薄く開けた窓から風が吹き込んでくるのにつられてKKは顔を上げた。
 カーテンがわずかな風になびき、その向こう側で続く雨の音にしばし耳を澄ませる。今日は一日中降り続いた。どうやら明日もやみそうにないと悟ると、眺めていた雑誌を床に放り出してベッドの上で仰向けになり、ぼんやりと天井を見上げた。そのまま手探りで煙草を拾い、火をつけてため息のように煙を吐き出す。
 ため息もつきたくなる。これで十日以上太陽の姿を眺めていないことになるのだ。
 そういう季節だから仕方ないのはわかるが、こんなにも雨が続くと空気と共に心まで湿っぽくなってしまう。陰鬱でどことなく冴えない気分。灰を叩き落としながら時計へと目をやり、そろそろ寝るか、とあきらめのように思った時だった。
 不意に携帯電話の呼び出し音が鳴り始めた。
 KKは音の出どころをじっと眺めたあと、のろのろとベッドから起き上がった。わざとゆっくり画面を開き、こうしてるあいだに切れるようならそんなヤツの相手はしてやらん、と心のなかで宣言をする。
「もしもし?」
『こーんばーんは』
 まるで考えを読んだかのようにのんびりとした声でMZDが言った。
「おう、なんだよ」
 KKはベッドに戻って煙草の灰を叩き落とす。冷たい風が足に当たったので窓を閉めた。
『お前、今暇?』
「まぁ暇っちゃあ暇だけど」
『あのさぁ、駅の向かい側に図書館あるじゃん。その裏の方にある公園わかる?』
 しばらく考えたあとに「駄菓子屋みたいな店があるとこか?」と訊くと、そう、という返事。住宅街への入口にある小さな公園だ。遊具はシーソーだけであとは狭い砂場が申し訳程度に付いている、空き地に毛の生えたような場所である。それがどうしたと重ねて訊くと、
『お前、今から出て来いよ』
「なんで」
『いいじゃん、デートしようよ』
「やだよ。って言うか、なんでそんなとこに居んの」
 あと一時間もしないうちに今日が終わる時間帯だ。気まぐれだとしても、程度というものがあるだろうに。
 奴はしばらく無言だった。
「おい?」
『……KKさんの顔見たくて来た』
「……」
『嘘。暇だっただけ』
 KKは携帯電話を耳から外してじっと画面を眺めた。そうして今のうちに切ってしまうべきかと真剣に考えた。
 どことなく元気のない声がいささか引っかかるが、こんな雨のなかを出て行けるほど気にかけてやれるわけじゃない。KKは一度煙草をふかして再び電話を耳に当てた。
「あのさぁ、悪いけど俺もう寝るとこなんだわ」
『明日なんか用事あんの?』
「ないけど。――休みをどう過ごそうと俺の勝手だろうが」
『そだね』
 またふっつりと会話が途切れた。KKは煙草を灰皿に置くと閉めたばかりの窓を薄く開け直した。
「雨降ってるし」
『そんなでもないよ。ちょっと弱くなってきた』
「ふぅん。――お前、いつからそこに居んの」
 MZDは照れたように笑うと、一時間ぐらい前かなと呟いた。
「一時間も。雨のなか。ご苦労様ですね」
『ねぇ。俺ってば、ホントご苦労さんって感じ』
 ――わざわざ俺に会う為に? 奴の苦笑を電話越しに聞きながらKKは思わず眉をしかめた。冗談はよしてくれ。
『ね。ちょっとでいいからさ』
「……」
『ラーメンおごったげる』
「別に腹減ってねぇし」
『……ごめん』
 いつもの小バカにした口調は現れないが、おとなしく引き下がりもしない。KKは煙草をくわえてバリバリと髪の毛を掻き毟った。このまま平行線の会話を続けるのも面倒臭い。窓から吹き込む冷たい風を確認すると、
「わかったよ」
 そう答えて窓を閉めた。
「眠くなったら帰るかんな」
『うん。ありがと』
 あったかい格好してきた方がいいよという奴の言葉に返事をしてKKは電話を切った。このあいだ風邪が治ったばかりだから忠告は有り難く受け入れよう。
 部屋着から着替えて上着を羽織ると煙草とライターをポケットに突っ込んで玄関を出た。予想以上に冷え込んだ空気に一瞬だけ足がためらう。それでも、しょうがねぇなあと呟いて傘を開き、肩をすくめながら階段を下り始めた。
 終電にはまだ時間があるせいで行き交う人の姿はそれなりにあった。駅を越えたところの自販機でコーヒーを買い、土産、と奴の分も買ってやってKKは公園を探す。
 小さな外灯が二本、砂場とベンチを照らし出していた。石で出来たベンチには何故か新聞紙がかけられていた。奴の姿は公園のなかではなくシャッターの下りた店の前にあった。入ったことはないが、確か駄菓子や菓子パンを売っている店だ。よお、と手を上げると、
「よ」
 シャッターの前にかがみ込んだまま、同じように手を上げ返してきた。
「差し入れ」
「サンキュー」
 缶コーヒーを受け取って奴は嬉しそうに笑う。KKは傘を差したまま少し離れてその隣に立ち、ぱらぱらと降りかかってくる雨を見上げた。
「お前、どうやってここ来たの」
 辺りに奴の物らしい傘は見当たらない。かといって濡れている風でもないので不思議に思ったのだ。MZDはコーヒーのフタを開けながら、影、とぽつりと呟いた。
「電車に傘忘れちゃってさ。傘代わりになってくれた」
 な? と言うので顔を上げると、奴の足元から影の姿が音もなく現れていた。店の庇から夜空をのぞき込み、やまないねぇ、という感じに肩をすくめてみせる。
 KKも、思わず肩をすくめて返した。
 そうして傘をたたむと柱に立てかけて同じようにしゃがみ込み、しばらく考えた末に煙草を取り出した。
「おまわりさんとか通んなかった?」
 火をつけながらそう訊くと、別に、と素っ気無い答えが返ってきた。
「たまに人通るけど、みんな傘差してるし足元しか見てないし」
「そっか」
「……雨だもんなぁ」
「雨だもんねぇ」
 こんな天気のこんな時間、好んで外に出るようなバカは居ない。そういうニュアンスを込めたつもりだったが伝わったかどうかは定かでなかった。MZDは缶を口元に運び、そのままほうけたように宙をみつめている。
「お前、ホントに一時間も前から居んの?」
「え? うん、まぁそんぐらい」
「なにしてたん、こんなとこで」
「んー、別に……」
 相変わらずほうけたような表情のままコーヒーを飲み、不意にうつむいた。
「音がね」
「ん?」
「雨がさ、木の葉に当たるでしょ。ぱたぱたっていうの聞いてたら、なんか気持ちよくってさ」
 そう言ってMZDは公園のなかを指差す。種類はわからないが低木が二三本並んでいるのが見えた。KKは煙を吐き出して真似をするように公園のなかをみつめた。耳を澄ませるまでもなく、雨粒が木の葉や地面を叩く音が聞き取れた。時折混ざるパシパシという高い音は、どうやらベンチに広げられた新聞紙が発しているようだった。
「……なんか、良くない?」
 KKは無言で煙を吐き出す。雨に打たれ、風に吹かれて、煙は静かに流れていく。
「葉っぱの匂いがする」
 灰を叩き落としてKKは呟いた。MZDは鼻ですぅ、と息を吸い込み、
「ホントだ」
 特になんの話をするわけでもなく、二人はぼんやりと宙をみつめている。音を聞いていると、確かに飽きることがない。ただ足が痛くなってきたのでKKは立ち上がり、大きく伸びをした。影の姿はいつの間にか消えている。
「今度キャンプ行かねえ?」
 唐突に奴が言った。
「なんだよ、いきなり」
「大自然の真っ只中で雨に降られてさ、森の大合唱聞くの。どうよ」
「……テントに当たる音がうるさくて良く聞こえないと思うぞ」
「じゃあログハウス。みんなでバーベキューとかやっちゃったりしてさ」
「別にいいけど」
 KKは苦笑をして返す。誘いが来るなら行かないこともない。そうしてコーヒーを飲み干し、
「音聞くだけなら部屋んなかでも構わねぇだろ」
 うち来るか? と訊いてみた。
「俺、すぐ寝ちゃうと思うけど」
「……」
「ってか、もう眠いんだけど」
「…………行く」
 奴は小さくうなずいて立ち上がった。


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