「なに〜?」
 KK専用の個室に入って扉を閉めたMZDは、戸口付近に立ったままふらふらと揺れていた。別に酒を飲んでいるわけではないのだが(事実素面だ)、ずーっとぼーっとKKのことを考えていたので、その本人が目の前に居るという事実に酔っていた。
 KKのこと考えてたらホントにその人が来るなんて俺ってばなんて幸せ者なんだろう、神様ありがとう! と、自分が神様であることも忘れ、そしてKKはMZDのことなど関係なしに来たければ来るしそうでないなら来ないという事実も忘れて、ただただ幸せだった。
 この世の中に「偶然」というものが存在する、ということは既に念頭にない。
 もっとも神様が幸せでなかったら世界はおしまいだ。特にこの神様は、こんな感じで居るのがちょうどいいのかも知れない。
 KKは立ったままビールを半分ほど飲み干した。そうしてグラスをテーブルに置くと、「ちょっと来い」とMZDを呼んだ。
「なに?」
「ここ座れ」
 KKはソファーに深く座り、両足を広げた。その彼が「ここ」と叩くのは、自分の両足のあいだにあるわずかな空間だった。MZDはソファーの前まで歩いていってしばらく考え込み、向かい合う恰好で座ろうと両膝を付けたが、どう頑張っても無理なのは明らかだった。
「え、どゆこと?」
「そうじゃなくって――」
 苛立った表情のまま腕を取るとKKはMZDの体をぐるりと半回転させた。そうして腰の辺りをつかむと乱暴に抱き寄せた。つまりMZDは後ろからKKに抱きしめられる恰好になっているわけだ。
「え? なに? なに!?」
 あまりに突然のことで驚いてしまい、何故かはわからないがMZDは逃げ出そうともがいていた。思えば自分から抱きついたり抱き合ったりするのはしょっちゅうだが、こんな風に抱きしめられるのは(しかも背後から抱きすくめられるなどということは)少なくともここ五十年のあいだは一度もなかった。要するに馴れていないわけである。
 じたばたともがくのを、それでも辛抱強く押さえつけながら、「なにって、別に」とKKは素っ気なく答える。
「嫌なのかよ」
「え、いや、あの、嫌って言うか、や、いや、あの、」
「……嫌ならやめるけど」
「いや! や、いや、あの、あのいや、や、いや、あの、あの!」
 突然腕が離れて解放された。身を固くしたまま振り返ると、KKはバンザイをするみたいに両腕を上げてこちらを見ていた。
「……もう一回だけお願いします」
「…………」
「もう騒がないから」
 そう言いながらも、やはり抱きしめられると緊張した。心臓がバクバクと大きく音を立てて打っているのがわかった。
 ――あーーービックリしたービックリしたよー! 思わず心臓止まるかと思っちゃったー! え、なに、KKってば急にどうしちゃったわけ? やっぱりお正月ずっと一緒に居たのが効いたのかな、俺のこと可愛くてたまんないーっとか、あ、もしかして新しい必殺技か!? 必殺「ときめき殺し」! そっかー、ちょっとこれは俺様にはたまんないよな。あー幸せ過ぎるー。もういっそ成功例第一号になれるんだったら、一度ぐらい心臓止まっちゃってもいいかもなー。
 ……などととぼけたことを考えていたので、KKの様子がおかしいことにはすぐに気付かなかった。しばらくして身じろぎしようとしたのだが、腕の力が緩むどころかいっそう強く抱きしめられたので、ようやく「なんか変」と思うことが出来た。
「KK?」
「……」
 顔を伏せたままなにも答えない。手を伸ばしてKKの腕に触れると、少しずつ抱きしめる力が弱くなっていった。

 ――自分の強欲さに反吐が出る。

 KKは腕の力を抜いていった。ぱたりと落とした手の片方を、MZDが軽く握った。
「どしたん」
「……」
 どうもしない、とKKは首を振る。MZDがゆっくりと立ち上がった。顔は伏せたままだったが、奴がこちらを見ているのはわかった。
「ジィさんと喧嘩でもした?」
「なんでだよ」
 何故榊の名前が出てくるのだと、思わず笑ってしまった。だがMZDは当然のように、
「だってお前が落ち込むのってジィさん関係だけだろ」
「……そんなことねぇよ」
「そんなことあるよ」
 KKは握られた手を振りほどき、上着のポケットから煙草を取り出した。あらためてソファーに座り直すと、煙草に火を付けMZD目掛けて煙を吐き出す。
 奴は動かない。表情も変えない。
 しばらく睨み付けていたが、やがて目をそらせた。なにか言い返したいのに言葉が思い付かなかった。多分、半分は当たっている。でも残りは自分でもよくわからない。俺は今日なんの為にここへ来たのか。
「――座れば?」
 気まずい空気を誤魔化すようにKKは言った。MZDは小さくうなずき、さっきと同じように自分の真ん前へ座ろうとした。
「なんでそこなんだよっ」
「え!? だってさっきはぎゅうーってしてくれたじゃん! 俺、幸せ過ぎて心臓止まるかと思ったんだけど!」
「知るか!」
 腕で追い払うと、MZDはちぇーっと言ってソファーに横になり、肘掛けに両足を上げてKKの足へと頭を載せてきた。それは「横になる」であって座るとは言わねぇだろうと思ったが、深くは追及しないでおいた。
「で? なにヘソ曲げてるわけ?」
 やや伸び過ぎた前髪を引っ張られてKKは下を向く。
「……なんでお前はいちいち気に障るような喋り方すんだよ」
「性格悪いから」
 そう言ってMZDはにやりと笑った。自分で言ってりゃ世話ねぇやとKKは鼻を鳴らす。腕を伸ばして煙草を灰皿に置くと、代わりにグラスを拾い上げた。MZDは空いた方の手を握り、ドアの向こうから聴こえる音楽に合わせて自分の胸を軽く叩いている。
 こうやって一緒に居るのが普通になった。ふと目を向けると、こちらの視線に気付いて見返してくる。そうして、なに? と訊くみたいに軽く首をかしげる。KKは首を横に振ってビールを飲んだ。
 別に落ち込んでいるわけじゃない。ここへ来る理由はひとつだけだ、こいつに甘えたくて会いに来ている。そしてそれを自覚するたび、自分に唾を吐きかけたくて堪らない。
 自分の強欲さに反吐が出る。
 年が明けて一週間以上が過ぎた。ここ数年、KKは新年を迎えるたび言いようのない不安に怯えている。榊が宣言した『引退』の年が徐々に近付いているせいだ。
 結局のところ『引退』がなにを示すものなのか、未だにはっきりとしたことを聞いていない。裏の仕事からは手を引くつもりでいるらしい。今わかっているのはそれだけだ。引退したあとどうするのか、掃除の仕事も辞めてしまうのか、……訊けばいいのだろうけど、一度うやむやになって以来ずっと機会を逃している。
 ――結局、俺はどうしたいんだろう。
 ほのかな予感はずっとあった。多分榊は期限が来たら死ぬつもりで居る。おとなしく余生を送ることなど微塵も考えていない筈だ。そんなのKKにだって想像がつかない。出会った時からあの男は現役の殺し屋で、KKはただそのあとを必死になって追い続けてきた。未来になにが待っているのかなんて考えている暇はなかった。
 皮肉なものだ。これまで散々他人の命を奪ってきたクセに、今更一人の人間の生死に惑わされるなんて。
 ――所詮は他人じゃねぇか。
 KKはグラスに残っていたビールを飲み干して息を吐く。
 血は繋がっていない。戸籍上は養子となっているが、そんなものは書類のやり取りの結果だ。あの男がどうなろうと知ったこっちゃねえ――
「暗い顔して」
 揶揄するような呟きにKKは振り向いた。下からMZDがこちらの顔をのぞき込んで、やっぱ落ち込んでんじゃんとニヤニヤ笑っている。
 KKはグラスを置くと「ちょっと立て」と言って奴の腕を引いた。そうして立ち上がったところを捕まえて、またさっきのように背後から抱きしめてやった。
「は、あ、え!? ちょ、いきなりは卑怯! 卑怯だよー!?」
「だから嫌ならやめるっつってんだろ」
「いや! いや、あの、嫌って言うか、や、いや、あのぉ!」
 MZDは無意識のうちに逃げようとじたばたもがき、KKは逃がすまいとしっかり抱きしめる。
 やがて観念したのかおとなしくなったMZDが恐る恐る振り向き、動揺の残る目でこちらをみつめてきた。あまり見ない表情がおかしくてKKは笑い、そうしながらも、途中で力が抜けてしまって顔を伏せた。
 KKの手を握ったまま奴は沈黙している。
 一人じゃなくて良かった。


あなたが居るから/2009.01.12


back 音箱入口へ