スマイルが期限を切ったことを、孔は知らない。

 孔は煙草をくわえたまま指先でそっとカーテンを押し開けた。真っ暗ななかにちらほらと白いものが舞い落ちてきているのが見えて思わず窓を開ける。冷たい外気に身をひそめながら空を見上げると、みぞれ混じりの雨が降っていた。
 ――どうりで寒いわけだ。
 頭からかぶっている毛布をあらためて足元にかけ直し、孔は窓を閉めた。そのままぼんやりとカーテンの隙間からじっと空を見上げた。煙草を一度深く吸い込んで煙を吐き出すと、灰皿の底に押し付けて消してしまう。
「なにか見える?」
 スマイルの声に振り返ると、頭をタオルで拭きながら天井を向いて大きく息をついていた。「雨だ」と言うと、
「乾燥してるから少し降ってくれた方がいいね」
 そう言いながらベッドに上がり込んできた。孔が身にまとっている毛布の端を引っぱり上げ、自分もそのなかに入り込むと、背後からぎゅうと抱きついてくる。
「…熱いな」
「シャワー浴びたばっかりだもん」
「毛布が足りない。寒い」
「熱湯消毒」
 スマイルはそう言って孔の足の甲をつかんだ。そうして「冷たい」と悲鳴をあげる。
「なんでこんなに体温低いの」
「お前が高い。私は普通だ」
「ううん、僕が普通。孔が低いんだよ」
 苦笑しながらスマイルは孔の足をこすり続ける。温かいスマイルの体に寄りかかるようにして孔は力を抜き、そうしながらも、じっと窓の外を眺め続けた。
「明日は暖かくなるって言ってたけど」
「そうか。もう二月も終わるしな」
「梅が咲いてるの見たよ」
 言いながらスマイルは孔の首筋に唇を寄せた。くすぐったい感触にぴくりと体を震わせながらも、孔はじっと窓の外をみつめたまま動かない。
「そろそろ寝ない?」
 スマイルが顔をのぞきこんでくる。孔はそれを見返して、少しためらったのちに小さくうなずいた。
「なに?」
「…別に」
 呟きながら孔はベッドに横になる。そうしてスマイルが毛布とふとんをかけ直してくれるのをぼんやりと見上げていた。
「まだ電気消すな」
 ベッドから身を乗り出して蛍光灯の紐を引こうとしたスマイルにそう声をかける。スマイルは驚いたように振り返り、
「なんで?」
「…まだ寝ない。明るいと眠れないか」
「別に平気だけど」
 そう言って小首をかしげた。
「どうしたの」
 ふとんに入り込みながらスマイルは孔の髪を撫でる。
「なんかあった?」
「なにもない。まだ寝ないだけ。お前は寝ていいぞ」
「うん…」
 納得がいかないような顔をしながらも、やがてスマイルは孔の腰に手をかけて目を閉じた。孔も同じように横になりながら、じっと息を殺してスマイルの顔をみつめる。
 ――別に、なにもない。
 ただ時々、眠りにつくのが怖いだけだ。
 こんなふうにして一緒に眠ったとしても、朝目を醒ましたらスマイルが消えているのではないかと考えてしまう。これまでにも何度か夜中に目を醒まして、きちんとスマイルの姿があることを確かめたことがあった。
 孔はそっと手を伸ばしてスマイルの指に触れた。温もりはちゃんとここにあるのに、何故そんなふうに思ってしまうのか。
 ――俺、こいつが居なくなるのが、怖い。
 一人で目を醒ました時のむなしさに近頃怯えていた。以前まではそんなことなど考えもしなかった筈なのに、ここ何週間か、急にそんな思いを抱くようになっていた。
 ――どうしよう。
 こっそりと指をつないで、孔はスマイルに身を寄せる。
 どうしたらいい?
 ――俺、こいつが好きだ。
 こんなに手放しで誰かを好きになったことなんて今までなかった。いつか居なくなるのかも知れないと考えると、居ても立ってもいられない。
「……」
 不意にスマイルが目を開けた。つなげられた指にきゅうと力を込めて、小さく笑いかけてくる。
「やっぱり、なんかあったでしょ」
「……」
「孔」
 そっと手を伸ばしてまた髪を撫でてくれる。色素の薄い茶色の瞳をみつめて、孔はなにも言えないままわずかにうつむいた。
「嫌なことでもあった?」
「違う」
「…言いたくない?」
 心配するようなスマイルの声に孔は顔を上げる。そうしてふと唇を寄せて、軽く重ねたのちにすぐ離してしまう。
「あのな」
「うん」
「……なんでもない」
「なんだよ、言いかけてやめないでよ」
 スマイルはじれったそうに孔の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回すが、孔はじっと口をつぐんだまま顔を赤く染めてうつむくだけだ。
 考えてみれば今までの人生のうちで、告白されたことはあっても自分から告白したことは一度もないのだ。こんなに恥ずかしいものだなんて思ってもみなかった。
 スマイルは相変わらず困ったように孔の顔をのぞきこんでくる。孔はうつむいたまま、
「……あのな、」
「うん」
「…好きだ」
 そう呟いて、ふと息を呑んだ。しばらく二人は黙ったままで、なんの反応もないのを不思議に思い、孔は顔を上げた。
「……聞こえたか?」
 キスの嵐が返事だった。


 スマイルが期限を切ったことを孔は知らない。
 だけどそれは仕方のないことだ。期限を切ったスマイル自身も、幸せな日々のなかで、あやうくそのことを忘れそうになっていたのだから。


 そもそもはお互い様で始まった関係だった。スマイルは孔をペコに見立てていたし、孔も――確かめたことはないが、それは確実だった――自分を、ほかの誰かに見立てていた。そうしてお互いが都合よく過ごす為の道具としてだけ相手を求め、それ以外にはなにもない筈だった。
 なのに、いつの間にか本気になっていた。
 ペコと孔と、どちらがより好きかなんて、スマイルには決められなかった。ただ好きだという気持ちがあって、孔も自分を好きだと言ってくれて、幸せで…いつの間にか、そんなふうな関係に変わっていた。
 出来ればこのままでいたいと思った。別れる理由などどこにもなかった。
 ただ、好きだと思えば思うほど、孔が以前付き合っていた相手のことが気になって仕方がなかった。その人と自分と、どちらの方がより好きかなどと、バカげたことを聞いてしまいそうになることがたびたびあった。自分を振り返ってみれば、そんな質問に答えられるわけがないことはわかっているのに。


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