辺り一面に甘い匂いが漂っている。
「そこ、段あるよ」
 MZDのささやきにKKはうなずいて返した。暗がりに足元を透かし見て、上りの階段に足をかけ、滑らないようゆっくりと上がる。左側に転落防止の柵があり、KKはそれに片手を触れているが、前を行くMZDは滑ったり転んだりすることなど有り得ないと信じているかのように、ひょいひょいと暗闇のなかを進んでいく。
 山の中腹にある見晴らし台にたどり着いた時、星の瞬きに目を引かれて足を止めた。中天に浮かぶ半月の光を片手で遮り、じっと夜空に目を凝らす。
 物音はなにひとつ聞こえない。駅はとうに終電を迎えた。夜のあいだこの公園は無人になる。勿論警備の人間は居るのだろうが、姿は見えなかった。
 近付いてくる足音に気付いて振り向くと、山道に付けられた低い階段を一歩一歩飛ぶようにして、MZDがやって来た。
「たまにはこういうのもオツでしょ」
 そう言って見晴らし台を囲む手すりにもたれかかり、顔に触れた梅の枝を指でつつく。
「……そうだな」
 空気は冷え込んでいる。KKはマフラーの下で軽く身をすくめた。煙草が恋しいとふと思った。
 むせ返るような梅の香りに、酔っぱらわないのが不思議だった。
 花見に行こう、と奴が電話をかけてきたのは、夜の十時を回った頃だったろうか。ちょうどいい感じに眠くなってきたところだったので、ふざけんな、と一喝してベッドにもぐり込んだ。
 しかし奴は相変わらずのマイペース振りを発揮しやがり、そんなこと言わないでさぁと言いつつ部屋の窓から侵入し、影に命じてKKの体を拘束した。
 そもそも三月中旬の今、どこへ花見に行こうというのだ? 先週出された桜の開花予想まではまだ一週間もある。まさか京都まで連れてくつもりじゃねぇだろうな、と影に抱えられながらKKが訊くと、「東京だよ」とMZDは苦笑した。
 ゆるやかながらも気温は上がり、布団を抜けるのに躊躇のいらない季節になってきていた。それでも時折期待を裏切るように冷たい雨が降り、春はまだかと皆が待ち焦がれている、そんな夜だった。あそこ、と奴が指を差す方へ目を向けてみれば、白い花に覆われた小さな山が見えてきた。
 東京の西部にある梅の名所だった。駅にほど近いこの公園から遊歩道が続き、その両脇を白や赤の小さな花が囲っている。
 空に居る時からずっと甘い香りがしていた。それが梅の香りだと知ったのは、公園の裏手に当たる山の斜面に下ろされた時だった。
 上質の白粉のような香りにKKは一瞬息を詰め、慌てて手すりにつかまった。気分が悪くなるかと予想していたのだが、香りはそれ以上濃くも薄くもならず、ゆっくりとKKを包み込んだ。
 月の光のなかで、梅は静かに咲き誇っている。どこを見回しても赤や白の花びらが広がっている。どうよと誇らしげに訊かれて、すげぇな、と呟くのが精一杯だった。
「ちょうど今が見頃なんだよね」
 先に立って階段を上りながらMZDがささやいた。
 二人は無言で歩を進めた。先を行くMZDは時折歩みを止めてKKに振り返り、そっと見守るような視線を送ってきた。そのたびになにか言おうかとするのだが、匂いに誘われてKKの目は花に移ってしまう。
 じきに春がやって来る。寒さに耐えたあと、こいつらは散っていく。
「明日仕事?」
 見晴らし台の柵に寄りかかってMZDが訊いた。仕事だよ、とKKはわざとらしく不機嫌に呟いた。すると意外なことに申し訳なさそうな視線が飛んできた。
「電話しようかどうしようか迷ったんだけどさ」
「別に電話は構わねぇけどよ」
 そのあとがなと更に睨むと、しょげた顔をして、小さくごめんと呟いた。
 そのまま言葉が続かない。
 訪れた沈黙にKKの方が戸惑ってしまった。無理やり連れ出されるのは毎度のことだが、こんな風にしおらしくされたのでは怒るに怒れない。なんだよと軽く爪先で蹴っ飛ばすと、奴はうかがうように顔を上げた。
「なんか、声聞いたら我慢出来なくなっちゃって」
「……そうですか」
 どのみち、もう来てしまったのだから仕方がない。送ってくれるんだろうなと言うと、やっと奴は笑顔を見せて、当たり前じゃんと胸を張った。
「もうちょっと上行こう。風が冷たいかも知んないけど」
「もう馴れた」
 動いていれば、さほどの寒さでもない。KKは階段へと一歩足を踏み出し、そのまま頭上の半月を仰ぎ見た。
 ぼんやりとかすむ月は、ゆっくりと流れる薄い雲に隠されようとしている。
 こんな風に夜空を眺めるのは久し振りのような気がした。いつも目にする景色とは違い、ここでは星がよく見える。子供の頃に住んでいたあの場所みたいだ。そう思った時、常にはない甘い香りと相まって、KKは一瞬、自分がどこに居るのかわからなくなった。
 酔っぱらってるんだ。――きっとそうだ。
 足元へと視線を移し、階段を上りながらKKは思う。
 そうでなけりゃ、こんなに意味もなく悲しい気持ちになんかなったりしない。


 部屋の電気は点いていた。一度ベランダに出て洗濯物を干す姿を見た。迷った末に行ってしまった。影は賛成出来ないからと、ずっと隠れたままだった。
「こんばんはー」
 ベランダに立って窓を何回かノックする。テレビの音はそのままで、ほんの少しだけカーテンが開いた。慎重に外をうかがう目がこちらをみつめている。MZDがほかの誰かを手引きしたのではないとわかると、ようやく窓が開いた。
「どうしたね、こんな時間に」
 驚きの表情のまま榊が口を開いた。それはそうだ、ベランダに突然人が現れて驚かない方がおかしい。MZDはすぐには言葉が次げず、誤魔化すように笑ってみせた。
「ちょっと訊きたいことがあってさ」
 そう言ってベランダの手すりに腰を下ろした。
「訊きたいこと?」
「ジィさん、いつ死ぬの?」
 ――なんであんたがそれを訊くんだ、そう言いたげな顔になった。わからないわけはないだろう。そんな表情で見返されて、MZDは思わず肩をすくめた。
「可能性としては、いっぱいあるんだ。それのどれを選ぶのかは、あんた次第だから俺にはなんとも言えない。俺が訊きたいのは、あんたが『いつ』死ぬつもりで居るか、なんだけど」
「……」
「引退するって聞いたもんで」
「……なるほど」
 寒いから上着を取ってくる。そう言って榊は一度奥に引っ込んだ。部屋に上げるつもりはないようだ。こちらも上がるつもりはないが。
「KKに頼まれたってわけじゃないよ」
 MZDは慌てて付け加えた。わかってるよ。そう言って榊は上着を羽織り、煙草を持って戻ってきた。
「あいつがそんなことを誰かに頼んだりはしないだろう」
 かつて拳銃を向けてきたような男だ。動くなら直接行動に出る。
 榊はベランダに足を伸ばして腰を下ろした。置いてあったサンダルに足を通し、煙草に火をつけて煙を吐き出す。
「だからさ、いつ『引退』すんの?」
「一応は二年後だな」
「二年後のいつ?」
「――訊いてどうするつもりなんだ」
 あいつに教えてやるのか。憮然とした表情で榊は煙草をくわえた。
「いや、どうするってのはないんだけど」


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