月本は呼び鈴が鳴らされるのを、今か今かとそわそわしながら待ち構えている。
 さっきから居間のソファーに腰をおろしては立ち上がり、窓の下をのぞいては、マンションの前で止まる車がないかと何度も確かめていた。九時頃とだけ告げられた約束は既に三十分も過ぎており、せっかく沸かした風呂も冷めつつあった。
 どれだけ自分が焦っても仕方ないのだと思い直し、ソファーに寝転びながら酒を飲み始めたのは十時近く。そうして腰を据える気になったとたんに呼び鈴が鳴った。
「はーい」
 月本はドアの外へ聞こえるよう大きな声で返事をして玄関に急いだ。鍵を外してドアを開けると、
「よう」
 佐久間が煙草を持った手を上げて笑っていた。
「おっそーい」
 少しばかり拗ねてやろうと思っていたのに、佐久間の顔を見た瞬間、そんなバカげた考えもどこかへ飛んでいってしまう。月本はぎゅうと抱きついて嗅ぎ慣れたコロンの香りに酔い、今更のように廊下に立つ萩原の姿に気が付いた。
「あ、こんばんはー」
「こんばんは」
 萩原はにこやかに笑って頭を下げる。
「誠、灰皿よこせ。灰落ちるぞ」
「うわ、ちょっと待って」
 月本はあわてて居間へ戻り、テーブルから灰皿を持ってくる。そうして玄関へ戻ると、「それでは」と萩原がドアを閉めようとしているところだった。
「あれ? 萩原さん、帰っちゃうんですか?」
 灰皿を佐久間に渡すと月本はあわててドアを押さえた。
「まだ事務所に仕事が残ってまして」
「そうなんですか…」
「また日を改めてご一緒させてください。明日の十一時に迎えに上がりますので」
「わかりました。お気を付けて」
 失礼します、と呟く萩原に頭を下げ返して月本はドアを閉めた。居間に戻るとソファーに腰をおろした佐久間が背広を放り投げてくる。そうしてグラスの酒を一気に飲み干し、
「疲れたー」
 ぐったりとソファーにもたれかかった。
「お疲れ様」
 背広をハンガーにかけて月本は笑う。
「お腹空いてない? 簡単なもので良ければ作るよ?」
 佐久間は月本の声に振り返り、ネクタイを緩めながらしばらく思案顔だった。やがて新しい煙草に火をつけると無言で手招きしてくる。月本は台所から新しいグラスを持って居間に戻った。そうして佐久間の隣に腰をおろし、抱き寄せられるままに身を任せた。
 佐久間はテレビのニュース番組をぼーっと眺めている。指は無意識のうちに月本の髪を梳いているが、目は思考を止めてただ疲労にひたっている。アナウンサーは関西の方で起こった殺人事件の概要を語っていた。
「……たかだか二万の為に殺す奴も居るんだなぁ」
 月本はなにも答えずに佐久間のネクタイを外した。
「どうせなら保険かけておいて一億ぐれぇふんだくりゃあいいのによ」
「金額の問題なわけ?」
「…そういう世界もあらぁな」
 そう言って佐久間は口元を歪めるようにして笑い、顔を寄せてきた。月本はそっと抱きついて唇を重ね、「疲れてるね」とぽつりと呟いた。
「ちっと込み入った話が続いててな。シマによその組の奴らが入り込んできてんだけど、これが親父の兄弟分の関係の組でよ。下手に強くも出れねぇんだ。ホントだったらケツ蹴っ飛ばして追い出してやんだけどな」
 佐久間はそう言うとメガネの下に指を差し込んで目頭をこすった。言葉以上に疲れている様子だ。
 ちなみに佐久間が言う「親父」とは、彼が組長を務める佐久間組の本家、高田組組長・林義治のことである。
 佐久間組の初代組長(佐久間の実父)はもともと林の舎弟として高田組に勤めていた。やがて高田組の勢力が増し、林が幹部として迎えられると同時に高田組の先代から打診を受け、下部組織として佐久間組を誕生させた。林が高田組を継いだのはそれから十年後、今から二十年以上も前の話である。
 佐久間自身が高田組に出入りするようになったのは十五の頃だという。父親とはあまり関係のないところで組の人間と知り合い、やがてその人物を兄と仰ぐようになった。正式に高田組の組員として迎えられたのは十七の時。血気盛んな若者ゆえに無茶もしたが、そのせいあって逆に組内部での評判は上がり、佐久間組二代目の就任に際しても横槍は殆ど入らずに済んだらしい。
 高田組との縁を繋いでくれた人は今、府中で服役中だそうだ。一度会わせてやるよと約束してくれてはいるが、それがいつ実現するかは、残念ながら定かでない。
「高田組の組長さんにお願いしてみれば?」
「…こんなことぐれぇで親父引っぱり出すのもなぁ」
 佐久間はそう言って苦笑すると乱暴に月本の頭を撫でた。月本は手に持ったネクタイをもてあそびながら「元気出して」と呟いた。
「学さんが元気ないと、僕も元気なくなってくる」
「ヤる元気は残ってっから安心してくださいよ」
「そういうことじゃなくってさ」
 思わず吹き出した。佐久間も小さく笑い、開け放した窓から入り込む風につられたように顔を向けた。
「花見したかったよなあ」
 もう桜は散ってしまった。
 月本は佐久間の手が煙草の灰を叩き落とす様をぼんやりとみつめている。やがて少し身を起こして顔を上げ、「なにか食べる?」ともう一度聞いた。
「ラーメンあるか?」
「あるよ」
「んじゃそれ。ネギどっさり入れてな」
「わかった。ちょっと待ってて」
 頬にキスをして月本は立ち上がった。


 片足を抱え上げて肩にかけ、少し体を起こすようにしておいて佐久間は深く突き入れる。この体勢が一番感じるようで、部屋に響く月本の嬌声は一段と高くなる。
 枕もとのライトの薄ぼんやりとした光に照らされて、シーツにしがみつく手が見えた。まるで逃げ場を求めるようにベッドの縁へと手が伸ばされ、突き入れられる衝撃に指が滑り、またシーツにしがみつく。
「あ…っ、あ…! は…ぁっ…、…ん…っ」
 甘い悲鳴を聞きながら、苦痛と快楽の表情の差は紙一重でしかないのだということを、佐久間はぼんやりと考えている。
 欲望のままに突き上げ続けると、月本は一度大きくあえぎ、不意に足を叩いてきた。
「やだ、や…あっ!」
 涙ぐんだ目が怯えたようにこちらを見上げていた。動きを止めるとすすり泣くようにして息を整え、体を震わせながら「もうやだ…っ」とかすれる声で呟いた。
 佐久間は抱えていた足をおろし、乱暴に髪を梳いた。その手の感触ですら感じるかのように月本は小さく声を洩らす。そうして佐久間は抱き寄せられて唇を重ね、肩をつかんでまた突き上げ始めた。
「あぁ…あっ……ん、…は…あっ、あ…!」
 首にかけられた手が痛いほどに爪を立てる。
 突き上げるたびに指が動き、拒絶しようと押し遣りながらも快感を求めてすがりつく。月本は恍惚のさなかで夢中で声を上げ、自意識を失ったように茫然とした表情でどこかをみつめている。わずかに涙がこぼれ落ちてまた嬌声が響き、悲鳴が高くなるにつれて佐久間も深い快楽の海へと沈んでいく。
 ほかでは得ることの出来ない充足感がここにある。こんな時ばかりは、悔しいながらもこの男が大事なのだと、佐久間は思う。


 組の跡目を継いだからといって高田組を抜けたわけではない。未だ佐久間は高田組の人間であり、若衆としての仕事をこなしている。毎日ではないが事務所に顔を出したりもするし、交代で高田組組長の家にも詰めている。
 その日は高田組と縁のある組長の葬式だった。佐久間も組長の林と共に葬式に参列した。
 ヤクザの世界ではこういった義理事が欠かせず、組織が大きくなればなるほど顔も広がり、それにつれて義理事への参加回数も増えてゆく。体面をなによりも重んじる業界であるから冠婚葬祭で捻出する費用もバカにならない。実入りは大きいが支出も大きく、組を維持・運営していくのもなかなか大変なのである。
 夕方、葬儀を終えた林は珍しく疲れた顔で車に乗り込んだ。事務所に戻っていいかという佐久間の問いかけにもなかなか答えず、しばらく考え込んだあとに、
「どこかでゆっくり飲み直そうや」
 と、料理屋の名を告げてシートに沈み込んだ。
 動き出した車のなかで林は流れる風景をぼんやりとみつめている。後部座席で隣に腰をおろした佐久間も、林の思考を妨げるようなことはしない。それでもちらりと横顔を見遣り、なんか最近、めっきり老け込んだよなと認識を新たにしていた。
 林は当年六十七。髪は薄く白くなっているが、規則正しい生活と運動によって未だ健勝だ。丸い顔にちょこんとついている小さな眼は、この世の裏を見尽くしたというようにひどく醒めて見える。戦中・戦後の混乱期を身一つで切り抜けてきた男だけに、伝え聞く話は心胆を寒からしめるものばかりだった。
 それでもひどい子供好きで、孫をあやしている時はまさに好々爺といった風になる。「俺もそろそろ引退かねぇ」と冗談めかして林が言う時、ずっと親として組の頂点に居て欲しいとも思うし、引退して女房と安穏な日々を過ごして欲しいとも思ってしまう。
 そんな時佐久間は、「どんな姿だろうと親父は俺の親父っすから」と笑って返す。すると林は、落ちぶれたみてぇに言うんじゃねえやと苦笑いして軽く頭を殴りつける。
「お前のおやっさんは、幾つで亡くなったんだっけか」
 不意にそう聞きながら林がこちらに振り向いた。
「五十八っすね。還暦迎えたら引退するんだ、なんつって話してましたけど…」
「脳溢血だよな」
「はい」
 もとから血圧は高い方だった。ある日なんの前触れもなく倒れて、三日後にはこの世を去っていた。当時高田組は外部の組と小競り合いを起こしていて佐久間はその処理に当たっており、結局一度も病床へは見舞いに行けなかった。


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