カーペット用のバキュームで泡を吸い取っていたKKは、吸い込み口から灰色の汚水が噴き出すのを見てスイッチを切った。タンクのフタを開けると限界まで水が溜まっている。仕方なく手近にあった空バケツに汚水を汲み出し、作業に戻ろうとホースを持ち上げながらも、力が入らずにそのままの姿勢で天を仰いだ。
「なーに休んでんの」
 泡を吸い終えた部分の荷物をおろしていた高橋が、背後からせっつくように声を上げた。
「もう疲れたよ。高橋さん、代わって」
「あともうちょっとでしょ。ファイト」
 かわいらしい口調で言われたところで、その言葉を口にしているのは今年四十にもなるむさい親父だ。元気が出るどころか気力は失われるばかりである。
「社長の方はどうなのかな。なんか連絡あった?」
「ないよ。だいたい、あっちは三時には終わるって言ってたじゃん」
「だよねえ」
 高橋はそう言って壁にかかる丸時計を見上げた。じきに五時になろうとしている。なにもトラブルがなければとっくに現場を引き上げてこっちへ合流している筈なのだ。ちょっと電話してみるよと言って高橋は手を伸ばした。
「携帯貸して」
「は? なんで」
「充電切れちゃった」
 KKはポケットに入れておいた携帯電話を高橋に渡し、バキュームのスイッチを入れた。そうしてリンスを吹きかけて汚水を吸い込もうとした時、突然どこからか音楽が聞こえてきた。
「……ねえ、……ってさ、か――――の?」
「あー?」
 バキュームの騒音で高橋の声がよく聞こえない。仕方なくスイッチを切ってKKは振り返った。
「なに」
「お前、知り合いに『神様』が居るの?」
 そう言って高橋は不思議そうに携帯の画面をKKに向けた。文字が点滅しているのが見える。しかも設定した覚えのない音楽まで鳴っている。
「……なにそれ」
 ホースをその場に落としてKKは携帯電話を受け取った。音楽はうるさいのでオフにし、画面で点滅を繰り返す文字を読む。
『神様に電話! デートに誘え!』
「…………の野郎…っ」
 どうやらスケジュール機能を勝手にいじられていたらしい。高橋は勿論わけがわからず、気味が悪そうに画面をのぞき込んでいる。
「なにそれ。新種の呪い?」
「まぁ、似たようなもん」
 機能をキャンセルして再び電話を渡した。あともう少しで作業が終わりそうなのに、いらないところで気が抜けてしまった。結局電話を終えた高橋に代わってもらい、バケツの水を捨てに行くことにした。
「社長の方、今終わったんだって。手が要るかって訊かれたけど、断っちゃった。いいよね?」
 電話を返しながら高橋が言う。どのみちこっちもあと少しで終わる。人員の補充は必要ないだろう。いいよと返して電話を受け取り、KKはバケツを拾い上げる。
 トイレへ向かう途中、廊下の窓から外を眺めた。薄く伸びた雲がわずかながら夕日に染まり始めている。だいぶ日が長くなった。最近はあちこちで梅が咲いているのを見かける。じきに冬も終わるのだろう。
 それから一時間ほどで作業は終わった。片付けを終えて事務所に着いた時は七時に近かった。電気の付いていない真っ暗な部屋を想像していたのだが、驚いたことに帰ったと思っていた榊たちの班が事務所に居残っていた。
「なにやってんの?」
「ちょうどいいところへ。お前、私の代わりに三橋へ行く気はないか」
「――え、あれって今日だっけ?」
 すぐ近くにある小さな会社の清掃作業が、月に一度定期で入っている。普通オフィスに入る場合は土日が殆どなのだが、そこはどういうわけか毎月第四木曜日の夜八時以降を指定していた。だから本当なら来週入る予定なのに。
「どうしても今日がいいんだと。午後になって急に連絡があった」
 榊は缶コーヒーを飲みながら渋い顔をする。なるほど、それでみんなが居残っているというわけか。KKはにやにや笑いつつ予定表を拾い上げた。
「だって、あそこ二班もいらないでしょ? ちゃっちゃと終わらせてくりゃいいじゃん」
 そうして、小遣いくれたら考えてもいいけど、と続けた。
「小遣いって幾らだ」
「五万円」
「いっぺん死んでこい」
 榊は不愉快そうな表情で手元にあった軍手を投げつける。KKは頭に乗った軍手をわざと床に落とし、素知らぬ顔で帰社時刻を書き込んだ。
「どうせ明日休みなんだからさ、稼いでくりゃいいじゃん」
「……ちなみに私は残業代が出なくてな」
「自分で決めといてグチグチ言うなよ」
 それはそうだけど、と不満そうに煙を吐き出して軍手を拾い上げる。そのまま榊は汚れた軍手を眺めていたが、やがて立ち上がりズボンのポケットにそれを押し込んだ。そうして事務所を出ていってしまった。
「じゃあね、お先ー」
 高橋が事務所の入口からなかに声をかけて姿を消した。俺も帰ろう。腹も減ったし。KKは上着のジッパーを引き上げた。
 バッグを持ってビルの外に出ると作業車の運転席に榊が座っていた。エンジンをかけてラジオを聴いているらしかった。最初は素通りしようと思っていたのだが、ふと考えを変えて運転席側の窓ガラスをノックした。
「なんだ」
 榊は窓を開けて素っ気無く問い質す。
「ラーメン奢ってくれたら仕事代わってやってもいいよ」
「今更遅いわ。とっとと帰れ」
 憎々しげな言葉と共に拳骨が飛んできた。あわててそれをよけると、
「なんだよ、せっかく人がさぁ」
「お前に食わせるぐらいなら自分で食うわ」
 言葉は悪いが、互いの顔は笑っている。KKは窓の縁に腕を乗せて煙草を取り出した。
「大和の方、なんかあったん? 三時に終わるとか言ってたよね」
「昨日吸い込みがよくなかったみたいでな、上手く乾いてなかったんだよ。それだけだ」
「ふうん。なんかあそこ、うるさいよね。神経質な奴が多過ぎるよ」
「でかいところはだいたいそうだ。金もらってるんだから仕方がない」
 そう言って榊は苦笑する。
「最近はどうだ」
「なにが?」
「不眠症は」
 KKは煙草の灰を叩き落として肩をすくめた。
「まあ、ぼちぼち。たまにひどい時あるけど、前ほどじゃないよ」
 覚えていたのかと少し驚いた。普段どおりだったからすっかり忘れていると思っていたのに。
 ちょっとの間、互いの言葉が途切れた。ラジオが流す歌謡曲を聴きながら、どことも定めず視線をさまよわせる。なんとなく帰るとは言い出し辛かった。邪険にされて追っ払われる方が気は楽だ。
「……あのさ、」
「なんだ」
 足でもみ消した煙草を灰皿に捨ててもらった。榊は運転席に座り直し、煙を吐き出しながらこちらに向いている。KKはしばらく悩んだ末に、なんでもないと首を振った。
「サービス残業、頑張って」
「やかましいわっ」
 苦々しく笑った榊は勢いよく窓ガラスを閉めた。KKは榊とのあいだを隔てるガラスをこぶしで殴りつけ、じゃあねと手を上げた。そうして路地へと歩き出す。
 なにを、どう訊けばいいのかがわからない。そもそもなにを訊きたいのかもよくわからない。上着のポケットに両手を突っ込んで歩きながら、だいたい訊いてどうしようってんだろうとKKは考える。
 口惜しいが、未だにKKにとって榊は絶対者だ。仕事について同程度に作業はこなせるようになったが、それは結局、それだけのこと。ある程度の自由は自分に許しているが、最終的には「上」が決めたことには逆らえない。誰に命令されたわけじゃない。ただ、よすがとするものがあの男以外に居ないというだけの話だ。
 ――もしほかに行くところがみつかったら。
 そうしたらどうするだろう? 一人ぐらいはつてがある。清掃会社なら腐るほどみつかる。別に掃除だけじゃない、仕事はいくらでもある。その気になればどこへでも移ることが出来る。
「……」
 信号待ちでぼんやりと考え込んでいたKKは、周りの人間が歩き出すのにつられてのろのろと足を踏み出した。そうして、駄目だな、と小さく首を振った。
 そうまでして殺しを続けたいとは思わない。……別に、殺すのが好きなわけじゃない。
 突然携帯電話が振れ出した。KKはあわてて長い信号を渡り切った。
『もしもし、KKー? 今どこに居んのー? ってか、なんで電話してこないのー!?』
「……まず言うべきことがあります」
『なになに?』
「なに勝手に人の携帯いじくってんだこの馬鹿野郎がっ」
 怒鳴りつけてやると、電話の向こうでMZDが悲鳴を上げた。そうして不満そうに、だってだってと泣きそうな声で繰り返した。
『だって明日休みじゃん』
「……なんでお前が俺の予定を把握してんだ」
 KKはゆっくりと道を歩き始めた。時間が遅い為か、いつもより幾分かは人の姿も少なく見えた。
「あのね、俺はこれから帰って飯食うの。明日は一人でゆっくり過ごすの」
『えー、俺と一緒でいいじゃん』
「どこからその理屈が出てくるんだよ」
 呆れて言い捨てるが、MZDも負けてはいない。しきりに飯を奢るだのどこどこへ遊びに行こうだのと誘ってくる。駅の前までやって来たKKはわざとらしくため息をついてやった。
「今、店か」
『うん、そう。――なに、遊びに来る? よし迎えに行ってあ』
「じゃあ相手してくれる奴はいっぱい居るな。お休み」
『だーもー!!』
 ケチ! と叫ぶ声を最後にKKは電話を切った。ポケットに携帯電話をしまいながら、誰がケチだ誰が、と思わずムッとする。
 人込みをすり抜け、階段を下りて改札口を抜けた。電車を待つ人の列に並びながら、今日は味噌ラーメンだなと考える。バッグからヘッドホンとプレーヤーを取り出して曲をセットした。その合い間に電車が来ると放送があった。KKは鳴り始めた音楽を聴きながら、ホームに電車が滑り込んでくるのを見守った。
 人波に押されるようにして電車に乗り込んだ時、虚を突くようにしてまた心のもやもやが湧き上がって来るのを感じた。
 あと四年。
『俺の代って、いつ来んの』
『五年後だ』
 聞かなければ良かった。KKは戸口に立って窓の外をじっと睨みつける。榊のことだから、なんの考えもなしに言ったことだとは思えない。実際にどうするのかは未定としても、ともかく今居る地位は降りると決めているのだろう。
 その時自分がどうしているのか。KKには全く想像がつかなかった。
 だけど考えてみれば、こうして思い煩う暇があることは有り難いことなのかも知れない。仕事の性質上、危険な目には何度も遭った。次はないかも知れないと覚悟する時もあった。それでも今までなんとかやってきた。それが幸運だったのだ。
 運を全て使い果たしたと考えれば。
 ――バカじゃねぇの。
 KKは我に返り、戸口に軽く頭をぶつけた。さんざん他人の命を奪っておきながら、今更榊の存在うんぬんで動揺している自分があまりにも情けなかった。そうしてふと顔を上げて車内を見回しながら、多分問題はそういうことじゃないんだとぼんやり考えた。
 違うんだよ。そういうことじゃないんだ。
 だがKKはそこでわざと思考を停止させた。これ以上は考えてもどうしようもないし、先へ行く勇気はまだつかめない。うつむいて足元へと視線を落とし、ヘッドホンからの音楽に集中しようとした。
 こんな時にもきちんと腹が減るのは笑ってしまう。生きている証拠だ。だからこそ人は死ぬ。
 最寄り駅で電車を降りたKKは飯を済ませ、買い物をしてからアパートへと帰り着いた。どうせだからなにかビデオでも借りてくれば良かったのだと気付いたのは風呂から上がった時だった。目的もなくテレビを付けたが、これといって興味も惹かれなかったのですぐに消してしまった。
「あー……」
 床に寝転がって天井を見上げる。なんだか最近、後悔することが多い気がする。こんなに落ち着かない気分になるなら、いっそのこと誘いに乗って店へ行けば良かった。やれやれである。
 煙草に火をつけて携帯電話を拾い上げた。まだむくれてんのかなと思いながら着信履歴に電話をかけた。なかなか出なかったのは、きっと偶然だ。
『…………なんの御用ですか』
 奴の声はわざとらしいほどに沈んでいた。くぐもった調子の音楽が背後で聴こえている。多分控え室にでも入ったのだろう。KKは身を起こしながら「用がなけりゃいけねぇのかよ」と返してやった。


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