大人になるというのは「待つ」ということを覚えることから始めなければいけないらしい、と最近のKKは学んだ。
もっとも好きで学習したわけではない。従わなければ殴られる、ただそれだけのことだ。
「――まだ?」
イスに腰かけたKKは苛立たしげに足をぶらつかせながら訊いた。さっきから食事前にすべきことを色々とこなしている筈なのに、それでも目の前の男は首を縦に振ってくれない。片手でテーブルに頬杖をついたままじっとこちらをみつめ、
「食べる前にはなんて言うんだっけ?」
じっとりと苛立ちまじりの声でそう聞き返してきた。KKは即座に「いただきます」と答えたが、箸をつかもうとしたところでその手をはたかれた。
「ちゃんと両手を合わせる」
――ジジィは小言が多いんだよ。
内心で文句を返しながらも、渋々両手を合わせていただきますと繰り返し、うかがうようにそっと男の顔を見上げた。
「食べて良し」
男のため息が食事開始の合図だ。だけど一度許可が下りたらもうKKは男の存在を忘れている。明日にはこんな風にして目の前に食事が並ぶことはないかも知れないと考えるのが怖いから、とにかく腹に収められるだけの食物を取り込もうとひたすら口を動かす。
「良く噛んで食え」
そう言って男はKKの手を押さえた。
「良く噛まないとバカになるぞ」
あんたいっつも俺にバカバカ言ってんじゃん、そう言い返そうとしたが、残念ながら口のなかは食い物で一杯だった。ここで無理に喋ろうとすればまた頭をはたかれるだけだ。KKはおとなしく口のなかの物をよく咀嚼してから飲み込んだ。
「みっともない人間はまともに相手にされないぞ。お前がバカなのは勝手だがな、無理に知らされる周囲の迷惑も考えろ」
「ジジィの言うことは難しくってよくわかりません」
「――バカは見苦しいって話だ」
そう言って男はKKの頭をはたく。いてえなぁと呟いてKKは男の手を叩き返した。と、突然男がその手を振り上げた。思わずKKは箸を放り出してイスの上で身を硬くした。同時に頭を抱え込み、「その瞬間」を待ち受ける。
――が、いつまで待っても「それ」はこなかった。恐る恐る目を開けると、にやにや笑いながらこちらを指差す男の姿が目に入った。
「てめ…っ」
「引っかかってやがる」
男は楽しそうにげらげらと笑い声を上げた。KKはしばらくわけのわからない羞恥に身を震わせたあと、不意にテーブルの上のグラスをつかんで男に投げつけた。男がよけたお陰でグラスは後ろの壁にぶち当たり、ガラスの破片となかの水が周囲に散らばった。KKは食事を中断させられその後片付けを命じられることになる。更に罰として食事の後片付けまでさせられる羽目になるのだが、それでもここを出て家に帰りたいと思うことはなかった。
男の許に来たお陰で毎日面倒な仕事を押し付けられるようになったが、少なくともその代償としてKKはわずかながらに安心を手に入れた。だけどそれを実感するのはまだまだ先だ。榊と暮らし始めてまだ一週間も経っていない。
KKは自分の本名を知らない。そもそも戸籍があるのかどうかさえ定かでない。榊は調べればわかる筈だと言うが、KKはそんなことはどうでもよかった。人からはケイと呼ばれていて、それがKKの全てだった。
KK、という暗号のような文字を覚えたのは榊の家に来て二日目のことだった。退屈しのぎになるものを探して本棚を漁り、目に止まったのが外国製の一冊の絵本だった。角が取れた古いものでなかを綴じる糸はゆるくなっていたが、その絵本は大事そうに本棚の隅にしまいこまれてあった。
『なあ、これなんの暗号?』
KKは絵本を開き、そこに描かれた大きなアルファベットを指差して訊いた。学校に通っていなかったKKは文字が殆ど読めなかった。更にアルファベットとなればただの絵にしか見えない。榊はぐちゃぐちゃになった本棚を見て悲嘆の声を上げながらも、それは外国の文字だと一つ一つ読み方を教えてくれた。
『これがお前の名前だ』
榊はそう言ってKという文字を指差した。KKはそれから眠るまでその字だけを練習した。こんな絵みたいなものが自分の全てを表してしまう――なんか、文字ってすげえ。
その晩KKは白紙の余すところなくKという字が書かれたチラシを抱いて眠った。それまで意識せずに呼ばれていた「名前」を、KKはその日初めて手に入れたのだ。勿論本棚の後片付けは手伝わされたが。
榊との共同生活のなかでは衝突が何度も繰り返されていた。KKからしてみればいちいち細かいことに榊は口やかましく、それでいて榊は「ライオンを手なずける方がまだマシだ」と言う。それでも決定的な争いごとをKKは避けていた。ここを追い出されたら行くところはない。帰るべき家はもうなくなった。戻ったところで父親の死体があるだけだ。それも、榊が作ったものが。
器用な手付きで拳銃が分解されていくのを、KKはじっと見守っている。榊はソファーに座って油の染み込んだボロ布で汚れを拭き取り、ゆがみを調べ、バネの動きを確かめている。その手付きはひどく優雅で、まるで鼻唄でも歌いだしそうな表情だった。
「そんなのが、人殺すんだ」
呟きに榊は目を上げて小さくうなずいた。
「自分の目で見ただろう」
「――うん」
緊張しながらKKはうなずき返す。
榊は拳銃を元に戻すとKKに向かって差し出してみせた。
「持ってみろ」
それは予想外に重かった。両手で抱えて狙いをつけるのがやっとだ。それでもKKは銃口を榊に向け、「どこ狙ったらいいの?」と訊いた。
「心臓か頭だな。ここか、ここだ」
そう言って榊は自分の左胸と額を指差した。
「頭を狙うなら脳を撃て。顔じゃあまり意味がない。心臓を狙うのもいいが至近距離じゃないとなかなか難しいな」
言いながら榊は銃口を握り、拳銃を自分の手に戻そうとした。だがKKは手を放さなかった。ぎゅうと銃把を握り続けた。榊はしばらく考え込んだあとにゆっくりと銃口を自分の心臓へと導いた。
「心臓はここだ。肋骨があるから威力のある銃でないと下手をすると骨で止まる。お前が上手く撃てるようになるには、もっと筋力が必要だ」
「キンリョク?」
「肉付きとそれを動かす筋の力。つまり――」
不意にKKは腕をつかまえられ、首を押さえてソファーに押し付けられた。
「こんな簡単にしてやられるようじゃ意味がないって話だ」
そう言うと榊はKKの手から拳銃をもぎ取ってこちらに向けた。KKは一瞬呆気に取られ、それこそバカのように銃口をみつめた。だが次の瞬間には大声でわめきながらなんとかして拳銃を奪い取ろうと暴れまくった。だが首を押さえる榊の腕の力は強く、伸ばす手の先でこれみよがしに銃口を振る口元は確実に笑っていた。
「お前にはまだ無理だよ」
やがて首から手を放すとソファーに座り直して榊は言った。
「それとな、いくら弾が入ってなくても無闇に銃を人に向けるな。下手すりゃお前が撃たれるぞ」
「――入ってないの?」
KKの言葉に榊は呆れたような顔をしてみせた。
「当たり前だ、バーカ」
「バカじゃねえよ、くそジジイ!」
「誰がジジイだ、くそガキめ」
俺はまだ二十代の若者だ、と榊はKKの体をソファーに放り投げながら呟いた。
そもそも榊自身だってこんな未来は予想していなかった。たまたま仕事で行った先に、居る筈のない子供が居ただけだ。
忍び込んだのは夜だった。男は酒に酔って眠っていた。俺が殺さなくてもじきに肝臓やられて死ぬんじゃないのかと思ったのを覚えている。簡単な仕事だった。金をもらうのが申し訳ないほどだった。
仕事を終えて後片付けをし、さて帰ろうかとした時、部屋の入口で立ちすくむ子供の姿をみつけた。子供はじっと死体をみつめていた。悲鳴を上げるようだったらとっとと殺さなきゃいかんなと思いながら榊はしまったばかりの拳銃に手を触れた。
子供は榊を一瞥し、また無表情に死体をみつめた。
『死んでるの?』
はっきりとした口調で子供は訊いた。ああ、と榊は短く答えた。まだ十にもなっていなさそうな小さな子供だ。珍しく死体を見馴れているんだなと榊は冷静に考えた。
『どうしよう』
『――なにが』
『明日、朝に食べる物がなにもないのに』
山のなかの一軒家だった。子供は家を離れたことがないのだと言う。外へ行くのはいつも父親だけで、たまに客が来ることもあったけれど、彼らは子供の知らない世界からやって来てまた知らない世界へと帰っていく。子供の世界に居るのは父親だけで、その父親は今、二人の目の前で徐々に冷たい死体になりつつあった。
『お前、怖くないのか』
銃に手を触れたまま榊は訊いた。子供は小さく首を振った。
『町にはこういうのが売ってるって』
『こういうの?』
『この人がたまに買ってきた。この人の友達が買ってくることもあった。――ねえ、これも売れるの?』
でも駄目だよね、これは男だし、血がいっぱい出てて汚いし。
連れて帰ってきたのは勿論気まぐれだ。子供一人、殺すのはたやすい。ただ無駄に仕事をしたくなかったというのがあるし、どこかでこのガキは使えそうだという読みもあった。――もっとも、普通の子供として連れ歩くのにこれほどふさわしくない野生児だとは思わなかったが。
子供を連れ帰ってきてからというもの、榊の毎日は躾と教育の日々となった。箸の持ち方、鉛筆の握り方、挨拶の仕方、家のなかの細々とした仕事、文字の読み書き、数の数え方、なにもかもだ。ヘレン・ケラーを相手にしたアニー・サリバンよりはマシかと自分を慰める日々が続いている。