部屋の隅に荷物を放り出した月本は、窓からの眺めに思わず歓声を上げた。
「すっごいね、緑がきれい」
「腹はふくれねぇけどなあ」
 佐久間は大儀そうにそう返してどっかりと座布団に腰をおろした。そうして、「おい、茶ぁくれや」と命令をする。
「はーい」
 月本は山の緑を名残惜しそうに一瞥してから部屋へと振り返った。そうして床に座り込んで茶筒を繰り、「すごいね」とまた呟いて笑った。
「お忍びで愛人と温泉旅行って、なんか絵に描いたみたいな構図だよね」
「まあなぁ。これでうるせぇのが居なけりゃ最高なんだけどよ」
「山田さんのこと? 山田さん、うるさいの?」
「うるせぇっつうか、まぁ不倫旅行に付き添いが居るのはただの野暮でしょうが」
「誰が不倫だよ、結婚もしてないくせに」
 急須に湯を注ぎながら月本は笑った。佐久間はメガネをずり上げて不機嫌そうに煙草を引き出している。そうして部屋の呼び鈴が鳴らされるのに振り向き、
「野暮が来た」
 月本に出ろとあごをしゃくった。
 ドアを開けると案の定立っていたのは佐久間組若衆の山田だった。垂れ気味の瞳が少し疲れたように笑っている。
「山田さんもお茶飲みますか?」
「あ、いただきます」
 部屋に入り込んだ山田は床に腰をおろすと、手にしていたバッグをテーブルに置きながら「いかがですか」と佐久間に聞いた。
「山のなかですから遊びに行けるような場所は殆どありませんけど」
「まぁ、静かなだけでもいいんじゃないんすか」
「景色がキレイですよね。緑の匂いがする」
 月本の言葉に、山田は嬉しそうに顔をほころばせた。
「秋になると紅葉が見事なんですよ。出来ればその頃にもう一度お連れしたいですね」
「そん時までこいつが俺んとこに居りゃあな」
 そう言って佐久間が意地悪そうに笑った。月本はテーブルの下で足を伸ばすと軽く佐久間の足を蹴飛ばした。佐久間は煙草の煙を吐き出しながら「あにすんだよ」と蹴り返してくる。
 先月、佐久間組の母体である高田組組長に会いに行かされ、それが原因でひと月以上も音信不通だった。佐久間の意地悪や軽口にはもう慣れたが、やられっぱなしでいるのは口惜しい。
「山田さんってこの辺りの出身なんですか?」
 とぼけたように月本がそう聞くと、山田は湯呑みをテーブルに戻しながらうなずいた。
「ええ。実家はもう少し町の方ですけど」
「なのに、なんで神奈川に?」
「誠」
 佐久間の声に振り返ると、少し怒ったような目付きでこちらを一瞥し、不意に視線をそらされてしまった。余計なことは聞くなという目だった。誰にでも知られたくない過去というものがある。ヤクザであれば余計だろう。月本はあわててすいませんと謝り、いいえと山田が返した時、また呼び鈴が鳴らされた。
「松本屋をご利用いただきまして誠にありがとうございます」
 やって来たのは旅館の女将だった。五十も半ばというところだろうが、話している時の表情が生き生きとしている為にあまり歳は感じられなかった。
「温泉ってもう入れるんですか?」
 月本がそう聞くと、女将は「はい」と答えて微笑んだ。
「内風呂は夜中の短い時間だけ掃除の為に閉めますけど、露天風呂の方はいつでもお入りいただけます」
 風呂からの眺めが最高だと、出発前に山田が教えてくれた。どうせだから明るいうちに一度入っておこうと月本は考えた。
「お夕飯は七時にお持ちいたします。なにか御用がございましたらそちらの電話でフロントにお申し付けください」
「とりあえずビールもらえますかね」
 佐久間が言う。
 かしこまりましたと答えて女将が部屋を下がろうとした時だ。山田が「お世話になります」と言ってバッグから封筒を取り出した。心付けなのだろうが、女将は一瞬表情を固くしてその封筒をみつめたのち、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
 女将が部屋を出ていくと佐久間は窓際に置いてあるイスへと席を移した。そうして窓からの眺めに目をやり、「水の音がすんな」と呟いた。
「川が近くにあるんですよ。露天風呂から見える筈です」
 山田の説明につられたように月本も立ち上がって窓際へ行った。開け放した窓の外側に付いている手すりにつかまって身を乗り出すと、確かにわずかだが水流の音が聞こえた。落ちんじゃねぇぞと佐久間がからかいの声を上げた時、仲居がビールを運んできて入れ代わりに山田が部屋を出ていった。
「ここって山田さんの親戚がやってるって聞いたけど」
 仲居も姿を消したあと、月本は部屋に佐久間しか居ないことを確かめてから呟いた。
「らしいな」
 ビールの入ったグラスを口に運びながら佐久間がうなずく。
「さっきの人、知り合いじゃないのかな? なんか他人行儀だったよね」
「さあねぇ。俺らには関係ないことじゃないっすか」
 美味い飯が食えりゃそれでいい、と佐久間は興味なさそうに呟いている。それはそうだけど、と内心で返して月本もビールを飲み、窓から静かに吹き込む風に目を細めた。
『ラーメン食いに行くから仕度しろ』
 いつものようにマンションで出迎えた佐久間が月本にそう命令を下したのは昨晩のことだった。その時の月本は当然のように飯を済ませて風呂にも入り、あとは寝るだけという状態だった。今から? と聞くと、出かけるのは翌日だと言う。
「なんて言う店?」
「あーなんだったかな。忘れた。山田が覚えてんだろ。喜多方ラーメンだとよ」
「どこにあるの?」
「猪苗代湖の近くらしいぜ」
「……猪苗代湖って、どこだっけ」
「磐梯」
「磐梯ってどこだっけ!?」
「福島」
「わざわざ福島までラーメン食べに行くの!?」
「ラーメンだけじゃねえぞ。温泉付きのお宿で馬刺し山ほど食うからな」
 そうして連れてこられたのがこの松本屋だったというわけだ。勿論大学の授業は放棄させられた。
 それでもこういうハプニングは悪くない。本当に二人きりで来れたらもっと良かったが、それが無理な注文であることは重々承知している。佐久間の立場を考えれば付き添いが山田一人だけというのはものすごく譲歩してもらった形になる。
 今頃は組事務所でまとめ役の萩原がさぞかし気を揉んでいるに違いない。そう考えて月本は一人で笑い、「あんだよ」と佐久間に怪訝そうに聞かれてしまった。
「ね、露天風呂行こうよ」
 月本はそう言って立ち上がったが、佐久間はまったく乗り気でない目でこちらを見返してきた。
「お一人でどうぞ」
「えー、そんなのつまんないじゃん。せっかく温泉来たのにさぁ」
「俺ぁ温泉玉子になりに来たわけじゃねぇんだ。馬刺しとラーメン食いに来たんです」
 そうして、山田の背中でも流してやれと言って目を閉じてしまった。月本はしばらくむくれながら佐久間の姿を見下ろしていたが、どうにも動きそうになかったので仕方なく山田を誘ってみることにした。
 二人が泊まる部屋は三階の廊下の突き当たりにあり、山田はその隣だ。けれど呼び鈴を鳴らしても反応はなかった。ロビーに居るのかも知れないと思って月本は一階へ下りた。
 フロントに続く廊下はひどく静かで、シーズンを外れているのかほかに泊りらしき客とすれ違うことはなかった。壁にかけられた看板を頼りに玄関へ向かっていたつもりだったが、気が付くと月本は非常階段へ足を踏み入れかけていた。
 ――あれ?
 あわてて元来た方へ戻ろうとした時、屏風で仕切られた通路の奥から山田の声が聞こえてきた。
「頭(かしら)から預かった金なんだ。返してもらうわけにはいかないんだよ」
「ヤクザっていうのはそんなに儲かる商売なの。だからあんたは辞めないわけ?」
 答えているのは先程の女将らしき女の声だ。月本は山田を呼びかけたままの態勢で息を呑み、思わずその場に立ち尽くしてしまった。金なんかじゃない、と山田が鋭い声で言い返すのを聞いてなにやら込み入った話になっているのはわかったが、どうしてもその場を立ち去る気にはなれなかった。勿論二人は月本の存在に気付いていない。
「ともかく、あのお金は弓子に渡します。あたしがもらったお金をどうしようとあたしの勝手でしょ」
「それはそうだけど…」
「あんたもせっかく戻ってきたんだから弓子に顔見せてやってよ。ねえ」
 山田の返事は聞こえなかった。女が続けてなにかを言いかけた時、不意に屏風の向こうから山田が姿を現した。月本は隠れるタイミングを失ってしまい、はからずも鉢合わせの格好となってしまった。山田は驚いたように月本を見たが、すぐに通常の顔に戻って「どうしました?」と聞いてきた。
「あ……えと、お風呂どうかなと思って呼びに来たんですけど…」
「頭は?」
「お酒飲んで寝ちゃいました」
 そう言うと山田はおかしそうに笑い、「すぐに行きます」と答えて先にエレベーターへと歩き出した。後ろを振り返ったが女の姿は見えなかった。


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