時刻は夕方に近かったが、陽はまだ落ち切っていなかった。江ノ島弁天橋を渡り、島の入口にある食堂の店構えを懐かしく思いながら、ペコは自販機でジュースを買った。吹き付けてくる海風に向かうようにして二人は駐車場の脇の道を歩いた。
「少し痩せた?」
 後ろの方からのぞき込むようにしてスマイルが聞いた。「どうかなぁ」とペコは首をかしげ、
「でも体重は変わってねえよ。こっち居た時と殆ど変化なし」
「そっか。なんか、痩せたように見える」
 そう言うとじっくりと体を眺め回して、「引き締まったっていう感じかな」と続けた。
「毎日運動ばっかしてっからなあ」
「それが仕事だもんね」
「…そっすね」
 ペコは小さく笑い、不意に気まずそうに視線をそらせたスマイルに向かって缶を差し出しながら、「飲む?」と聞いた。
「…ありがと」
 缶を受け取ったスマイルは、一口二口、ジュースを飲みながらゆっくりと歩道を歩き続けた。
「――考えてみりゃあ、すっげーいい環境に居るんだよなあ」
 ペコはそう言って不意に駆け出し、弱く光を放つ街灯に向かってジャンプした。
「一部だぜ、ドイツの一部リーグ」
「……」
「どーよスマイル、ホントにここに来ちゃいましたよ、俺。すっげーよなあ、そう思わねえ?」
「思うよ」
 スマイルは立ち止まっていた。弱々しく笑いながら、「ペコはすごいよ」と繰り返した。
「僕の自慢だよ」
 気弱な瞳に、それでもまっすぐにみつめられて、ペコは急に恥ずかしくなった。早く来いよと誤魔化すように言い、スマイルが隣に来るのを待ってから並んで歩き出した。
「今年、雪降った?」
「降ったよ。三回ぐらい降ったかな。結構積もった時もあったしね」
「へえ」
「ドイツはどう? やっぱり寒いの?」
「寒ぃのなんのって、氷点下なんか当たり前でよお…」
 潮の香りが懐かしい。
 スマイルの声が懐かしい。
 なんでもないこの時が、ひどく懐かしい。
 二人は駐車場のヘリに腰をおろして海を眺めた。太陽は既に島の向こう側へと沈んでしまっている。朱色に焼けた空を背に聳える江ノ島の灯台の姿が、やけに大きく見えた。
 帰ってきたんだとペコは思い、戻りたくねえなとドイツを思った。
「…スマイル」
 海風に吹かれながらじっと波の音を聞いていたスマイルは、急にそこに居るペコの存在を思い出したように「なに?」と振り向いた。
「手、つないで」
「…いいよ」
 互いの手は少し冷えていて、それでも握り合うとやがて温もりが感じられるようになった。ペコはまるで小さな子供のようにスマイルの手にしがみつき、それに応えるように、スマイルもぎゅうと力を込めてくる。
「俺、頑張るよ」
 海風にかき消されそうな小さな声しか出なかった。それが悔しくて、ペコは「ぜってー頑張るよ」と繰り返した。
「うん…」
 スマイルはためらいがちにうなずいて、ふと足元へと視線を落とした。
「頑張るよりさ、楽しんでよ」
 思いもよらぬことを言われて、ペコはびっくりして振り返った。
「ペコはさ、いっつも卓球が楽しくて仕方ないって顔してたんだよ。本当に楽しそうでさ、…それが、ずっと羨ましかった」
「……」
「義務で卓球するペコなんて想像つかないよ」
 誰かの為でなく、なにかの為でもなく、ただ純粋に好きでたまらなくて。
「…無責任なこと言ってるね」
 スマイルは苦笑して、ごめんね、と呟いた。
「いいよ、別に」
 実際そうだった。楽しくて仕方がなかった。
 誰かに言われたから今まで続けてきたわけじゃない。望んでこの道を選んだ。望んでドイツへ渡り、世界の強豪を相手に自分の実力がどれほどのものなのかを確かめようとした。
 てっぺんを取る為に。…それしかなかった。子供の頃からの夢だった。今、その二歩手前辺りまで、ようやくたどり着いた。
 義務じゃない。どんな理屈も必要ない。ただ自分が好きで選んだ道だ。
「俺ってガキだな、ちくしょー!」
 ペコは突然大声を上げて、握り合ったスマイルの手ごと頭上へ引っぱり上げた。
「なっさけねーぞ、星野裕! 俺様はこんな狭い日本でくすぶってるような器じゃねえんだよ、こんちくしょーがっ!」
「誰に向けた台詞だよ」
 呆れたように言いながらも、スマイルはくすくす笑っている。腕をおろしてペコは深く息を吸い、スマイルと顔を見合わせて、吹き出した。
「わっかんね」
 二人は手を握り合ったまま声を上げて笑った。
 波の音がわずかに強く聞こえ、ふと気が付くと、辺りは暗がりに沈みつつあった。じきにまた寒くなる。春は、まだ少し先にある。
「お腹空かない?」
 笑い声をおさめてスマイルが聞いてきた。
「空いた」
「なにか食べに行こうよ。あったかいもの」
「賛成。――その前に」
 ペコは腕を引いて、立ち上がりかけたスマイルの体を引き寄せた。暗がりにまぎれて素早くキスをして、呆気に取られているスマイルを引き上げるようにして立ち上がった。
「行こうぜ」
 力の抜けた手をほどいてペコは先に歩き出す。
「…不意打ちだぁ。卑怯者」
 茫然と呟くスマイルに振り返り、ペコはにっかりと笑った。
「早く来いよ」


急がば回れ/2005.03.10


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