目が醒めた時から暑かった。
 ――うぜぇ。
 剥き出しの床板にバスタオルを敷いて横になっていたKKは、頭をめぐらせて煙草のありかを探した。一本抜いて口にくわえるとライターで火をつけ、指で灰皿を引き寄せる。横になって見上げる空は青々と晴れ渡り、あちこちからセミの大合唱が聞こえていた。
 じっとりと汗ばんだ肌が気持ち悪い。
 時計を見ると六時を過ぎたところだった。目覚ましが鳴った覚えも止めた覚えもないが、ともかく目は醒めたし外には朝がやって来ている。仕度をしなければ。
 そう思いながらもKKは煙草を丸々一本灰にするまで横になったままでいた。殆ど吸い口ばかりになってしまった短い煙草を灰皿に押し付けてもみ消し、ぼんやりと天井を見上げて、目を閉じる。
 ――仕事行きたくねぇな。
 暑くて動くのもかったるい。バスタオルをキレイに広げ直して横になりながら、さてどうやって具合が悪くなるかなと思案する。だけど榊に電話を入れてあれやこれやと言い訳をする面倒を想像したら、いっそのこと素直に仕事に出る方がマシだという結論にたどり着いた。
 身内だからといって安易に甘やかすような男ではない。その辺りの厳しさは社内の誰よりも熟知しているつもりだった。
 やっぱジィさんと同じところで働くのやめようかなとうだうだ過ごしたあと、ようやくKKは寝床から起き上がった。勿論ベッドはあるのだが、ここのところ寝苦しい夜が続いているので床で眠ることが多かった。既に時刻は七時に近く、部屋の温度は確実に上昇している。朝飯代わりにトマトだけ齧ってシャワーを浴びた。
 着替えのTシャツとズボンをバッグに放り込んで作業着のつなぎに足を通す。上半分は着ないで腰の辺りに巻きつけた。新しい煙草に火をつけ、バッグを肩にかけたところでMDプレーヤーの中身を確認する。なんかうるせぇの聴きてぇなとしばし棚の前で吟味したのち、七時二十分にアパートを出た。
 駅までは歩いて約十分。二十分ほど電車に揺られて新宿に出る。会社に着くのは八時ギリギリだ。
「おはよーっす」
 事務所には殆どの顔が出揃っている。榊は社長らしく机に着いたままちらりと目を上げると、
「お前、出る時にワックス一缶持っていけ」
 と予定表を差し出しながら命令した。KKは予定表を受け取って自分の名前を探し、現在の時刻を書き込みつつ今日の現場と同行のメンバーを確認した。
「車、誰が出すの。俺?」
「高橋が行ってる。バキューム積むの忘れるなよ。あとガラスの道具」
「へいへい」
 現場によって必要となる道具は変わる。車に積める量には限度があるから頻繁に使うもの以外は事務所に隣接するロッカールーム兼倉庫に置いてある。KKは荷物を置きがてらワックスの新しい缶を取りに行った。
「ガラス、二本でいいよね?」
 同じ現場に向かう同僚がスクイージーを手に取りながら訊いてきた。KKはワックスの丸い一斗缶を拾い上げて、念の為に三本、と返した。
「あそこ、細かいガラス多いじゃん。手分けしていっぺんにやっちゃう方がいいと思う」
「わかった」
 自分と入社時期がたいして変わらないその男は素直にうなずいてスクイージーを三本手に取った。KKの方が正式な入社は遅いが、以前から手伝いに来ていたし、なにより榊の知り合いだということで比較的新しい人間には一目置かれているらしい。そういう辺りは楽でいいな、とKKは思う。
 ビルの外に出ると作業車が何台も止まっていた。各自割り当てられた現場へ向かう為に車に荷物を放り込んだり必要な道具を積み替えたりしている。朝の見馴れた風景だ。KKは高橋がバキュームを載せるのを待ってからワックスの缶を積み込んだ。
「聞いたよ。おねーちゃんの居る店に行ったんだって?」
 荷台で道具がずれないよう隙間を埋めながら高橋が笑った。KKは醒めた表情で、行きましたよと呟いた。
「どこの店行ったの」
「歌舞伎町。佐々木さんお勧めの店」
「かわいい子居た?」
 KKはしばらく考え込んでから、まあまあと返事をする。
「顔はいいの揃ってましたよ。うるさいばっかで俺はあんまり面白くなかったけど」
「お前、若いのに贅沢だな」
 呆れたように高橋は渋い顔をしてみせた。
「十代の若者がそんなジジィみたいなこと言ってちゃ駄目でしょ。もっと喜ばなきゃ」
「俺、もう二十歳ですよ」
 同じように渋い顔を返しながらKKは助手席に乗り込んだ。そうだっけ? と高橋はとぼけて煙草を取り出した。
「じゃあもう悪いこと出来ないね。顔写真入りで全国指名手配だ」
 そう言ってからからと笑い、ドアを閉めると車を発進させた。まだ準備をしている同僚たちが軽く手を振ってくるのに応えてクラクションを鳴らし、混み合った大通りへと車を向ける。KKは同じように煙草を取り出しながら大きなあくびを洩らした。またいつも通りの一日が始まった。


「――いらっしゃい」
 店は相変わらず薄暗かった。KKは目の前に落ちてくる幕を手で押しのけるようにしてフロアへ足を踏み入れた。広い店内にはずらりとテーブルが並び、そのどれにも白い布がかけられている。客はKK一人だけで、無聊を囲っていたカンガルーが壁際のイスからひょいと飛び降りて出迎えてくれた。
「久し振りだね」
 イスを引いて腰を下ろした。店の奥は照明が消えている為にどれほどの広さがあるのか正確にはわからない。森の奥まったところにあるこの店はレンガで建てられており、入口には大きなクモの巣が張っている。KKが店へ入る時、クモは巣にかかった小鳥を捕まえて頭からバリバリと食っていた。森の動物は既に死に絶えている。あの鳥が最後の一羽だ。あとは砂漠に倒れて干からびた人間だけ。
「なんにする?」
 森は街を呑み込みつつあった。ビルはあらかた廃屋となり、人の姿もなく、ただ静寂だけが広がっていた。
「オススメにしなよ。オススメ美味しいよ。うちのシェフが三日間頭をひねって考え出した料理なんだ。勿論ほかの料理もお勧めだけどさ、やっぱり一番のお勧めはオススメだよね。なんてったってオススメなんだからさ。ね、オススメにしなよ。オススメでいいよね。美味しいよ、オススメ。間違いないって」
 グラスには紫の花が一輪挿してあった。KKがその花をみつめていると、やがて目の前に皿が差し出された。皿の上には無残に折り曲げられ、ねじり切られた鉄パイプが載っていた。
「美味しいよ」
 カンガルーはフォークとナイフを並べている。どこかで一度、子供の叫び声が聞こえた。
「軟らかく煮てあるからね。みんなオススメを食べていったよ。やっぱりオススメが一番だよね。ほかのものなんて食べなくていいんだよ、オススメなんだからさ。君は知ってると思うけどうちはここいらじゃ評判の店だろう? だからお客さんがひっきりなしにやって来るんだ。勿論オススメを勧めたよ。だって美味しいんだからさ」
 ナイフを入れると、鉄パイプはなんの抵抗もなく切れた。ただそれにあわせて再び子供の叫び声が聞こえたような気がした。KKが手を止めるとカンガルーはじっとこっちをみつめ、「美味しいよ」と呟いた。
「君は知らないだろうけど、みんなそれを食べて泣くんだ。今までわがまま言ってごめんなさいってしきりに泣くんだよ。そんなに感動されるとこっちも嬉しいよね。シェフが三日間頑張った甲斐があったっていうもんだよ。ね、そうだよね。やっぱり人の言うことなんか聞いてちゃ駄目なんだよ。どうせあいつらなんにもわかってないんだからさ」
 かけらを口に含むと水にふやけた錆の匂いが口いっぱいに広がって消えた。KKは眉をしかめてかけらを飲み込む。喉をつるりと落ちて背中から出ていった。カンガルーがおかしそうに笑っていた。
「みんなやめられなくなるって言うよ。君もしょっちゅう来ればいいのに。うちはいっつも混んでるけどさ、君の為なら特別に席を空けておくよ。オススメを食べて欲しいからね。オススメ、美味しいだろ? それがあったらほかの食べ物なんかいらないよね」
 KKは銃を抜いてカンガルーを撃った。カンガルーは額に穴を空けられたまま、美味しいだろ美味しいよね美味しいんだよオススメだからねと笑っている。
 ナイフを入れる。鉄錆の匂いが口いっぱいに広がって消える。
 森が移動を開始した。また破壊される街が出てきてしまう。廃墟をたどるのにはいささか飽きてきたが仕方がない。これも役目だ。
「終わったら帰っちゃうの?」
 帰るよ、とKKはうなずいた。
「なんで? もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
 カンガルーの額に空いた穴の向こうで誰かが笑っていた。


 日陰に居るのにちっとも涼しくない。
 KKは植え込みを囲むブロックの上に腰を下ろして腕時計を見た。十二時五十三分。中途半端な時間に帰ってきてしまったものだ。どうせならもう少しコンビニで涼んでいればよかった。
 飯を済ませたあと作業車に戻った連中は当然のようにクーラーを効かせてなかで眠っている。ドアを開けると起こしてしまうので一時になるまで車には戻れない。買ってきたばかりのペットボトルのフタを開けて中身をひと口飲むと、しゃあねえなと呟いて煙草を取り出した。
「お疲れさんです」
 不意に野太い声がしてKKは顔を上げた。五十がらみの色黒の親父がKKと同じ青のつなぎを着て立っている。KKはどうも、と呟いて軽く頭を下げた。夏の大仕事が重なった為に臨時で雇った坂田という新人だ。掃除の仕事は初めてのようで要領がつかめないらしく、ほかの誰かが苛立った声で説明を繰り返す場面を何度か目撃していた。
 坂田は首にかけたタオルで顔の汗を拭きながら隣に腰を下ろしてきた。この男と組むのは今日で二度目だが、お互い積極的に打ち解けようと頑張るタイプではないのでまともな会話は今までに殆どなかった。榊より年上だし、なにを話せばいいのかさっぱりだ。
「暑いね」
「そっすね」
 KKはうなずいて煙草に火をつける。二人が居る場所は現場であるマンションの入口脇で、目の前の住宅道路を通る人の姿はない。早く時間にならねぇかなとKKはわざとらしく腕時計を見た。
「なんか、まいるよね。毎日こう暑いと」
 お宅はまだ若いからいいだろうけど。坂田はそう言って手に持ったお茶の缶をあおった。
「このあいだ行った大学の時もそうだけど、残業とか多くて、やってらんないって感じだね」
「まぁ、毎年この時期はそうですけどね。学校の清掃が重なるから早出残業ばっかでクタクタ」
 でなきゃあんたみたいにくたびれた親父、誰が雇うかよ。煙草の灰を叩き落としてKKは苦笑する。そうして顔を上げると、坂田は何故か怪訝そうにこちらを見ていた。思いもよらぬことを言われて怒っているようにも感じられた。
「この仕事、長いんだ?」
「長いっつうか、入社は春ですけどね。三年ぐらい前からちょくちょく手伝いに」
「へえ……」
 坂田は言葉を切ってお茶を飲んだ。どういうわけか気まずい空気があった。KKは無視して煙草を吸っていたが、やがて坂田はなにも言わずに立ち上がり、作業車の後部座席のドアを開けた。なかの人間が振動に気付いて起き上がるのが見えた。
 KKは煙草を吸い尽くしてから立ち上がった。排水口の溝のなかに吸殻を落としながら、
 ――残念だったな、おっさん。
 思わず苦笑する。
 多分新規のアルバイトと勘違いしたのだ。自分が社内で最も若いと見て上の立場に出ようとしたのだろう。五十を過ぎて短期雇いの清掃業にしか就けない自分のプライドを守りたかったのだろうが、くだらねぇな、とつい鼻で笑ってしまった。
 ――でもまぁ、好きにしろよ。
 いくらでも見くびっておけ、とKKは思う。


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