをしゃくった。
「謝罪なし? ねぇマジで謝罪なしなの? 今金具当たったよ? 耳のとことか、もんのすっげーいた」
「邪魔」
「…………はい」
MZDはしょんぼりと肩を落としてすごすごとソファーから立ち上がった。だがしつこくもタオルケットを持っていこうとするので、床に端がついた瞬間、KKは靴先で強く踏みつけ、
「てめぇ、一戦交える気概か」
こちとら眠くてイライラしてんだ、と睨みつけてやった。二口しか吸っていない煙草が半分以上灰になっている。どんよりと重い目で煙草を口にくわえると、「冗談だよ」と奴はやっと素直に手を放した。
KKは上着を放り、どっかりとソファーに座り込んだ。そうして眠い目で煙を吐き、帽子を床に放り出してぐしゃぐしゃに髪の毛を掻き回した。
「なんか、珍しいね。こんな時間に」
もう五時過ぎだよ、と奴は腕時計を見ながら不思議そうに言う。
「夜勤でな」
月に一度、大型店舗の一斉清掃が行われる。昼間は普通に仕事をこなし、そのあと店が閉まる九時から裏の事務所を含めての掃除が始まる。終わるのはだいたい明け方だ。翌日が休みだと思うからこそこなせる作業だが、榊が入院している為に人手が足らず、KKはワックスの缶を抱えてあちこち駆け回る羽目になってしまった。こんなことがあと数回繰り返されるのかと思うと気が重い。
話を聞いたMZDは「大変だね」と苦笑し、
「なんだったら俺が手伝ってやろうか?」
やはり最初に叩き込むべきはモップの使い方と洗い方だな、とKKは眠い頭で考える。そうして煙草をもみ消すとソファーに横になってタオルケットを引っぱり上げた。
「酒、やる」
「了解」
「おやすみなさい」
「礼儀正しい人だ」
からかわれているのかどうかも理解出来ない。ともかく今は眠ることが先決だ。それ以外のことは起きてから考えよう。KKは目を閉じると片腕を肩に回して温もりにひたろうとした。
「電気消さないでいいの?」
「別に」
呟いてから不意に顔を上げ、
「お前、ここ居るの?」
「あれ、お邪魔?」
奴は床に座り込んでソファーにもたれかかっている。そうしてKKが渡した酒をちびちびと飲みながらプレーヤーを操り、ヘッドホンから洩れ出る音に耳を澄ませていた。
「寝たら顔に落書きしてやろうと思って待ってるんだけど」
「……」
「冗談だって」
苦笑して両手をひらひらと振る。
「なんにもしないよ。そばに居ていい?」
「……俺、喋らねぇですぐに寝るぞ」
「うん」
「……好きにしろよ」
「うん。ありがと」
奴はにっかりと笑うとあらためて床に座り、ヘッドホンを耳に当てた。KKはクッションに頭を乗せ直してタオルケットを引っぱり上げる。背もたれに向くようにして目をつむり、洩れ出るかすかな音に耳を澄ませた。
疲労が目の奥に溜まっている。今日は珍しくぐっすり眠れそうだ。そんなことを考えていると、不意に髪を梳く指の感触があった。KKはうっすらと目を開けてしばらく指の動きを観察した。
奴の指は絡まってしまった箇所を探すかのようにゆっくりと動き、静かに離れていく。少ししたあとに目を上げると、床にうつむくMZDの横顔が見えた。どうやら放っておいた雑誌を読んでいるようだ。そのまましばらくみつめていると、視線に気付いたのか奴が不意にこちらを向いた。そうしてあわてて両手を上げ、なんにもしてませんよ、という顔で両手をぶらぶらさせた。
あわてっぷりが、なんとなくおかしかった。
KKは小さく笑うと体の向きを変えた。背もたれに体を預け、一緒になって床の雑誌をぼんやりと眺めた。そうして少しずつまぶたをおろしていくと、前髪にMZDの指がかかった。
逃げるように少し身を引いた。奴はなにかを考え込むような表情で手を止め、じっとこちらの様子をうかがっている。どちらからともなく視線を外してKKはまた目を閉じ、奴の手がゆっくりと動き出すのを、まぶたの奥の暗がりで感じている。
そうしていつの間にか眠っていた。静かで深い眠りだった。
ゆっくりゆっくり、引っぱってしまわないよう充分注意しながら、MZDは指先でKKの髪の毛を梳いている。疲れているのか、寝顔はなんだか辛そうだ。髪に手を置いたままそっと耳を近付けると、規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
声を出したい衝動をかろうじてこらえ、代わりに胸のなかで何度も名前を呼びながら、息を殺し、そっと額に唇を触れた。
――夢のなかは幸せか。
そばに居ても、目を閉じれば見える景色は別々だ。
ふと気配に気付いて振り向くと、影が姿を現してこちらを見下ろしていた。MZDはなんだか自分が情けなくなって苦笑した。そうして、なんでもないよというように首を振り、またKKの寝顔へと視線を移した。
ゆっくりと髪を梳く。
影が背中合わせに座り込んできた。
「知ってるよ」
MZDは口のなかで呟いた。
「こいつらは、さっさと死んじゃうんだ。――わかってるよ。大丈夫」
忘れてないよ。
昼過ぎに目を醒ましたというのに、MZDはまだそこに居た。正確には床で眠り込んでいた。体を起こしたKKはタオルケットをかけてやり、とりあえずの煙草に火をつけた。
もう少し眠っていたかった気もするが、そうすれば一日の大半が終わってしまう。無理にでも起きていないと逆に今夜が大変だ。
時間をかけて煙草を灰にし、コーヒーでももらおうかと立ち上がった時、
「帰んの?」
寝ぼけたような声でMZDが訊いた。
振り返ると奴は床の上で頭をもたげ、しょぼついた目でこちらをみつめていた。
「まだ帰んねぇよ。コーヒー淹れるけどお前も飲むか?」
「飲むー」
ぼさぼさの髪を掻き回してMZDはにへらと笑う。KKは小さく笑い返して部屋を出た。
カウンターに入って道具を用意していると、「猛烈に腹減ったー」と言いながらMZDが姿を現した。
「どっか飯食いに行こうぜ」
「いいよ。この時間なら空いてるだろうし」
そう言いつつ、だるそうにカウンターへと突っ伏してしまう。
「マスター、きりっと冷えたお水ちょうだい」
「誰がマスターだ」
苦笑しながらもKKはグラスを取り出した。当然のように店内に人の姿はない。こんな時間まで付き合わせて悪かったなと思いながらも、やはり人が居るのは有り難かった。あのままアパートへ帰っても、下手をしたら今の時間まで眠れずに悶々と過ごす羽目になっていたかも知れない。
昔から不眠症気味のところがあった。それに気付いたのは一人暮らしを始めてからだった。眠ろうとすると静けさが耳について目が醒めてしまうのだ。静かであればあるほど時計の秒針だとか冷蔵庫のモーターのうなりだとかが意識されて余計に目が冴えた。だから眠る時はいつもタイマーで音楽をかけたまま眠りについた。それでも最悪の時は音楽が消えた瞬間に意識が戻り、それからまた静寂に悩まされることになる。
店だと人の気配があって、音楽が鳴っていて、心地良いざわめきがある。だからなのかよく眠れる。それに静かでも、店が終わってからも、必ず残ってくれる人物が居る。
『起きるまで居るよ』
「ジィサン、調子はどう?」
グラスの水をひと口飲んでMZDが訊いた。
「まぁぼちぼち。歳だから傷の治りが遅ぇんだよな」
「早く良くなるといいねぇ」
そうだなと呟いてKKはコーヒーをカップに注いだ。
「退院したら飯奢るってさ」
「え、なんで?」
「見舞いの礼だと」
そう言うとMZDは、「うはー、ラッキー」と嬉しそうにカウンターに抱きついた。
「俺、お好み焼き食いてぇな」
「せっかくなんだから、もっと高いもんねだれよ」
「なに言ってんの。神戸にある高級鉄板焼き屋さんのお好み焼きですよ。美味いんだぜぇ」
「……せめて関東にしてやれ」
なんにしても、まだまだ当分先の話だ。このあいだ腸の傷を診る為に再手術を行ったばかりである。しばらくはこの忙しさが続くのだろう。KKはそう思ってこっそりとため息をついた。