男は子供に対してまともな教育を施すつもりはなかったようだ。身体的な虐待もあって然るべきだろう。榊にとって救いなのは、子供がそれなりの知力と充分すぎる反骨精神を携えていてくれたことだった。こちらがちょっと睨みつけただけで怯えるような子供は育てるに値しない。
 いずれは仲間に、とは当然考えているが、それが自らの首を絞めるような結果になる可能性もあった。なにせ目の前で父親を殺しているのだ。目撃されていなかったとはいえ、自分が犯人だとはとうにばれている。武器も平気で手の届く場所に置いている。
 殺したきゃ殺せ、とは最初の時に言ってある。だが俺が黙ってやられるとは思うな――そう告げてもある。いずれ近い将来、本当に命を狙われることがあるのかも知れない。けれどそれでも別に構わないと榊は考えていた。どうせまともに死ねるとは思っていない。弟子に抜かされるのは、ある意味師匠として最高の終わり方かも知れない。
 子供は家を出る時、なにも持ち出そうとしなかった。着の身着のままで榊のあとについてきた。いいのかと訊くと、大事なものはなにもないときっぱり答えた。子供の名前を尋ねたのはその時だ。
『ケイ』
 子供は呟くようにして答えた。
『あの人はそう言ってた』
 子供が持ち出したものは名前だけだった。それでも俺よりは上等だと榊は笑った。俺にはとうに名前がない。


 あてがわれた寝床は居間にあるソファーだった。体が小さいんだからそれで充分だと榊は言い、自分は寝室のベッドで眠った。少し狭苦しいが悪くはないな、とKKは思った。下手にきちんとしたベッドを与えられても落ち着かなかったに違いない。
 眠る前にはちゃんと「おやすみなさい」を言わせられる。はっきり言わないと何度でも言い直しだ。こんなことがなんの役に立つ、とKKは思うが、榊が言えというのだから仕方がない。
 そうしてようやく解放されたKKはオレンジ色の小さな電球が灯るなかで毛布をかぶって眠りにつく。使い古されたクッションはいい具合につぶれていて、KKの小さな頭にはぴったりだ。そんな風にしてなんの不安もなく眠りにつく筈なのに、KKは時々、真夜中不意に目を醒ます。
 怖い夢を見たわけじゃない。物音がしたわけじゃない。それでも、なにかの気配を感じて意識が現実に戻ってしまう。
 まず目を開けて動かないままで見える範囲を全て監視する。見える位置になにもないとわかると、そろそろと起き上がって居間全体を見回す。
 明かりをつける。
 なにもない。
 明かりを消してオレンジ色が広がるなかでソファーに横になり、目をつむって眠ろうとするのだけれど、やっぱりなにかの気配を感じてKKは起き上がってしまう。
 何日かそれが続いた時、迷った末に榊の寝室のドアを開けた。榊はまるで暗闇でも目が見えるかのように既に半身を起こしてこちらを眺めていた。そうして、
「どうした?」
 オレンジ色のなかに立ち尽くすKKを見て小さな声で尋ねた。
「……ねえ、あの人、もう居ないんだよね」
「ああ」
 榊がうなずくのがわかった。
 ――じゃあ、これはなんなんだろう?
 オレンジ色の電灯、少しは馴れてきた他人の住まい、自分の寝床。どこに居てもこの時間になるとなにか濃密な気配を感じる。目には見えないのに、そこにあるのがなんとなくわかる。
 だけどKKにはそれをどうやって説明したらいいのかがわからなかった。そもそも自分がなにを感じているのか理解出来ていないのだ。言葉に出せる筈もない。だから代わりに訊いてしまう。あの人、もう居ないよね? 居ないよね?
 何度も同じ質問のやまないKKに痺れを切らして榊は起き上がった。
「こっちに来い」
 殴られるのか、とKKは身を硬くしながらも、のろのろとベッドのそばまで歩いていった。脇に立つと榊は不意に手を取り、小さくため息をついた。
「ちゃんと言ってなかったな」
 ひどく重い空気があった。理解出来たのはそれだけだった。
「怖い思いさせて悪かったよ」
 そうして、ごめんな、と付け足すように呟いた。KKは不意に込み上げてきた未知の感情に恐怖を覚えて榊の手を強く握り返した。
 口から洩れ出たのは嗚咽だった。
 強い泣き声が上がりそうになってKKはきつく奥歯を噛みしめた。なんだかよくわからなかったけれど、それはしてはいけないことだと強く自分に言い聞かせていた。むせぶようにして泣くKKを見て榊は呆れたように鼻を鳴らした。
「ガキなんだからガキらしく泣けよ」
 そう言いながらも強く体を抱きしめてくれた。長いあいだKKは泣き続け、気が付いた時には眠っていた。目が醒めたら朝だった。なんだか夢でも見ていたような気分だった。だけど夢でなかった証拠に、眠っている場所は榊のベッドのなかだった。
 榊の姿は寝室にはなかった。KKはベッドを抜けて居間へ続くドアを開けた。テーブルには既に榊がついて新聞を読んでいた。物音に気付いて顔を上げ、
「朝の挨拶は?」
 いつものようにそう訊いた。


 そんな風にしてでこぼこな二人三脚の生活が続いていった。榊はKKに生活の基本を教え、勉強の基礎を教え、殺しの為の技術も少しずつ伝授していった。ナイフの扱い方、目標の追い方、気配の消し方、銃の取り扱い、その他諸々だ。
 共同生活を始めて三ヶ月が無事過ぎた時、お守りとして小さな拳銃が与えられた。
「ただし、それに合う弾はこの家のどこにもありません」
「――ねえのかよ!?」
「当たり前だ、バカ野郎!」
 だからそれはただのお守りだ。だけどなにもないよりずっといい。KKは寝る時もそれをクッションの下に隠して眠るようになった。それがあるせいか、夜中に濃密な気配を感じて目を醒ますことはなくなった。
 だから、その気配は本物だった。
 誰かが玄関の鍵を開けている。KKは物音に気付いて目を醒ました。この家を訪れるような人物は――特に真夜中、無断で鍵を開けて入ろうとする無謀な輩は今まで一人も居なかった。
 KKはクッションの下から拳銃を引っぱり出すと、そっと玄関に続くドアの横に立った。深呼吸を何度か繰り返し、拳銃を両手で握りしめて物音に意識を集中させる。ドアノブが静かに動き、ゆっくりとドアが押し開けられた。そうして男が一歩なかに足を踏み入れた瞬間、KKは銃を男の頭に突きつけた。
「帰る家、間違えたんじゃない?」
 男は動きを止めると、横目でちろりとKKの顔を見た。腕を上げようとしたので「動くな!」と叫び、銃を突きつけ直した。
「……たっちゃーん、いつの間に番犬なんか飼い始めたのー?」
 男は少しも動揺した様子を見せず、奥の寝室に向かって呑気な声でそう訊いた。
「別に飼っちゃいない」
 やがて寝室の扉が開いて榊が姿を現した。
「野良が勝手に住み着いてるだけだ」


 その時の榊の表情を、KKは未だに忘れていない。それまでの日々などなかったかのように、いきなり物を見るかのような冷たい目。――もっとも「仕事」になると榊はいつも変わった。普段の人を食ったような呑気さはどこかに消え、人を殺す為の道具となりきった。先達としてそれを尊敬もするが、決定的な部分で榊に対する信頼を失ったことも事実だ。
 結局自分は使い勝手のいい道具として利用されているに過ぎないのだ――長じてKKはそう思うようになった。だけど、ほかにどんな道があった? 嫌ならお前の好きにすればいいと榊はいつも言った。出ていきたければ出ていけ。別に引き止めやしない。
 だけど、ほかのどこへ行ける?
 この晩KKは、無闇に人に銃口を向けるなという榊の言いつけを破った罰で、侵入してきた男(あとで知ったことだが「仕事」を持ってくる仲介人だった)に何発か殴られ、歯を一本折った。
「子供は大人の言うこと聞かないと駄目でしょ?」
 髪を引っつかんで男は言った。KKは腹立ちまぎれに暴れまくり、お守りであった拳銃をどこかに向かって投げつけた。ガラスの割れる音が響き、その音に負けないほどの大声で叫んだ。
「俺だって好きでガキなんじゃねえや!」
「なら早く成長して一緒に仕事が出来るようになれ。そうすれば認めてやる」
 ――ほかにどう出来た?
 この晩、KKは二つ目の未知の感情を手に入れた。
 怒り、だ。


 立派な大人に成長した今、幼い頃の記憶は殆どない。父親と暮らしていた時のことは元から変化が薄く、喜びも悲しみも、感じていたのかも知れないが意識にのぼることはなかった。榊と出会ってKKはようやくこの世に生まれた。だがそれは同時に自らの弱さを目の前に突きつけられる生の始まりだった。
 道具としてのKKは完璧だった。人の死を厭わず、自らの生ですらどこか無用のものと見る節がある。榊もこれほどまでとは思わなかったに違いない。
 共に仕事をこなすうちに、一人前の同業者として扱われていることがKKにも伝わってきた。だけど今となってはどうでもいい。朝に目を醒まして一番に考えることは、どうやって今日一日を死んだように生きるか、ただそれだけだ。


Happy birthday/2006.07.24


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