一人で夜桜見物をするような優雅な御仁だった。
男は定時を少し過ぎてから会社を出て山手線に乗った。混み合った車内を嫌ってわざわざホームを先頭まで歩いた。女子高生が座席を譲ってくれたのに対してありがとうと言い丁寧に頭を下げて、杖と手すりにすがりながらゆっくりとシートに腰かけた。
新宿で電車を乗り換えて一度家に帰った。そうして私服に着替え、また家を出た。八時に目黒で友人と待ち合わせて飲み屋に入った。店を出たのは十一時過ぎだ。新宿で乗り換えてまた自宅に向かったが、タイミング悪くちょうど前の電車が人身事故を起こしてしまい、途中の駅で電車が止まったまま立ち往生させられる羽目になった。
男はしばらく考え込んだあと、電車を下りて駅を出た。タクシー待ちの長い列の最後尾について、腕時計を眺め、やれやれと首を振った。
「すいません」
すぐ後ろに立つ若い男に声をかけられたのは、順番待ちの人数がようやく半分まで減った時のことだった。
「あの、どっち方面に行かれます?」
その青年は背が高かった。不精髭を生やし、ラフな格好をしているせいで一体どんな仕事をしている人間なのか想像もつかなかった。けれどメガネの奥からこちらを見る視線はしごくまともなものだった。だから男は少し警戒しながらも答えた。
「私ですか。京王多摩川までですが」
「あ、ホントに? あの、俺国領まで行きたいんですけど、良かったら同乗させてもらえませんか。タクシー代半分出しますんで」
男はしばらく考え込み、自分たちの後ろに続く長蛇の列を眺めて苦笑するようにうなずいた。
「やっぱり新宿から直接タクシーに乗ってしまえば良かったな」
男は順番待ちの列が少しずつ短くなってゆくのをぼんやりと眺めながら呟いた。まだ電車は復旧していないようだった。
「久し振りに知り合いと会って飲んできたんですよ。大学の時の友人なんですがね」
「へえ」
「まさかこんな落ちが待っているとは思いもしなかった。まあ、これもいい思い出だと考えれば、ある意味楽しい」
男はそう言って笑った。タクシーを待つ姿には余裕があった。ほかの人間のように毎朝満員電車に揺られて会社へ行かなければならない身分ではないのだ。
「最近はあまり夜に出歩かなくなってきたから、いつもはタクシーで帰るんですがね。――この路線で人身事故というのは珍しいな」
「そうなんですか?」
「中央線は多いんだ。昔からね」
そうして男は、自分はとある大手保険会社の重役をやっているのだと言った。お偉いさんだ、と青年がからかうように言うと、嫌われ役ですよと男は苦笑した。
「営業の人間をこき使って食べさせてもらってるんです。大勢の社員が私を憎んでいるんでしょうな」
――そんなことはないよ。
KKは伊達メガネを指でずり上げ、口元に慰めの笑みを浮かべながら胸の内で呟いた。少なくとも、ただ憎しみの為にあんたを殺してくれと言ってきた奴は居ない。
やがて目の前に一台のタクシーが止まり、二人は車に乗り込んだ。男が行き先を告げ、途中で国領の駅に寄って欲しいと言うと、運転手は少し考え込んだあとにうなずいた。
車は人通りの少なくなった夜道を静かに発進した。
最初の目的地に着くまで二人は殆ど口を開かなかった。KKも男も窓の外へと静かに視線を投げて、ただ車の揺れに身を任せていた。
「駅でいいんですか?」
国領のロータリーにタクシーが入ってから、今更のように男が訊いた。KKは金を取り出しながら「はい」とうなずいた。
「自転車置いてあるんで。――ありがとうございました、助かりました」
「こちらこそ」
男は金を受け取り、KKに向かって笑ってみせた。タクシーはKKが降りるとすぐに発進した。男に向かって頭を下げ、目の前の道路にタクシーが出るのを確認すると、KKは別のタクシーに乗り込んで言った。
「今出てったタクシー追って」
「――おたく、警察の人?」
「ま、似たようなもん」
嘘だけど。
男の乗った車は直接自宅へは向かわなかった。京王多摩川の駅を過ぎ、多摩川沿いに走る大きな道路の途中で止まった。タクシーから男が降りるのを確認したKKは、その先の信号を過ぎたところで車を止めた。男の家はまだ少し先の筈だ。金を払い、つり銭は運転手に預け、早足で男が入った脇道へ出た。そうして杖を突きながら男がゆっくりと川へ向かうのを、静かに追った。
男は多摩川堤へ上がる道の入り口で立ち止まり、静かに咲き誇る桜並木を見上げた。見頃は過ぎてしまっていたが、やわらかな風にはらはらと舞い落ちる花びらが美しかった。男はしばらくのあいだ桜並木をみつめ、やがて堤に上がった。
深夜のこの時刻、堤を歩く人間は男とKKだけだった。ぬるく漂う空気の合い間を縫うようにして、時折冷たい風が吹いた。きっと酔いの回った体には心地良いだろうとKKは思った。
男は歩きながら時折桜を見上げた。背後に誰かが歩いていることなど全く気付いていないようだった。人がいいのはわかるけどさ、もうちょっと警戒心持とうよ、おっさん。KKは内心で呟き土の匂いを嗅ぎながら男の背中に向かった。音を立てずにナイフの刃を開き、男の肩をつかんで無理やりに振り向かせると、心臓へ向けてまっすぐにナイフを突き刺した。
「言い忘れてたことがあってさ」
男はなにが起こったのか理解出来ないというような顔で、喉の奥から甲高く弱々しいうめき声を洩らした。目の前に立つ人物がさっきの青年だと気付くと、ほんのわずかだけ目を見開いてみせた。だけど言葉は一つも出なかった。KKはナイフをねじりながら笑った。
「ばいばい」
公園のトイレでナイフを洗った。メガネは血が付いてしまったので、水で汚れを流したあとに足で割ってゴミ箱に捨てた。大通りに出てタクシーを拾い、迷いながらも店へ向かった。運転手が、電車がようやく復旧したということを教えてくれた。
「サラリーマンは大変だよね。こんな遅くに帰っても明日はまたいつもの時間に出社しなきゃいけないんだから。まぁこっちは売り上げが伸びて万々歳だけどね」
そっすね、とKKは愛想笑いで応える。そうして窓の外を流れる景色をぼんやりとみつめ、このままどこかに消えてしまいたいと考えた。
今この運転手の喉を掻き切って車を奪ってしまおうか。そうしてどこかへ――どこへ?――車を走らせて――。
救急車が一台、サイレンを高らかに響かせながらすれ違っていった。多分あれとは関係ない筈だ、そう思いながらもつい顔を伏せてしまう。
「やだねぇ。年末からこっち、まいんち見てるよ」
運転手が吐き捨てるように言った。KKは口の端を持ち上げて笑い、上着のポケットに入れてあるナイフを生地の上から指でそっとなぞった。
今日は誰かにとっては、電車が止まった最悪の日。
今日は誰かにとっては、商売繁盛で万々歳の日。
今日は誰かにとっては、桜が美しい最後の日。――だけど、大勢の人にとっては、いつもと変わらない普通の日。
MZDはふてくされているような顔をしていた。フロアの奥の定位置にあるイスの上で、わざわざ両足を抱え込む格好でうつむいている。KKが目の前に立ってもしばらくのあいだ顔を上げなかった。無言で酒のグラスを差し出すと、嫌がるように体ごと引いてようやくこちらを見た。
「なに、むくれてんだよ」
「……たまにはそういう日もある」
薄いサングラスの奥で目が沈んでいる。KKは軽く肩をすくめて隣に腰をおろした。いつものように酒をゆっくり片付けて煙草を吸い、MZDに振り向くと、なにも言わないうちから待ち構えていたかのように奥の部屋を指差した。
KKはグラスを預けて立ち上がった。
従業員用の控え室は少し整頓がされていた。不用品を片付けたらしい。お陰で少しだけ広くなったように感じられる。
ソファーに腰をおろして煙草に火をつけた。スニーカーを蹴るようにして脱ぎ、時間をかけて上着を剥いだ。
なんだか疲れているようだった。自覚はないが、どことなく全身がだるい。いつもみたいにすぐに眠る気にはなれず、KKはしばらくのあいだ煙草をふかし続けていた。MZDがこっそり入ってきたのも無視した。何故なら向こうもこちらを無視していたからだ。
奴は自分の真似をするようにまっすぐソファーに向かって歩いてきて、反対側の端にどっかりと腰をおろした。そうして靴を履いたままの足をテーブルに上げて腹の前で手を組んだ。
そのまま、しばらくのあいだどちらも口を開かなかった。
「影が、さ」
五分ほど経った頃だ。ようやく奴が言葉を口にした。
「なんか、好きな娘が出来たみたいでさ」
思わず吹き出した。
「なんですか、そのリアクションは」
「いや、別に」
KKは誤魔化すように咳払いをして新しい煙草に火をつけた。
「前から、たまーに遊びに来てる娘だったんだよ。俺も顔は知ってて何度か話したことあるんだけどさ」
大学の遊び仲間のようだった。なにかのサークルで知り合ったのだと彼女は言っていた。そのなかの一人と付き合うようになるまでにそう時間はかからない。ある時期から男と二人で来るようになり、やがてぱったりと姿を見せなくなった。まぁよろしくやってんだろうとMZDは考えていた。幸せなら、それでいい。
彼女が一人で店に現れたのはふた月ほど前のことだった。暗く沈んでいる表情を見て、なにがあったのかは聞かなくても察せられた。下手に慰めるよりは放っておく方が良さそうだと判断して、MZDはいつも通り過ごしていた。
声をかけてきたのは向こうの方からだった。元気がないのは明らかだったが、いい男捕まえに来ましたー、と空元気を見せる彼女に、慰めの言葉はかけられなかった。頑張れよと送り出し、しばらくしたあとで影がフロアへ出ていくのも、MZDは黙って見ていた。
影に言葉はないが、それを差し引いても表現力はひどく豊かだ。壁の花を気取るその娘を笑わせる為に、影はあれこれと努力した。深夜遅くになって、こんなに笑ったの久し振り、と影に唇を寄せてその娘は帰っていった。影が赤く染まるのを見たのは初めてのことだった。
それから頻繁にその娘は姿を見せるようになった。フロアに入るとまず影の――まぁMZDの、だけど――姿を捜し、踊ろうよ、と言って影を誘った。MZDはその姿をにやにや笑いながら観察していた。不思議な光景だけど、幸せならまぁいっか――と。
「……美しい話じゃないの」
「うん。美しいよね」
MZDは暗い表情で同意する。KKは煙を吐き出し、なにが問題なんだよといらいらしながら訊いた。
「問題は、影が、俺の影だっていうことでさ――」
意外かも知れないが、思いのほかMZDも忙しい身だ。そう毎日店に出ているわけにもいかない。その娘も店に来る日がバラバラで、このあいだ来てたよと店の連中から教えられたことが何度かあった。
「俺が居ないと影は出てこれないじゃん。影だけ置いてくっていうわけにはいかないんですよ」
「駄目なんだ」
なんとなく脱着可能のような気がしていたが、そうはいかないらしい。MZDはゆるゆると首を振ってみせた。
「出来なくはないけど、影が暴走しちゃうんだ。あの娘の知ってる影じゃなくなる」
言いながらMZDは自分の足元をみつめていた。影は今も奴の言葉を聞いているのだろうか。
「俺は出来る限り店に居てやりたいけど、そうは言ってられない日もあるわけよ。影にごめんって謝って仕事に行ってさ、でも今度は影が気を遣うのよ。店に居て、あの娘が来てもなんか出てこなくってさ、調子悪いみたいだからごめんねって誤魔化してさ。たまに会うと、彼女すっげー喜ぶのにさ。……なんか、自分が楽しんでるのが悪いことみたいに思ってんのかな」
別にすっぽかしたってたいした仕事じゃないんだけどな。MZDはそう言って、また両足を抱え込んだ。
「十日、影に会ってない」
――お前の方が恋煩いしてるみたいだぞ、とは言ってやらなかった。KKは鼻を鳴らして煙草の灰を叩き落とし、結局なにも言えずに肩をすくめた。
「変な関係だよな、お前ら」
煙草をもみ消してKKが言うと、MZDは苦笑するように口の端を持ち上げた。
「大事な相棒だよ」
KKはそう言いながら淋しそうに両足を抱えるMZDを一瞥して、上着を頭からかぶった。
「寝る」
「……おやすみ」
「帰る時は起こせよ」
「わかってる」
そうして、自分が起きるまで奴がここに居ることも、KKは知っている。