『別にいけなくはないけど』
「ちょっと暇潰しに話に付き合え」
『残念ながら俺様、今すっげー忙しいんだもんねーだ! お前なんかの相手してる暇はこれっぽっちもないんですよー!!』
 どうやらさっきの電話を根に持っているらしい。お前はガキかと思わず胸のなかで呟いていた。
「そっか、忙しいのか」
『そうよ。今日もお客が超満員で大変なんだからっ』
「そっか。そりゃ悪い時に電話したな」
『え?』
「じゃあな。仕事頑張れよ」
『――や! あの!』
「なに」
 煙草の灰を叩き落とす。単純な奴だ。笑いをこらえるのが辛い。
『……ちょっとだったら、別にいいよ』
「どっちなんだよ」
 とうとう我慢し切れずに吹き出してしまった。
『え、今どこに居んの?』
「自分ち。風呂上がってぼーっとしてた」
『遊び来りゃいいじゃん』
「今からかよ。めんどいよ」
『だから、さっき来れば良かったのにぃ』
 不機嫌な呟きが聞こえ、お前があんないたずらしなけりゃ行ってたかもなと胸の内で言い返す。それきり言葉が途切れてしまった。元から用があって電話をしたわけではない。ぼんやりと立ち昇る紫煙を眺めていると、ねえねえと奴が話しかけてきた。
『今から来なよ』
「んー……」
『……ちょっとでいいから、顔見たいんだけど』
「お前が来りゃいいだろ。そんなに俺のこと好きなのかよ」
『好きだよ』
 あっさり答えられてしまい、KKは思わず返事に詰まる。もごもごと口ごもり、そりゃどうもとかなんとか言い返した時、からかうような声が聞こえた。
『淋しいから来てって言ったら、行ったげる』
「淋しくて死にそう」
 いきなり電話が切れた。冗談だよと口にしかけた言葉は行き場を失って消えてしまった。KKはしばらく茫然と携帯電話の画面を眺めたあと、なんだよ、と吐き捨ててベッドに放り投げた。
 一度煙草を吸い込んでもみ消し、落ち着き悪く部屋のなかを見回す。まだ寝るには早過ぎる時間だ。とりあえずトイレにでも行ってくるか。そう思って立ち上がった時だった。
「こんばんはー!!」
 突然窓が勢いよく開いて大声が聞こえた。驚いて振り返ると窓の外にMZDが満面の笑みで浮かんでいた。
「淋しがり屋の子猫ちゃん。さあ! 僕の胸に飛び込んでおいで!!」
 そう言って奴は芝居じみた仕種で大きく両手を広げた。とりあえず一応夜なんだから近所迷惑だろうとか、なんであんな冗談を真に受けるんだとか言いたいことは色々あったが言葉にならなかった。KKはがっくりとうなだれ、早く早くと手を振る奴に向かって真似をするように指で呼び寄せた。
「え? なに?」
「……いいから来い」
 そっちから来い。
 そう言うと奴は歓喜の悲鳴を上げてものすごい勢いで抱きついてきた。メガネがぶつかるのも構わずに、首の辺りへ頭をごりごりと押し付けてくる。これが猫だったら盛大に喉でも鳴らしている場面だ。
 ――なんだかな。
 この男の好意はある程度までは嬉しいが、いささか過剰に過ぎる時があってなんとなく落ち着かない。今もしきりにキスを求められているけれど、しまいにはいい加減にしろよと殴りつけてしまう。それでもめげないところは、多分奴の美点だろう。
「なにか飲むか?」
「それより腹減った。コンビニ行かねえ?」
 着替えたあとだったが、呼びつけた手前断るわけにはいかなかった。仕方なくもう一度着替え直して外に出た。
 夜はさすがに冷える。KKはマフラーを口元まで引っぱり上げた。駅から家路を辿る人とすれ違いながらのんびりと夜道を行った。
「お前、店ほっぽり出して平気なのかよ」
「大丈夫。うちの従業員さんたち、みんな優秀だから」
「トップがこれだもんな」
「どういう意味っ」
 MZDがむくれて背中を殴りつけてきたが、笑って誤魔化した。
 買い物を済ませたあと、ちょっと散歩しようよと誘われた。どこへ行くという目的もなしに、二人はぶらぶらと夜道を歩いた。駅の向こう側へ行って商店街の端の細い路地に入り込み、途中でぶつかった遊歩道をただ北へと向かう。
 歩いているうちに、次第に寒さを忘れていった。歩道の両脇には様々な木が植えられていて風を遮ってくれる。夜空にはぽっかりと満月が浮かんでいた。キレイだねと奴が言い、そうだなと短く言葉を返す。なんとなく、このままどこまでも歩きたい。たまにはこういう夜もいい。
 道が途切れる場所に小さな公園があった。少し休もうよと言うので、側にあった自販機でコーヒーを買ってなかに入った。MZDは公園の真ん中にある滑り台の上に座って「こっちこっちー」とKKを呼ぶ。KKは肩をすくめ、それでもあとについて狭い階段を上っていった。さすがに上に二人は並べないので、そのまま段に腰を下ろす。そうしてぼんやりと周囲を見回した。
「……俺ら、立派な不審者かもな」
「なんでー? 公園で愛の語らいしてるだけじゃん」
「してねぇだろ」
 照れるなよぅとMZDが笑った。KKは返事をせずに煙草を取り出した。
「――あ、月が隠れちゃった」
 声に顔を上げると、薄い雲がまん丸の月を包み込んで流れていた。明日は雨でも降るのだろうか。夜空に向かって煙を吐き出す。
 ふと気が付くと影の姿が浮かび上がっていた。宙を飛ぶ、小さなきらきら光るものを両手に受けて手のなかでこね回し、塊となったそれに息を吹きかけてまた宙へと戻している。きらきらと光る雫は風の吹くままに浮かび上がり、夜空高くへと飛んでいく。かすかに音楽が聴こえるような気がした。あれが星になるんだろうかとKKはぼんやり考えた。宇宙の、誰も居ないところで、星は一人で歌っているんだろうか。
 MZDは滑り台からブランコの支柱に移動していた。支柱の上に立って、影がきらきら光る雫をばら撒くのを見守っている。上着のポケットに両手を突っ込んで夜空を見上げ、かすかに聴こえる音楽に乗ってゆらゆらと体を揺らしている。なにが嬉しいのか今にも笑い出しそうな、恍惚とした表情だ。
 そうして気が付いた。きらきらと光るものは奴の全身から静かに現れていた。
「……神様、なにしてんの」
 MZDは音楽に乗って体を揺らしながら静かに片目を開けた。KKを見て小さく笑い、
「幸せになってんの」
「……」
「いつものことだよ」
 そう言って宙に浮き上がり、音もなくKKの目の前へとやって来た。MZDの体はわずかに発光していて、さわったら温かそうだなと思った。
 ふと空いている方の手を伸ばして髪に触れた。別に温かくはなかった。だけど髪に触れている自分の手が光に照らされて、少しだけ明るく見えた。はっきりとしない音楽が、やはりどこからか聴こえてくる。
 MZDは髪を梳くKKの手の動きに身をゆだねていた。うっすらと目を開けて、ぼんやりとどこかをみつめている。
「お前の幸せの基準値は低そうだな」
「高くする必要なんてどこにもないじゃん」
 そうして、なにかがないと幸せになれないわけじゃないよと言った。
「自分が幸せだって気付くだけでいいのに」
「……捉え方の違いだな」
「だね。コップ半分の水をどう見るか」
 もう半分しかないと思うか。
 まだ半分もあると思うのか。
「KKは?」
 ふと顔を上げてMZDが訊いた。
「今、幸せ?」
「……」
 KKは手を下ろして煙草を吸い込んだ。そうして煙を吐き出し、短くなった煙草をもみ消した。
 ――今、幸せ?
 わからない。だが今まで自分が不幸だと思ったことはない。自分を不憫だとか哀れだとか、恵まれない境遇だとか、そんな風に考えたことは一度もなかった。比較対象が居なかっただけかも知れないが、もし似たような人間が存在したとしても、比べるのは多分仕事の腕だけだろう。そんな作業は必要なかった。だから、少なくとも不幸ではない。だけど、
「わかんねぇな」
 肩をすくめて正直に答えた。
「とりあえず生きてるってだけで、幸せっちゃあ幸せなんだろうけど」
「そうだよ。居るだけでいいんだよ」
 MZDが静かに両手を取った。
「生きて、誰かに出会って、なにかにぶち当たって、怒ったり泣いたり笑ったりして、別れたり、また出会ったり――それだけでいいんだよ」
 それが幸せってヤツの正体だよ、と言って、唇を触れた。
 その姿を見ながらぼんやり思った。――こいつは何十年、何百年、いやひょっとしたら何千年ものあいだ、こうやって全部の人間を見送っていったんだ。
 そんな奴が、俺を呼んだ。
『俺のこと忘れないで』
 KKは不意に恐怖を覚えた。今初めてMZDの言葉の意味を理解したような気がした。そうして思った――俺なんかが受け止められるのか? なんで、よりによって俺なんだ?
「どしたの?」
 表情に出さないよう気を付けていたのに、ふとした緊張を感じ取ったらしい。MZDが顔を上げた。別に、と呟きながらも、ついぼやきのように言葉を口にしていた。
「……なんで俺なんだよ」
「え?」
「お前、知り合いなんか腐るほど居るじゃねぇか」
 この男のことを忘れない人間はたくさん居る。この男と直接話したという人間はもっと居る。人づてに聞いたことがあるという人間を含めれば、それはどこまでも広がっていくだろう。
 なのに、なんで俺?
 しかしMZDはまるでむずかるようにうなり声を上げ、握りしめたKKの両手を上下に振った。
「KKと一緒だって、こないだ言ったじゃん」
「一緒じゃねぇよ。俺が今まで何人殺してると――」
「一緒だよ」
 そうして、一瞬だけ泣きそうな顔になった。
「俺は結局、お前になにもしてやれないんだよ。お前がお前の人生を好きなように歩くのを見てるだけ。手助けはしてやれる。……でもそれだけだ。なにかのきっかけになってやるぐらいしか、俺には出来ないんだよ。それでいいんだよ」
 お前の方がずっとずっと自由なんだよ、お前らそれ知ってていつも気付いてないんだよなぁ――苦笑するように口の端を盛大に歪め、そうして不意に涙をこぼした。
「俺はなんでも出来るけど、なにも持ってないんだよ。お前らが居てくれなきゃ、俺なんか居ないのとおんなじなんだよ……っ」
 ――だから、俺のこと忘れないで。
 ほかにはなにも望まないから。
 MZDは背中を丸めて静かに泣いた。両手を取られたままのKKはなにも言葉がかけられず、その様子をじっと見守っていた。
 不意に、目の前にきらきらと光る雫が落ちてきた。顔を上げると、高いところで影が雫を吹き飛ばしていた。さっきよりもいっそう強く、よりいっそう遠くへ向かって。
「……おい」
 気が付くとそう声をかけていた。
「お前、今、幸せか?」
 こぼれ落ちる涙を拭いもせずにMZDが顔を上げた。
「それでも、幸せか?」
「――うん」
 両手を伸ばして抱きついてきた。うん、ともう一度、繰り返す声が聞こえた。
「幸せ過ぎて死んじゃいそう」
 あまりの台詞に、思わず苦笑が洩れた。
「神様が死んじまったら、世の中終わりじゃねぇか」
「大丈夫。お前らが生きてる限りは死なないから」
「じゃあお互い様ってことか」
「そだね」
 二人は顔を見合わせて笑った。先に笑いを収めたMZDが、ふっと真顔になってこっちをみつめてきた。なんだよと問いかけるように目を向けると、
「ありがとな」
「なにが?」
「居てくれて」
 そう言ってまた抱きついてきた。
「……別にお前の為に生きてるわけじゃないんだけど」
「知ってる」
 ただ勝手に生まれて勝手に育って、たまたま知り合って。
「だから言ったじゃん。俺も同じだって」
 勝手に好きになって勝手に幸せになっている。
「お前、居るだけで神様幸せにしてんだぜ。もうちょっと自分の存在に誇り持てよ」
 普通の口調だったのに、何故か叱られたかのようにはっとした。驚いて顔を上げると、しかし言った当人はなにも考えていないような顔でこちらを見返すばかりだ。なに? と訊かれたが、KKはなにも言わずにただ首を振った。
 触れるだけのキスをした。抱きついてくるのを抱き返した。
 KK、好き。大好き。
 いつもの呟きが聞こえる。だけど、そこから汲み取る意味は、今は違う。


もう一度、あなたと迷子/2008.02.22


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