ヘルクリーンは新宿の大ガードを西に出て靖国通りを少し進み、そこから道を一本脇に入ったところにある。都庁の方へ行けば広々とした道がキレイに整備されているが、案外この周辺には古臭いビルや商店が残っており、彼らの事務所もそんな昭和の香りを残す雑居ビルのなかにあった。
 三階の狭いフロアを丸ごと借り切って半分に仕切り、片方は事務所兼会議室、もう片方はロッカールーム兼倉庫になっている。
 掃除屋とひと口に言っても、作業内容は多岐に亘る。床掃除、絨毯洗い、ガラス清掃、タイルの目地磨き。ハウスクリーニングも定期的に行っているし、マンションの煤払いだってやる。変わったところではトンネルの内壁掃除というのがあるし、頼まれれば芝刈りだってする。こっそり人も掃除しちゃったりする。
 意外と繁盛しているヘルクリーンの二代目社長が榊だ。今から十年ほど前、突然姿を消した初代の後釜として無理やり今の地位に就かせられた。言っておくけどあくまで代理だからな、とくどいほど念を押したことを、当人だけが時々思い出す。そうして、そのことを覚えている奴なんてもう居ないのだろうなぁと、ワックスが乾くのをぼんやり待っているあいだにため息なんかついてみたりする。
「辛気臭ぇな」
 脇に立って同じく床を眺めていたKKが、榊のため息を聞きつけて呟いた。榊はあらためてため息をつき直すと、「大人には色々あってな」と小さく首を振った。
「大人っつうか、ジジィじゃねぇか」
「やかましい、クソガキ」
 即座にKKが睨みつけてきた。榊はそれを横目で眺め、
「……ここまででかくなると、可愛げもなくなるなぁ」
「うるせぇよっ」
 なに泣き真似してんだと言って、KKは苛立たしげにモップでワックスの缶を叩いた。榊は二十分以上もこうして送風機の柄を握り、ぼんやりと床を眺めている。要するに暇なのだ。
 初出勤の今日、現場はこの事務所だけだ。どうせ午前中で終わってしまうからと予定に入れたのは自分とKKだけだった。それが多分いけなかったのだろう。朝方顔を合わせた瞬間から今の今まで、仕事をしているのだという気になれなかった。作業はきっちり済ませたものの、どこかスイッチが切れたままになっているのが自分でもわかった。
「もうほっといて、飯食いに行こうぜ」
 モップを缶の上に置いて煙草を取り出しながらKKが言った。そうだなぁと呟いて榊はゆっくりと首を回す。十一時を少し過ぎたばかりだが、ゆっくり飯を食って戻ってくる頃にはさすがにワックスも乾いているだろう。そうしたら荷物を戻して、仕事は終了だ。
 近くに食堂などない場所だから作業車での移動となる。運転はKKに任せて榊は助手席に座り、座席に深く腰掛けると、もう一度大きなため息をついた。
「やっぱり歳かね。最近体動かすのが辛くてなぁ」
「ジィさん、そろそろ還暦?」
「まだそこまでいっとらんわ」
 KKの腕をがつんと殴って煙草を取り出した。KKは笑って車を発進させながら、「とっとと引退すりゃいいじゃん」と言った。
「そうだな」
 はからずも沈黙が訪れた。しばらくしてから横を見たが、KKは運転に集中している様子だった。
「……お前、社長になる気は」
「全くない」
「ちょっと試しに」
「熨斗つけて突っ返す」
「そこまで毛嫌いしなくたっていいだろう」
 榊は眉根を寄せるが、KKの表情は変わらなかった。
「だいたい俺なんかよりもっと適任なのが居るだろうによ。柴田さんとか」
「柴田なぁ」
 実は一時的にだが、ヘルクリーンに三代目の社長が就任したことがあった。それが柴田という男で、歳は榊より下だが、初代と共に働いた期間は榊よりも長い。実際社長の座を譲るとなればあの男ぐらいだろうと思っているが――
 ――そういうことじゃないんだよな。
 ぼんやりと考えながらゆっくりと煙を吐き出す。
 榊は北海道で生まれた。彼にとって確実なのはそれだけで、実は歳も名前も偽物だ。生年月日は元から知らなかったし、仕事の都合で何度か戸籍を変えたせいか、時々自分が幾つなのか本気でわからなくなることがあった。
 実感としては確かに五十を過ぎているし、お前とうに還暦過ぎてるよと誰かに言われれば、あぁそうなのかと納得出来る気もする。
 それだけ密度の濃い人生を送ってきた。特にこの二十年ほど。KKを拾ってからは尚更だ。
 ――二十年、か。
 榊はちらりと横を見た。
 あの小汚いクソガキが、今では一人前の顔をして車を運転し煙草をふかし、生意気にもヒゲなぞ生やして自分の隣に居る。仕事の話をすれば詳しく語るまでもなく理解し、ある程度の流れを作って自ら動く。
 拾い物だった、と言ってしまうのは簡単だ。だがこの二十年以上のあいだ、何事もなく穏やかに日々を過ごしてきたわけじゃない。
 榊は三年前に『引退』を決めた。残された期間はあと二年。勿論誰かに命令されたわけじゃないから撤回は自由だ。しかし引退を決意した時、榊は半死半生の状態で居た。その時診てくれた医者は(香月という昔馴染みの男だ)「あんな傷じゃあ多分死なないよー」と笑ったが、そのまま死んでいた可能性もあった。なにせ腹に銃弾が二発納まったままだったし、出血も止まっていなかったのだ。
 死ぬことは別に怖くない。今まで散々人を殺してきた。いつか同じように――あるいはもっと苦しみながら――殺されるだろうと覚悟している。
 ただ、自分が死んでも世界は続く。
 幸いその時は生き残ることが出来たが、ある日突然自分がこの世から消えてしまう可能性がなくなったわけじゃない。普段の生活をこなしていたってそうだ。いつ事故に巻き込まれるかわからないし、通り魔に遭わないとも限らない。天災で命を落とすかも知れない。その確率は世界中の誰とも変わらない。そしてほんの少しだけ、自ら死に近い方向へと足を踏み出している。
 二十年。
 生まれたばかりの赤子が成人するほどの年月だ。血は繋がっていないが、これは確かに自分の「子供」だ。そんな人間になにを残してやれるのだろうと、榊はずっと考えている。
 金か? ないよりはマシだろうが、大量にあったとしても事業を起こすような人間ではない。恐らくどうでもいいような下らないことにあっさりと費やすか、使い道に困って冷蔵庫に突っ込んでおくかのどちらかだろう。
 ではほかになにがある? 技術は全て教え込んだ。ほかになにがある?
 一度だけ、弾の入った銃口を向けられた。それが望みであるならそれでも良かった。父親を殺された復讐か――口実がなんだったのかはもう忘れた。むしろお前に殺されるのかと安堵した覚えがある。
 今でもそれが望みなのだろうか。何食わぬ顔をして横に居て、ある日突然息の根を止められるのだろうか。
 もし本当にそうやって殺されたとしても、少なくとも恨まずには死ねると思う。KKには充分その資格がある。だがそうであるなら、こちらだっておとなしく殺されてやるつもりはない。あらゆる手を使って反撃してやる。一度限りのチャンスをこの若造は逃したのだ。それに昔から宣言してあった。
 殺したきゃ殺せ。だが俺が黙ってやられるとは思うな――。
「そうだ、忘れてた」
 車を降りたKKが不意に手を差し出してきた。なんだ? と訊くと、
「お年玉」
「くれるのか?」
「なんでだよっ」
 同じように差し出した手のひらを、KKはばしんと音が鳴るほど強く叩き返してきた。


 イベントの醍醐味は終わる瞬間にある、とMZDは考えている。勿論始まりだって重要だ。最初のノリがイベントの出来を左右する。
 だがそれでもいつかは終わりが来る。最後をどう締めるかでそのイベントの評価が決まる。だから最後の最後まで気が抜けない。特にイベント続きの年末は尚更だ。クリスマスから息をつく間もなく年越しのカウントダウンパーティー。イベント目白押しの年末。年明けの瞬間の歓声、ラストまで客を飽きさせないステージ作り。
 ――などなどに奔走した結果、毎度のことながら年明けのMZDは気が抜けている。特に今年は四日までKKのアパートでいちゃいちゃダラダラしたお陰か、時折気味の悪い笑い声を上げて一人で悦に入っていたりする。立派な不審者だ。
 しかし店の人間はそういう姿を見馴れているのであまり驚かない。オーナー一人だけが開店休業状態で、今日も店は平穏無事に営業中である。
「晃くん」
「はい?」
 店で働くバーテンの晃はレタスを千切りながら顔を上げた。スツールに腰を下ろしてだらしなくカウンターに伸びたMZDが、にへら、とこれまただらしなく笑いながら言った。
「お正月って、いいよね」
「――そうですね」
 なにがどういいのかはさっぱりだが、まぁ年が改まるというのは気分のいいものだ。否定はしない。素直に同意が得られて満足したのか、MZDはグラスに刺さったストローを指でもてあそびながら、だよねぇと呟いた。
 この店で働き始めてだいぶ経つ筈の晃だが、元旦をはさんだこのオーナーの変わり様には、まだ少し抵抗があった。元から変わった人だなという認識は持っていたが、ここまで腑抜けになられると、さすがに不安にもなる。
「よお」
 KKがやって来た。いつものつなぎ姿だ。残業でもこなしてきたのか、疲れたような目も相変わらずだ。こんばんは、と言うのにうなずき返してKKはMZDの隣に腰を下ろした。
「KKだぁ〜」
 MZDはのろのろと上体を起こすと、KKの上着の袖をつまんでぶらぶらと揺らし始めた。ビールを注文し煙草を取り出して火を付け、仕事始めだったんですか、いや仕事は一昨日から始まってる、正月どうしてたの、一応実家に帰りました、一日だけでしたけどね――と二人が会話をしているあいだも、MZDは飽きずにKKの腕を振り続けていた。
「……酔ってんのか?」
「多分……」
 まぁこの時期はしばらくこんな感じですけどと言って晃はグラスを差し出した。KKは煙を吐いて呆れたようにMZDを見ている。視線を感じて顔を上げた腑抜けオーナーは二人の顔を見比べると、再びにへらと笑ってみせた。
 KKは肩をすくめた。晃も苦笑を返すだけだ。
 やがて煙草をもみ消したKKはグラスを持って立ち上がり、
「おい」
 ちょっと顔貸せとMZDにあごをしゃくった。
「なに〜?」
 危なっかしげに立ち上がったMZDは、ふらふらとした足取りでKKのあとを追う。腑抜けが過ぎたのか、文字通り地に足が着いていない。まるで夢遊病者だ。きっと店へ来る前、しこたま酒を飲んだに違いない。
 ――気楽そうでいいなぁ。
 カウンターを片付けながら、でもオーナーのあの姿を見ないと年が明けたっていう気がしないんだよな、不思議だよなぁと首をかしげる晃であった。彼もだいぶ馴染んできたらしい。


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