やはり少し疲れていたようだ。珍しく重苦しい夢の内で泥を掻き分けるようにしてKKは目を醒ました。体を起こした時に上着が滑り落ちていくのをあわててつかんで止めて、反対側の端に同じようにMZDが眠っているのを、なんだか不思議なもののようにしばらくみつめていた。
扉の向こうは静かだった。店は既に営業を終わらせているようだ。テーブルの上に缶コーヒーが二本置いてあった。KKは煙草を拾い、火をつけて吸い込んだあと、コーヒーをもらった。
プルタブを起こす音で奴が目を醒ました。
「おはよ」
「よお」
MZDは頭を掻いて大きなあくびをすると、同じようにコーヒーへと手を伸ばした。時計を見ると七時を過ぎていた。今日は休みだから別に急ぐ必要もない。どこかで飯でも食って帰ろう。そう考えていると、不意に奴が口を開いた。
「影の奴、振られた」
一瞬なんの話なのか思い出せなかった。KKは三秒ほど考え込んでから、へえ、と短く答えた。
「新しい彼氏とラブラブなんだってさ」
「良かったじゃん」
「うん」
そう言いながらも、どことなく納得のいかないような顔をしている。なんだよと訊くと、うん、ともう一度呟いた。
「なんかさ、誰かが幸せになる為に別の誰かが不幸にならなきゃいけないってさ、納得いかないよな」
「……そんなこと言ったって、世の中は不公平に出来てんだからしょうがねぇだろ」
「そうだけどさ」
それでも、出来るだけ幸せにはなってもらいたいじゃん。そう言ってMZDは足をとんとんと床に打ちつけた。
「元気出せよ」
影の姿は現れない。KKは思わず吹き出した。
「さすがは神様、八方美人だ」
「博愛主義者って言ってよ」
「お前が一番安心してるくせによ」
「なにそれ」
「大事な相棒取られないで良かった、みたいな顔してるぜ。――良かったな、影振られて」
「……そういうつもりじゃないんだけど」
「どうだか」
KKは笑いながら煙草をふかす。MZDはなにかを言い返そうとして言葉に詰まり、缶をテーブルに戻すとソファーにもたれかかった。
「お前って案外、底意地悪いのな」
「今頃気付きましたか」
「そんなこと言ってると嫌われるよ」
「結構だね。もともと好かれようなんて思っちゃいない」
「淋しいくせに」
突っかかるような口調だった。KKはMZDを睨みつけたままテーブルの灰皿を指で引き寄せ、煙草を置いた。
「勝手に決めつけんなよ」
「そっちこそ」
「……悪かったよ」
「こちらこそ」
MZDは仲直り、と呟くと顔を寄せていきなり唇を触れた。そのまま逃げていこうとするのを胸倉をつかんで押さえつけ、同時に煙草を拾い上げて、
「そうか朝飯は火の付いた煙草が食いたいか」
遠慮なく食え、と押し付けようとした。が、すんでのところで腕を押さえられてしまった。
「やだなKKさんったら、冗談も通じないんだから。まさか初めてってわけでもないでしょうに」
「少なくとも男としたことはねぇなあ」
「じゃあ俺が初めての人だ。記念にもっかいする?」
「するかっ」
KKは呆れて手を放すと乱暴に煙草をもみ消して立ち上がった。そうして控え室を出てトイレに向かった。
フロアの照明は簡素な蛍光灯が付いているだけだった。イスは全てテーブルに上げられ、カウンターの上もキレイに片付けられている。人が居ないというだけで機材はそのまま置きっぱなしなのに、ひどくがらんとして見えた。KKは何故だかフロアのなかから目をそらすようにしてトイレに入った。
用を足して手と顔を洗い、疲れたような自分の姿を鏡のなかにみつける。どうしたんだよ、と呟いて返事を待ったが、勿論鏡のなかの自分は答えなかった。
昨日の仕事に不備はなかった筈だ。別に嫌々向かったわけでもない。なのに、全身に回るこの気だるさの原因はなんなんだろう?
『大勢の社員が私を憎んでいるんでしょうな』
男の言葉を思い出す。
――なぁおっさん。憎まれていようが好かれていようが、死ぬ時は死ぬだろ?
死んでしまったら全部白紙に戻る。誰がどういう感情を自分に対して抱いていようと関係ない。それがわかっているのに、時折不意に込み上げる飢えのようなものに、たまらなくKKは苛立たされる。それが甘えであることは理解していたが、頭ではわかっていても胸の奥が治まらなかった。まるで子供のように大声で泣いて、誰かに慰められたいと願ってしまう。
「……もう二十代も後半なんだからさ、お兄さん」
KKは鏡に額を押し付けて呟いた。
「いい加減にしろよ」
そう言って、鏡のなかの自分に向かって舌を出した。
「お前、マジでここ住まない?」
部屋に戻ると素知らぬ顔でMZDが訊いてきた。
「ちょっと不便かも知れないけど一応台所もあるしトイレもあるし」
「なんだよ、いきなり」
「泥棒対策ってのもあるんだけど」
MZDはそう言ってコーヒーの残りを飲み干した。
「ソファーじゃ寝た気になんないでしょ」
「そうでもないぜ」
「そんな疲れた顔で言われても説得力ありません」
今日はたまたまだ、と思ったがKKは黙っていた。
「倉庫に使ってた部屋、空けたんだよ。色々いらないものとか捨ててさ。それこそ寝る為の部屋になっちゃうけど、ソファーベッドぐらいなら置けるだろうし」
その方が良くない? とMZDは首をかしげる。KKはソファーに腰をおろして煙草を拾い上げ、別に、と肩をすくめた。
「俺のことなんか気にするなよ」
「気にするよ。一応お客さんなんだし」
「……迷惑だってんなら、もう来ませんよ」
「そういう意味じゃなくってさ」
心配してるんですよ、MZDはそう言うと口の端を持ち上げるようにして笑った。勘弁してくれ、と心の内で呟いてKKも笑った。
「なんか、お前にそういうこと言われるのって、変な感じだな」
「なにが」
「……なんか、気色わりぃ」
「すいませんね」
なんとなく耳の後ろがくすぐったいような、おかしな感じがした。耐え切れずにまた笑ってしまう。こういう空気には馴れていない。胸の奥の子供が顔を上げたような気がして、KKは気をそらす為に煙草を深く吸い込んだ。
気が付くとMZDがこちらをみつめていた。KKはなんだよ、という風に首をかしげたが、奴はなにも言わずに首を振るだけだった。そのまましばらくのあいだ、灰皿に置いた煙草から立ちのぼる紫煙を、互いに言葉もなく眺めていた。
「なぁ、」
「なに?」
灰を叩き落とす。
「……もう一回してくれよ」
返事はなかった。MZDはなにも言わずに顔を寄せてきた。二三度、本当にわずかに触れてすぐに離れていってしまう。KKは目が上げられない。じっとしているとまた顔を寄せてきた。下からこちらの顔をのぞき込んでくる。KKは目をそらし、そうしながらも、互いに探り合うようにしてゆっくりと唇を重ねた。
舌の絡み合う感触が心地良かった。他人の熱を感じたのは久し振りのような気がする。唇を離すと向こうの方が追ってきた。首を抱き寄せられて、またキスをして、逃げ出したいとも思うけれど、正直なところはよくわからない。
気が付くと煙草が燃え尽きていた。フィルター以外は全部灰になっていて、KKが軽く灰皿を揺すると音もなく崩れ去った。首を抱き寄せられて肩にあごを置きながら、KKはそんな光景をぼんやりとみつめている。
MZDの指がゆっくりと髪を梳いていた。静かに顔を上げて、こぶしに握った手でそっと胸を押した。奴は体を起こしたけれど、首にかけた手はそのままだった。
「帰ろうぜ」
「うん」
そう言いながらも、どちらも動かなかった。MZDはKKの伸びすぎた襟足を指で引っぱってもてあそんでいる。KKはうつむいたまま、喉が渇いたと遠いところで考えている。
「部屋、どうする?」
確認されるとは思わなかった。MZDの手から逃れてKKは首を横に振った。
「そこまで、お前にしてもらう義理はない」
「……義理って言うかさあ」
「お前さ、」
八方美人が、と胸の内で吐き捨てた。
「自分の親切が他人の迷惑になるなんて、考えたことないだろ」
「……」
「しつこい男は嫌われるぞ」
「未練たらしい男もね」
「……俺のことかよ」
「ほかに居ません」
そう言って奴は笑った。KKはくだらねぇと鼻を鳴らし、上着と煙草を拾って立ち上がる。
「じゃあな」
「またどうぞ」
戸口のところで振り返ると、MZDはひらひらと手を振っていた。
「お客様のお越しを従業員一同、お待ちしております」
誰が――と言いかけたところでKKは口を閉じた。髪を梳くMZDの手の感触を思い出して小さく笑い、
「しょうがねえ。安酒飲みに来てやらぁ」
片手を上げて扉を閉めた。
ありふれた感情/2006.05.04