途中のコンビニで、何故か奴が煙草を買ってくれた。
「今日の泊まり賃」
 そう言って差し出された煙草の箱を、KKはすぐには受け取らなかった。
「……お前、なんかあった?」
「え?」
 店の外だがガラスの奥からのライトで顔はよく見えた。それでも色の薄いサングラスが目元を隠しているので表情ははっきりとはわからない(って言うか、夜なのになんでグラサンするのかね、この男)。
 MZDは煙草の箱を差し出したままわずかにうつむき、別に、と呟いた。
「なんもないけど」
「……」
「…………ちょっと、淋しくなって」
「あ?」
「なんでもない!」
 いきなり叫んだかと思うと、奴は雨のなかをすたすたと歩き出してしまった。KKは傘の先っぽを地面についたまま軒先から身を乗り出して、どこまで行くかな、と後ろ姿を眺めている。しばらく歩いたあと、奴は急に足を止めて振り返った。
「追いかけて来いよ! 俺、ずぶ濡れじゃん!」
「はいはい」
 傘のなかに入れてやると、奴は怒ったような顔で煙草の箱を押し付けてきた。
「もう一時かぁ」
 部屋の目覚まし時計は一時五分を指していた。どうりで眠いわけだとKKは部屋着に着替え直しながら大きなあくびをする。MZDは所在無さげに台所で立ち尽くしたままだ。
「シャワー浴びる?」
「んー? んー……」
「どっち」
 しばらく考え込んだあとで、奴は小さくうなずいた。
「腹でもいてぇのか」
 そう言いながらタオルを放ってやると、奴はちらりとこちらを一瞥し、やれやれという風に首を振った。
「KKってうらやましいぐらいに単純思考だよね」
「そりゃどうも。玄関はそっち。骨が折れてて良けりゃ傘も貸してやる」
「……もう帰るの面倒臭い」
 MZDは渋々負けを認めて風呂場へと消えていった。KKは、なんだかなぁと呟いてベッドに上がる。窓を閉めたままでも雨の音が聞こえていた。さっきよりも降り方が強くなったようだ。
「やまないね」
 やがて風呂場から出てきたMZDが窓の外を眺めて呟いた。KKはベッドで横になったまま煙草を吸い、だな、と呟き返す。
「電気消す?」
「お前がいいんだったら」
 KKは灰皿をテーブルに置いてもらい、布団をかぶって横になった。オレンジ色の豆電球を灯らせて、MZDは薄くカーテンを開ける。ベッドに横向きに寄りかかり、ぼんやりと窓の外へと視線を投げた。時々思い出したように濡れた髪をタオルで拭いている。
「……俺はさ」
 雨の音と他人の気配は、どんな音楽よりも密度が濃い。
「結局のところ、どこにも居ないのと同じなんだよな」
「……」
「誰の人生にも関われないじゃん。……まぁ、わかってたことなんだけど」
 KKは枕の上で頭の位置を直し、奴の横顔を見てから目を閉じた。目の奥の暗がりのなかで奴の気配がわずかに感じられたが、やがて雨の音に掻き消されてしまった。眠ろうとして布団を引っぱり上げ、しばらく経ってから不意に目を開けると、MZDはさっきと全く同じ姿勢で窓の外を眺めていた。
「たまに、お前がうらやましいよ」
 聞かせるつもりのないような、かすかな呟き。
「……お前、やっぱ帰れ」
 KKは布団にくるまったまま同じように呟き返した。
「傘ならくれてやるから出てけ。部屋が余計に湿っぽくなる」
「――ごめん」
 MZDは苦笑するように笑い、静かに立ち上がった。肩にかけていたタオルを落として、代わりにテーブルの上のサングラスを拾い上げる。
 KKは寝返りを打って目を閉じた。ぺたぺたという足音が聞こえ、玄関で靴を履き、そっと扉を開けてアパートを出ていく。外階段のわずかな軋みも伝わってくるボロアパートだ。KKはベッドで起き上がり、足音が階段を下り切るのを聞いた。そうしてまた窓の外の雨音に気付き、
 ――なんなんだよ、ったく。
 イライラと髪の毛を掻き毟ってベッドを抜けた。
 靴を履くのもそこそこに扉を開けて外へ出た。外階段の踊り場に立って手すりから身を乗り出し、奴の姿を捜す。下の階の軒先で茫然と空を見上げているのが見えた。
「おい」
 小さく声をかけると、別段驚いた様子もなくこちらを見上げてきた。
「ホントに帰んのか」
「……とりあえず、雨やむまで待ってみようかと思って」
 KKは手すりにもたれたまま呆れたようにため息をついた。
「やまねぇよ」
「わかんないじゃん」
「絶対やまない」
 強い断定の言葉に、奴はわずかに怒ったような顔をしてみせる。
「じゃあ、どうすりゃいいの」
「こっち来い」
 奴は最初、拗ねたようにそっぽを向いていた。靴のかかとで何度か床を蹴りつけ、唇をとがらせてむくれている。その意地を張ったような姿がおかしくて、つい笑いそうになった。
「明日、美味い朝飯作ってやっから」
「……そんなねぇ、食い物につられるほど俺は単純じゃありませんよ」
「そんなとこで一晩明かすよりはマシだろ。いいから来いよ」
「……出てけって言ったの、お前のくせに」
 KKは我慢しきれずに吹き出してしまった。なに笑ってんだよ、と奴がこっちを睨みつける。
「来いよ。――悪かったよ。言い過ぎた」
「……」
「雨やむまででいいから部屋に居ろって」
 睨みつける目元から力が抜けて、まるで泣き出しそうな表情になる。KKが見ているあいだにMZDはのろのろと歩き始め、うつむいたままゆっくりと階段を上がってきた。KKは無言で扉を開けて奴をなかに招き入れる。お邪魔します、と今更のように呟いて部屋へ上がり、まっすぐベッドに座り込んだ。
「なんか飲むか?」
 いらない、と首を振る。その時髪が頬に張り付くのを見てタオルを拾い上げ、加減もわからずに拭いてやった。
「ごめん、弱音吐いた」
 うつむいたまま呟くのが聞こえてKKは手を止めた。タオルに隠れるようにして唇を噛んでいるのが見えた。KKは苦笑して同じようにベッドに腰をおろし、
「まぁ、たまにはなあ」
 自分のような人間の、どこがうらやましいと言うのか。
 KKは髪を拭いてやり、奴はなにも言わずにじっとしている。聞こえるのは雨の音だけだ。
「――KK」
 名前を呼ばれてふと手を止めた。タオルの下の顔をのぞき込むと一瞬だけこちらを見上げたが、また逃げるように視線を外してしまった。なんだよと訊いても、奴は首を振るばかり。
「愚痴があるなら言い切っちまえよ」
「愚痴じゃない。いい。ごめん。――ありがと」
 KKの手からタオルを奪ってMZDは立ち上がる。そうしてベッドに背をつける格好で床に座り直した。KKはこっそりとため息をついて再び布団をかぶり、
「お前、帰んなよ」
 命令口調で言い渡した。
「別にお前の為じゃないの、俺の安眠の為に言ってんの」
 そう言うと、ようやく奴はおかしそうに笑った。
「わかった」
「よし」
 KKも同じように笑い返して枕の上で頭の位置を直す。横向きになって、しばらく奴の姿を眺めていた。
 MZDが振り向いた。なに、と訊くように目を向けると、ためらいがちに手が伸びてきて髪を撫でられた。そのまま顔を寄せて頬に唇を触れていく。
「おやすみ」
 KKは布団から手を出して、まだ湿っている奴の髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「まぁ、なにあったのか知らねぇけどな。落ち込むな」
「――お前って超弩級の鈍感男だよな。天の神様もホントびっくりだわっ」
「てめぇ、喧嘩売ってんのか」
 そうして二人は笑い合った。そのうち笑いがあくびになり、
「もう寝るよ」
「うん」
「おやすみ」
「……おやすみ」
 奴の手が髪を梳いている。窓の外では雨が続き、神様はまだしばらく足止めを食うに違いない。


あなたと迷子/2007.05.05


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