ようやく助手席に乗り込んだ。午睡から無理やり目覚めさせられた高橋がひどくうつろな目で煙草をくゆらせていた。
「高橋さん、ガラス入っちゃう?」
「んー……。なに?」
「だから、ガラス」
寝ぼけたような返事にKKは苦笑を返す。高橋は大きなあくびを洩らして、
「俺、ここで寝てるからさ、あと頼むわ」
「ふざけんな。――残りの洗い、俺やっちゃうからさ。先にガラス入ってよ。もうあんまり残ってないでしょ?」
「うん、そうね」
高橋は腕時計を見て窓の外へと視線を投げる。そうして、「明日、法政だっけ」と呟いた。
「そうだよ。吉祥寺の方」
「めんどくせぇなあ。――ねえ、仕事終わったらおねーちゃんの居る店連れてってよ」
「なんで俺が」
「安らぎが欲しいんですよぉ」
「知りませんよ、そんなん」
KKは呆れて言い返す。後ろの席で同僚が笑っている。ぞんざいに聞こえる言葉も、みんな自分の口から出れば笑ってくれるということをKKは知っていた。
惰性で義務教育を終えたあと定職にも就かずにぶらぶらしている駄目人間、というのが、KKが自分に与えたレッテルだった。本当は小学校にすら通っていないのだが勿論そんなことを正直に告げるほどバカではない。榊とは別の清掃会社で知り合ったことになっている。
社員は二十代の前半から四十代半ばまでと広範囲にわたっているが、そのなかで最年少のKKは比較的可愛がられている方だった。とりあえず仕事は真面目にこなすし、多少生意気なことを言っても、若いからね、という目で見守られている。
――お前ら、俺のこと見くびってんだろ。
KKはいつの間にか覚えた愛想笑いを返しながらそう思う。だけど、それでいいよ、とまた思う。どうせあんたらにはわかりゃしない。仕事だけの、いっときだけの付き合いだ。今さえ上手くやり過ごすことが出来ればそれでいい。――そう思う。
だから仲間のあいだでは笑い声が絶えなかった。笑わせておけば、誰も余計なことを考えない。笑っていれば、誰も自分を気にしない。
「――いらっしゃい」
カンガルーはテーブルクロスを畳んでいる。畳み終えたテーブルクロスはエプロンの大きなポケットのなかへとしまわれる。そうしてカンガルーは隣のテーブルに移る。
「久し振りだね」
イスを引いて腰を下ろした。思っていた通り森の緑は成長を続けていた。もう街は殆ど呑み込まれてしまっている。ただ、やっぱり人間は食わないらしい。行き場を失った大勢の人間たちが砂漠に倒れていた。クモは嬉しそうに笑っていた。時間をかけてあれらを食うのだろう。頭からバリバリと。
「なんにする?」
カンガルーはテーブルクロスを畳みながら訊いた。グラスに挿してあった紫の花はもうしおれてしまっている。仕方あるまい。あれから長い時間が過ぎたのだ。
「オススメにしなよ。オススメ、美味しいよ。なんてったってオススメだからさ。ほかのも勿論お勧めだけど、やっぱり一番のお勧めはオススメだよね。なんてったってオススメなんだから」
カンガルーは店の奥へ移動しながらまくしたてた。
「このあいだなんか大変だったんだよ。みんながオススメを食べるから材料が足りなくなっちゃってさ。シェフも勿論それは予想してたんだけど、さすがにあれだけの人が来るとは僕も思わなかったね。ホントに大変だったよ。オススメを食べたらみんなは泣くし、材料が足りなくて食べられなかった人たちもみんな泣くんだよ。ごめんなさいもうしませんから許してくださいってさ。なんか、嬉しいよね。そこまでうちの料理に入れ込んでもらえるなんてさ」
店の奥の闇に呑み込まれてしまってカンガルーの姿はもう見えない。なのに、突然目の前に皿が差し出された。顔を上げるとテーブルの前にカンガルーが立っていた。
「オススメ、美味しいよ」
膨らませられた水風船が皿の上に載っていた。風船の色は毒々しい赤で、まるで着色を失敗したかのように縦に一本だけ白い線が入っている。
カンガルーはフォークとナイフを並べた。KKはナイフを拾い上げると、白い線に沿ってゆっくりと下ろしていった。水風船はなんの抵抗もなく二つに割れた。そのまま転がりもせず、二つに分かれたことなど知りもしないという風に、皿の上で静止している。
「奥まで火を通すのが難しいんだ。硬いからね。でも大丈夫だよ。うちのシェフに任せておけば心配ない」
KKは水風船を細切れにしていった。そうしてかけらのひとつをフォークで突き刺した。
なかにはゼリーのようなものが詰まっている。匂いはない。
「君は泣かないんだね」
カンガルーはテーブルクロスを畳みながら言った。
「きっと自分だけは特別だって思ってるんだろうな。そういう考えはいただけないよ。だって結局はうちの店に来るだろう? ほかのものを食べないでオススメを食べるクセにさ、おかしいよ、ホント。常識的じゃないね。君の番が来るのをクモは楽しみに待ってるのにさ」
額に空いた穴から血を流しながらカンガルーは話す。穴をのぞき込むと、向こうからも誰かが見ていた。KKは目をそらして水風船のかけらを口に入れた。かすかに果物の甘みがした。
「君に食べさせるオススメなんかホントはないんだよ。でもうちのシェフが是非にって言うから仕方なく出してあげてるんだ。美味しいだろ? 美味しいよね。シェフ自慢の料理だよ。勿論美味しいよ。みんなそれを食べて泣くんだ。お願いだからもうやめてもうやめてってさ。――困っちゃうよね」
どうやら店仕舞いのようだ。カンガルーはテーブルクロスを畳み終えた。雨戸を閉め、しおれてしまった花を床に投げ捨て、次々テーブルを倒している。点滅を続ける蛍光灯はゆっくりと光度を下げていた。辺りは静かに闇に呑まれつつあった。
「ねえ、なんで泣かないんだよ。オススメ、美味しいだろ? 勿論美味しいよ、シェフの自慢の料理だからさ。ホントは君なんかに食べさせてあげる義理はないんだけど、まぁしょうがないよね世間一般の常識だからね」
テレビカメラがKKに向かって置かれている。赤いランプがまたたいて、放映が始まったことを告げていた。KKはカメラを見ないようにして水風船のかけらを口に入れた。カメラを操るカンガルーの両手は血で真っ赤に濡れている。
「ねえわかるかな世間の常識なんだよ。君なんか海に浮かぶ木の葉みたいなもんでさ、そのうち海岸にゴミと一緒に打ち上げられてぐずぐずに腐っていくんだ。わかるだろ? 常識なんだよ」
吐き気がする。
「みんなが泣くんだ。だって常識だものね。オススメは美味しいんだよ。常識なんだから。君はなんで溶けてしまわないのかな、常識なのに。あいつが君を頭からバリバリ食いたいって言ってるんだ。――いいよね? 常識だもんね?」
ひどく暑い。
エアコンの効きが悪いのはビルが古いせいなのだろうか、KKはイスに逆向きに腰掛けて机に突っ伏しながらぼんやりと考える。
時計が五時半を回ったところで事務の女性は帰っていった。ほかのみんなも三々五々散り始めている。
「お前明日、七時出勤だからな。遅刻するなよ」
「わかってるよ」
なにをするでもなく榊が予定を組むのを眺めていた。暑さのお陰で普段の倍以上も疲れた気分だった。すぐに立って帰ろうという気にはなれなかった。
「ジィさん、飯奢ってよ、飯」
「――なにか言ったか?」
「飯」
榊は涼しい表情でボールペンを動かしている。KKはむくれてその顔を睨みつけた。
「俺だけボーナス出なかったしさ。ね、かわいい社員の為に、しゃちょおう」
「やかましい」
いきなりげんこつが飛んできた。KKは身を起こしてそれをかわす。誰がかわいいんだ誰が、と呆れたように榊は言い、事務所に自分たち以外の誰も居ないことを確かめると、
「仕事が入った」
手元に視線を落としたまま呟いた。
「どこのマンション? 学校はもう勘弁だぜ」
「明日詳しい話がわかる。準備しておけ」
そう言ってちらりとこちらを見た。KKは肩をすくめて返事とする。
「俺、なんでこんなに真面目に働いてんだろうね」
「嫌なら辞めてもらっても構わないぞ」
「あんたが困るクセに」
榊は返事をしなかった。
KKはしばらく横顔を眺めたあと、同じように無言で立ち上がった。荷物を拾い上げてヘッドホンを耳に当てると、「じゃあね」と後ろ手に手を振って事務所を出た。
外ではむせ返るような熱気が出迎えてくれた。KKは顔をそむけ、うつむきがちに駅へと向かう。ぼんやりと音楽を聴きながら電車に揺られて最寄り駅まで戻り、なにか食っていこうか買って帰ろうかと迷いつつ夜道へ出る。
商店街に足を向けて、結局ラーメン屋で飯を済ませた。そうして本屋に寄ろうと道を折れた時、駄菓子屋の軒先で花火が売られているのをみつけて足を止めた。
何種類かの花火を吟味したあとでKKはなかに入った。ここに店があることは知っていたが、今までなかをのぞいたことはなかった。いつも子供が群をなしているので敬遠していたのだ。
棚には箱が幾つも並び、今時珍しく十円二十円の単位でガムやチョコが売られていた。冷凍ケースのなかには小さなアイスが盛られてあった。そのほかにもちょっとしたおもちゃや実用性に乏しい文房具や菓子パンがずらりと並べられている。
KKはプラスチックで出来た拳銃を手に取り、それが音を鳴らすだけのものではないことを確かめた。箱には「ひとにむけてうってはいけません」と注意書きがされてある。BB弾の詰まったパケットを拾い上げ、ほかになにか面白そうなものはないかと店内を見回した。
「いらっしゃい」
店の奥から出てきたのはでっぷりと太った中年の女性だった。KKはそちらをちらりと見てから品定めに戻った。
紙石鹸や飾りのついた鉛筆キャップ、小さな折り紙、裏が迷路になっているメモ帳、スーパーボール、香りつきの練り消し、おもちゃの指輪、ビーズセット。
水風船。
KKはプラスチックの拳銃(とBB弾)とアイスと水風船を買った。会計を済ませる時、レジに立った中年の女性は、まるで子供に言うように「ありがとうね」と笑った。
そうして今、KKは公園に居る。
辺りはすっかり暗くなり、住宅街の入口にあるこの小さな公園に人影はない。
KKは水道で水風船を膨らませてそれらを砂場に放り出した。自販機でジュースを買い、食い終わったアイスの棒を砂のなかにうずめて腰を下ろし、煙草をくゆらせながら水風船を撃った。
撃たれるたびに水風船は震えたが、割れるものはひとつもなかった。それでもKKは撃ち続けた。ひとつ撃つたびに、美味しいよ、オススメだよ、そう心のなかで呟いて。
美味しいよ。
ばしっ。
オススメだよ。
ばしっ。
「 」/2007.09.02