スギが宿無しになってしまったのはまったくの事故だった。
 厳しい残暑もようよう終わり、これで落ち着いて過ごせるかなと安堵のため息が洩れた、とある秋の日のことだった。スギのなかでなにかが神の啓示の如くに閃いた。
 ――そうだ、引越しをしよう。
 元々は腰の重いスギである。今のマンションに越してきてから実に八年が過ぎようとしていた。駅からさほど離れていないし、買い物にも不便は感じない。引越しをする必然性はどこにも転がっていなかった。
 それでも閃いてしまったのだから仕方がない。スギは本屋で東京二十三区の地図をぱらぱらとめくり、どの街へ移動しようかとワクワクしながら悩み込んだ。そうして住宅情報誌を買って家に帰り、ネットと雑誌とを交互に見比べて、挙句には気になる土地の主要な駅にまで向かい、辺りを散策してもみた。
 良さそうな街がみつかった。不動産屋で幾つか物件も紹介してもらった。気になる部屋の周辺は、念の為にと朝晩訪れて空気を見た。
 そうやって選びに選んだ末の一室だったのだ。
 その部屋は既に契約が済んでおります、と不動産屋の社員から冷たく言われたのは、元の部屋をあと十日で出なければいけないという時期のことだった。
 スギは形のいい目を大きく見開いて、は? と訊き返した。
 そんな筈はない、自分は確かにその部屋を借りるつもりで手付金まで支払っているのだ。ちゃんと確認してくださいと不機嫌に言うと、その中年の男性社員は不承不承という感じで立ち上がり、店の奥へと消えていった。仮契約の手続きを済ませた時と同じ人が居ないかと店内を見回したが、姿はなかった。
 出された緑茶から湯気が出なくなった頃にようやく男性社員が戻ってきて、聞いたことのない土地にあるマンションの見取り図をカウンターに広げた。
『お客様が手続きを進めてらっしゃるのは、こちらの物件ですね』
 そこにあるのは狭い狭いワンルームマンションの間取りだった。スギは一瞬わけがわからなくなり、思わずその見取り図をまじまじとみつめてしまった。そうして、違います、と弱々しく首を振った。狐につままれたような気分だった。
 男性社員は淡々とした口調で事の次第を述べた。いわく、先週スギが支払った手付金はこのマンションのもので間違いない、大家にも確認はしてあるし、契約を済ませれば今日にでも入居は可能である。
『いかがいたしますか』
 いかがもなにもあったもんじゃない、そんな狭い部屋にあの荷物が置ききれるものか――怒りはふつふつと湧いていたが、それ以上にショックでたまらず、結構です、とスギはまた弱々しく首を振り、とにかくその契約は破棄してくれ(そして手付金もそっくり返してくれ)と頼み込んだ。
 金を受け取る際、最初に希望していた部屋はいつ契約が済んだのかと訊いてみた。社員は不審そうな眼差しを向けてきたが、なにやら書類をめくって、昨日ですね、と素っ気無く呟いた。
 たった一日の差。
 昨日契約に来れば良かったんだ、そうすればこんな手違いもすぐにわかってあの部屋が借りられたのに――いくら口惜しがっても後の祭りである。
 本当はそこで抗議するべきだったのだ。自分が支払ったのは確かにあの部屋の手付金だった筈だ、間違えたあんたたちの責任だろう――だけど、今更ほかの人の手に渡ってしまった物件を取り戻せるわけじゃない。売買ならともかく、たかが賃貸、たかが引越しの夢……。
 スギは大きく打ちひしがれて、その日はなにもする気になれずに不貞寝をして過ごした。せっかく閃いた神の天啓は間違いだったのか、あのワクワクする気分を存分に味わえたのは幸せだったけど、こんな仕打ちはあんまりだ。
 ――神様のバカ。
 そこでスギははっと思い出した。十日後にはこの部屋の契約が切れる。否が応でもここを出なければいけないのだ。
 あわててベッドを抜け出し、閉店間際の店に飛び込んだ。そうして、十日後に部屋を出ることになっているが、その期間を少し延ばしてはもらえないだろうかと店主に頼み込んだ。
 しかしここでもスギは神様にそっぽを向かれた。不動産屋の親父は渋い顔つきで首を振った。残念ながら次の契約が進んでいる、ハウスクリーニングの手配もしてしまったし、次に入ることになっている若夫婦はスギの部屋に移れることをとても楽しみにしているのだ、と。
 そうですよね、としか言えなかった。だってあの部屋、住むにはすごくいい場所ですもんね。
 ――今年は厄年か。
 スギは長年付き合った不動産屋を出てとぼとぼと道を歩きながら、ともかく一時的にでもいいから身を置く場所を探さねば、と考えた。そうして、たいして迷いもせずに相棒のレオへと電話をかけていた。これこれこういう事情で行き場がなくなってしまったのだが、と説明したが、
『あっそ。大変だね』
 うちに来いよ、という期待した言葉は最後まで聞けなかった。まっすぐに頼み込んでもみたけれど、俺と彼女の幸せをぶち壊す気かと逆に怒られてしまった。
『なんだよお前ら、もう五年も付き合ってるんだから、いい加減結婚しちゃえよ』
『プライベートのことはほっといてください』
 こんな悪口も言い合えるなんて、友達ってホントにいいものですね、などと和んでいる場合ではなかった。
 とりあえずウィークリーマンションのような部屋を借りるしかないだろうか。だけどここで焦って気に入らない部屋を契約してしまうのも業腹だ。部屋に帰って頭を抱え、神様のバカ、と力無く呟いた時、再びスギに天啓が舞い降りた。
 ――神様だ。
 頼れる神が一人居た。
 あわてて電話をかけて事情を説明すると、MZDはあっさり『いいよー』と言ってくれた。物置代わりに使っていた空き部屋でよければという言葉に、スギは泣きそうになりながらありがとうと繰り返した。
 こうしてスギとMZDの共同生活が始まった。
 MZDの家は元々録音スタジオとして作られたものだった。そこへ歴代のミュージシャンたちが、シャワーが使えると有り難い、キッチンがあるととても助かる、贅沢は言わないけど仮眠出来るベッドが欲しいな、打ち上げが出来るようなスペースがあるといいと思わない? などと口々に注文を付け、それらの要求を呑んだ結果、一軒の家になってしまったという代物だ。そこに神は一人で暮らしている。
 広くて静かで、とても落ち着くけど、どう考えても一人で住むには広すぎる。たとえ影と一緒だとしても、淋しくないのかな、とスギは思った。でも、だからこそ神は人を呼んで騒ぐのが好きなのだろうと考えた。
 食器棚には多人数分の揃いの皿やグラスが並べられているし、いつ誰が泊まっても大丈夫なようにベッドも予備の布団もちゃんと用意してある。色々な口実と共に、誰々が遊びに来るんだけどお前も来ない? という誘いの電話もしょっちゅうだ。
 だからその神が、家で一人きりで酒を飲んでいるのは、実に珍しいことだった。
 その日は雑誌のインタビューと撮影があった。仕事のあと食事に誘われて、レオと二人で有り難くご馳走になった。何度もインタビューを受けている馴染みの記者だったので、話も弾み、帰りは夜中近くになった。いつもだったら無人である筈なのに、その日は珍しくリビングに明かりがあった。
「ただいま」
 帽子を取りコートを脱ぎながら声をかけると、MZDはのろのろと振り返り、声を出さずにただ手を振った。ひと目で酔っているとわかる表情だった。ソファーには座らず寄りかかるようにして床に腰を下ろしている。テーブルにはほんの少しの乾き物。ウィスキーの瓶とグラス。テレビは外国の映画を流している。DVDのようだ。
「珍しいね」
「やけ酒」
 呟いてグラスを拾い上げると、口元に持っていきながら小さく笑った。スギは肩をすくめるしかなかった。お前も飲む? と訊かれたので、着替えたらねと答えて部屋に向かった。
 今年も残りひと月を切っていた。ここに越してきた当初はとにかく新しいマンションを探さなければと焦ったいたのだが、別に好きなだけ居ればいいよと事も無げにMZDが言うので、色々と物件が出始める春先まで腰を据えることに決めた。レオは「良かったじゃん、住むとこみつかって」と呑気に言っただけだった。相棒が困っているのをあっさりと見捨てた事実は忘れてしまったらしい。
「シチュー、ありがとな」
 リビングに戻ると思い出したようにMZDが言った。出かける前に作っておいたのだ。どういたしましてと答えた時、するりと影が姿を現した。
「こいつがもっと食いたいらしいんだけど」
 駄目? と首をかしげてうかがうようにこちらを見ている。スギは吹き出して、「いいよ」と笑いながら床に腰を下ろした。
「明日の分は残しておいてね」
 影は大きくうなずくと、なにやら歌を歌いながら台所へ行ってしまった。本来は栄養素を必要としない影だが、不思議とスギの作る料理は口に合うようで、食事時になると自分の分の食器をいそいそと用意し始める。
 ちなみに影は喋らないが歌を歌う。それが影の言葉であるらしい。
 着替えているあいだにMZDがグラスを持ってきてくれていた。
「同じのでいい?」
「いいよ」
 氷の入ったグラスにウィスキーを注ぐと、MZDはほれよとグラスを押し出してきた。礼を言って拾い上げ、なかの氷を回しながら「どうしたの」と訊いてみた。
「やけ酒飲むような人には見えなかったんだけど」
「……」
 MZDはしばらく言葉を探しているようだったが、やがて無言で肩をすくめた。
「『お医者様でも草津の湯でも』ってな」
「なにそれ」
「恋の病ですよ」
 思わず吹き出しそうになった。ぎろりと睨みつけるので、スギはあわててかぶりを振った。
「なにも言ってないじゃん」
「……どうせ、らしくないっすよ」
 そう言ってMZDはテーブルに突っ伏してしまう。腕に隠れた横顔は、ひどく不機嫌そうだった。ふられたの? とはさすがに訊けなかった。
 影がシチューの入った皿を持って戻ってきた。口にスプーンをくわえ、両手を合わせてお祈りするように頭を下げる。
「付き合ってる人が居たってのは、初めて聞いたけど」
「それがねえ」
 MZDは知り合った頃から結婚指輪を嵌めていた。最初は普通に奥さんが居るのだと思っていたが、ずっと昔に死んだと聞いて以来、この男に関してそういう浮いた話とは無縁なのだと決め付けていた。
 勢い良く反論しかけたMZDは、だけど言葉が継げずに、またぶすくれた表情に戻ってしまう。
「ともかくさあ、不毛な恋なんだよなあ」
「……もう相手が居る人だとか?」
「だったら好きになんねぇよ」
 そう言って拗ねたように唇を噛み、グラスを指先ではじき始めた。
「別に相手は居ない。でも俺の方は向いてくんない」
「望みがないわけでもないだろ」
「ちょっとでもあれば、こんな風に酒なんか飲んでませんよ」
 口は笑っているが、目が笑っていない。スギは内心で、やれやれとため息をついていた。長い酒になりそうだ。


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