だからスマイルは期限を切った。三月いっぱい。それで終わりにしようと。
孔のことを好きだと実感するたびに、スマイルの胸の奥で醜い嫉妬心がうごめいた。それは不意に姿を現し身をもたげ、幸せな空気をぶち壊しにしようといつでも牙を剥く準備をしていた。孔の心を自分だけに向けさせておくことなど出来ないとはわかっていた。わかっているからこそ、孔を好きだと思うのと同じぐらい――いや、それ以上に嫉妬は強くなる。
『勇気を出してしがみつくものから手を離してみれば、案外なにも失ってなどいないということがよくわかる』
二度と会えなくなる可能性もあった。けれど、
――それでもいい。
スマイルはそう思った。
ひどいことを言われるかも知れない。辛い想いを引きずることになるのかも知れない。それでも、今の幸せがうそになるわけじゃない。好きだという気持ちがなくなるわけじゃない。
だから、それでいい。
三月も終わりに近付いたとある晩、スマイルはいつものように孔のアパートへ行った。暖かな日が続いており、あちこちで桜が咲き始めていた。
「こんばんは」
ドアを開けた孔は、照れたように笑いながらスマイルに抱きついてきた。スマイルは孔の体を抱き返し、
「お花見しない?」
そう聞いた。
「花見?」
「そう。夜桜見物」
孔はきょとんとした顔でスマイルを見返す。
「どこに行くんだ」
「商店街の反対側。公園あるの、知らない?」
「知ってる。だけど、桜なんかあったか?」
「あるよ。きれいに咲いてた。――行こうよ」
そう言ってスマイルは孔の手を引いた。孔は上着に煙草を押し込んでスマイルと共にアパートを出た。
駅のそばの商店街でビールとつまみを買い込み、人気のない裏通りへと入ってゆくと、行く手に目的の公園が姿を現す。孔は少し早足になって公園の入口で立ち止まり、
「…本当だ」
公園をL字型に取り囲む桜の姿に、嬉しそうに顔をほころばせた。
二人は歩道に設置してあるベンチに腰をおろしてビールを開けた。桜は常夜灯に照らされて、闇のなかでその姿をはっきりと浮かび上がらせていた。住宅街のなかの小さな公園で、通りかかる人の姿はない。二人はしばらくのあいだ、ほんやりと桜を眺めながら静かに酒を呑み続けた。
「花は、すごいな」
不意に孔が呟いた。
「すごいって?」
「そこにあるだけで、完全だ。きれいで、強い」
そう言ってまた桜を見上げる。
「一度咲く。花が散る。葉が出て落ちる。暑いも寒いも文句を言わない。ただそこに居て、きちんと生きている。…強い」
「……」
スマイルはつられたように桜を見上げた。そうして、
「そうだね」
ぽつりと呟いた。
狭い公園のなかをぐるりと回った時、スマイルは植え込みの合い間に空き地をみつけた。孔を呼んで空き地に座り込み、スマイルはいつものように背後から孔の体を抱きしめた。
「…恥ずかしいな」
「なんで」
何故か二人とも小声になっている。困ったような表情で振り返った孔にそっと口付けし、スマイルはうかがうように見返した。孔は照れて下を向いてしまう。
「こうしてた方があったかくっていいじゃない」
「…まあな」
桜の季節とはいえ、夜はまだ冷えた。二人は互いに手を握り合い、ただ鼓動だけを感じている。
スマイルは目を閉じて小さく鼻を鳴らす。暗がりのなかで孔の甘い香りと、わずかながら桜らしき香りが感じられた。そうして匂いにつられたように孔の首筋へ唇を押し当てると、孔は体を震わせて不意に身を引いた。
「月本、」
「なあに?」
にやにや笑いながら聞くと、孔はなにも答えないままそっぽを向いた。スマイルはぎゅうと孔の体を抱きしめなおし、今度は耳の裏をくすぐった。
「ん…っ」
孔はうつむいたままじっと刺激に耐えている。強張った体から力を抜くように深く息を吐き、そうしてためらいながらも振り向いた。二人は探りあうようにして唇を重ねた。
握り合った手がわずかに温かい。時折洩れる甘い悲鳴に、スマイルはだんだんたまらなくなってくる。
「――駄目だ」
「え…?」
「ここでしていい?」
「なにを…っ」
返事も聞かないうちにスマイルは孔を押し倒していた。そうして逃げようともがく孔の両手を押さえつけて、また唇を重ねた。
「……ん、…ん…っ」
トレーナーの裾に手を差し込むと、孔の体がびくんと跳ねた。
「月本…っ、こら、どこ触っ……ぁっ、」
「声出すと、のぞかれちゃうよ?」
スマイルはくすくす笑いながら孔の胸をまさぐる。また小さく悲鳴が洩れるのを聞いて、不意に動きを止めた。
「――やだ?」
「当たり前だ…!」
孔は半分泣きそうな顔でバシバシとスマイルを叩きまくった。
「お前なんか嫌いだっ」
「うそだぁ、このあいだ好きだって言った癖に」
「言ってない!」
「ちゃんと聞いたもん」
まだ殴ろうとする孔の手を再び押さえつけてスマイルは顔を寄せる。
「好きだって言ったよ。ちゃんと覚えてる」
「……お前なんか、嫌いだ」
「僕は孔が好き」
そう言うと、孔は困ったように黙り込んでしまった。まだ少しだけ泣きそうになっている目をうろうろとあちこちにさまよわせながら、どう反論しようか考えているようだった。
「嫌いになった?」
スマイルの声に孔はふと振り返り、
「……好きだ」
むくれたような声でそう呟いた。スマイルは破顔し、またキスをする。
喜びも悲しみも、みんなここにある――孔の髪を梳き、何度もキスを繰り返しながらスマイルは考えていた。
怒りも憎しみも、不安も迷いも、そしてなにより愛おしさが、ここにある。
――孔。
なんてすごい。
君も、僕も、ただ生きているだけで完璧だ。
「月本…?」
身を起こしながら孔が顔をのぞきこんでくる。少しぼうっとしていたのだろう、スマイルはふと我に返り、
「どうした?」
「――別に」
首を振って孔の手を握り、もう一度だけキスをした。
「帰ろう」
「ああ」
「帰って、しよう」
三秒後、言葉の意味を理解した孔は、真っ赤になってうつむいた。
その五日後、珍しく孔から電話をもらった。鍋を作るから食べに来いという誘いだった。それが、二人で食べた最後の夕飯となった。
最後の晩餐/2004.07.10