店の入口のシャッターは閉まったままだった。
KKは煙草の灰を叩き落として即座に帰ろうかと考えたが、一瞬だけ思い直してシャッターを引き上げてみるとそれは呆気なく動いた。なんだよ、と呟いて煙草を投げ捨て、なるべく音を立てないようにそろそろとシャッターを押し上げていった。入口の扉は開いており、明かりもちゃんとついている。なかに人は居るようだ。KKは体をフロントへと滑り込ませ、また静かにシャッターを引き下げた。
フロアへ続く扉は開きっ放しになっていて、控えめな音量で音楽が流されていた。フロアのなかをのぞくと、MZDと若いバーテンがカウンターをはさんで話をしていた。なにやら込み入った話らしいことは二人の様子から察せられた。邪魔をするのは申し訳ないような気がして声をかけるのをためらっていると、
「――よお」
MZDが気配に気付いてこちらに振り返った。
「仕事終わったんだ。早かったね」
「現場近くだったから途中まで送ってもらった」
なにか飲む? と訊くのでコーヒーをもらった。そうしてKKはMZDと並んでカウンター席に座り、しばらくのあいだバーテンが仕込みをする様子を眺めていた。
「こないだ新しいソファー買ってさ」
コーラの瓶を軽く振りながらMZDが言う。あそこ、と指差す方へ振り返ると、従業員用の控え室の扉が開いているのが見えた。だけど残念ながらここからでは新品ソファーの姿を拝むことは出来ない。ふうん、とKKはつまらなそうに返事をして煙草の灰を叩き落とした。
「だいぶくたびれてたじゃん。煙草の焼け焦げとか、ガムテ貼ってごまかしてたし」
「そうね」
「一応看護用にも使えるようにと思ってソファーベッドにしてみました」
「あっそ」
それで俺は延々と新品ソファーについての自慢話を聞かされることになるのだろうか、とKKが疑問の目を向けると、MZDはコーラをラッパ飲みしつつスツールから立ち上がり、「こっち」と手を振った。そうして、壁と同じく真っ黒に塗ってあるので一見ドアとはわからないそれを開けて、
「お古のソファーはこっちに突っ込んでみました」
と嬉しそうに笑った。
十二畳ほどの広さのがらんとした部屋だった。見覚えのあるソファーが向かいの壁にくっつけるようにして置かれている以外は、隅の方にテーブルとイスが二組ほど積まれてあるだけだ。ソファーには使い古しのクッションと一緒に、ご丁寧にもタオルケットがたたんで置いてある。それを見た瞬間、ここが誰の為に用意された場所なのかが即座に理解出来た。
「あのね、電気はここ。蛍光灯だけだから消したら真っ暗になっちゃうし、なんだったらクリップライト貸すよ」
MZDはそう言って足元のライトを拾い上げた。ずいぶんと用意のいいことだなと思いながらも、KKは咄嗟には言葉が返せないでいた。
「……俺、いらねぇって言わなかったか」
「うん。だから気に入らなかったら使わなくってもいいんだけど」
そう言って奴はライトのコードをぐるぐる回す。
「別に住めって言ってるわけじゃないのよ。だたまぁ場所も空いてたし、ソファーも新しいの買ったしさ。使ってもらえりゃ嬉しいかなーってね」
「……」
KKはソファーをみつめたまま無言で煙草を取り出した。MZDを見ると、どうする? という顔でこちらを見上げている。しばらくやり場のない苛立ちと戦ったあと、KKはかすかにうなずいた。すると奴は嬉しそうににっかりと笑い、KKにクリップライトを押し付けてカウンターから灰皿を持ってきた。
「テーブル出す?」
「……ああ」
KKが煙草を一本吸うあいだに、MZDはテーブルを引き出してソファーの前へ置き、クリップライトをテーブルの縁にはさんでコンセントにコードを差し込んだ。そうして新しいコーヒーを持ってきてテーブルに置くと、
「ごゆっくり」
ひらひらと手を振って姿を消してしまった。
KKは取り残されたような気分で部屋へと足を踏み入れた。灰皿をテーブルに置き、煙草をもみ消す。恐る恐るソファーに腰をおろして帽子を脱ぎ、ゆっくりと体を横たえた。
ソファーの感触は前と変わっていない。だけど見える景色が全く違う。ここにはイベントのチラシも予定表もないし、時計もなければロッカーもない。開け放した扉の向こうはフロアだが、今はただ真っ黒な壁が見えるだけだ。
「おい」
KKは聞かせるつもりもなく呟いた。
「お前、バカだろ」
静かな音楽が流れ込んできている。KKは身を起こしてコーヒーを飲み、ため息をついた。
――どうやったって俺の意見は無視されるんだな。
本来なら奴の特別配慮を喜ぶべきなのだろうが、ちっともそんな気にはなれなかった。今は不快感が全身を包んでいる。KKはもう一度ため息をつくと、くそ、と吐き出してまた横になった。そうしてタオルケットを頭からかぶり、かすかな苛立ちのうちで目を閉じた。
壁際に溜まってしまったワックスをなんとかして広げようと苦戦している時だった。
「どうだ?」
戸口に榊が姿を現してそう訊いた。
「もうちょいで塗り終わる」
「そうか。それが済んだら飯にしよう」
言われて初めて昼が近いことにKKは気が付いた。少し時間かけ過ぎたなと内心反省しながら荷物を移動させ、新たにワックスをかけ始めた。榊は送風機を持ってしゃがみ込み、既に塗り終えた部分に風を当てている。
「――ねえ」
KKが声をかけると、榊はいつものとぼけたような目でこちらを見上げた。
「あの家って、もう潰しちゃったんだっけ」
「あの家?」
「ほら、前に住んでた――」
しばらく考え込んだあとで、榊は「あぁ」とうなずいた。
「確かまだ残ってる筈だぞ」
「そのまんま?」
「そのまんま」
それがどうした、という顔で見られてKKは思わず視線をそらせた。
榊と共に暮らしていた家を出て一人暮らしを始めたのは十年以上も前になる。それからほどなくして榊も都内のマンションに移ってしまい、誰に譲渡したのか売ってしまったのか、ともかく土地も家屋も、既に名義は榊から離れたと聞いている。
だいぶ昔のことなのに、今でも時々、KKはそこでの生活を思い出す。
「いいとこだったよね。家はぼろかったけどさ」
「そりゃ、お前が暮らしていたところに比べればな」
そう言って榊は苦笑した。
「なんだってこんな山奥に、こんな立派な家が建ってるんだって呆れたもんだ」
「へぇ」
KKは曖昧に笑い返した。正直な話、よく覚えていないのだ。大きな温室があったことだけは記憶にあるが、そこで自分がどんな風に過ごしていたのかはもうおぼろげにしか思い出せなかった。
「なんだったら場所教えるぞ」
「……いいよ、別に」
今更戻ったところでどうしようもない。KKにとってそこは既に終わった場所だ。実家はどこ、と訊かれて咄嗟に思い浮かぶのは、やはり榊と暮らしたあの家だった。
「ジィサンってどこで生まれたの」
「――なんだ、いきなり」
「いいじゃん。世間話だよ」
最後のワックスを足元で止めて、KKはモップを缶の上に置いた。驚いたのは、榊が珍しくひと目でわかるほど不機嫌な表情をしていたことだった。
「北海道だ」
ぞんざいに榊が返事をする。
「生まれただけだがな」
そうして立ち上がると、行くぞ、と呟いて先に部屋を出ていってしまった。あまり話したくないことのようである。KKは、ちぇ、と舌を鳴らして榊のあとに従った。
二十年近く共に暮らしそばに居ながらも、KKはこの男のことを一番知らない。
父親が殺された日から榊がKKの保護者になった。無理やりに連れていかれたわけではないが、自ら強く望んだ覚えもない。ただある日突然、世界の全てであった筈の父親が居なくなり、代わりの世界を与えてくれそうな人間が目の前のこの男しか居なかっただけだ。
父親のことは殆ど覚えていないし、榊のことを父親だとも思っていない。実の親とその代理の男が居ながらも、KKには父親というものがわからない。女はもっとわからない。「母親」という人種がどうやらこの世には存在しているらしいという程度にしか理解していない。
理解出来なくても困ったことは今までなかった。どのみち世界は突然変わる。自分の意思など呆気ないほど軽々と無視されて、そこで口をつぐんだまま諾々と言われたことを承知するしかないのだ。KKの人生はそんな風にして流れてきた。
他人が作り上げた世界の片隅でかろうじて生かされている、そんな想いがKKにはある。
「なにが食いたい?」
建物の外に出ると煙草に火をつけながら榊が訊いた。
「ラーメン」
「……お前、少しは食生活見直せ」