ベッドに横になったペコは、同じくベッドの縁に腰をおろしたスマイルからふと視線をそらせた。まだ外は明るく、遮光カーテンの隙間から洩れるやわらかな明かりが、暗がりのなかでぼんやりと部屋の様子を浮かび上がらせている。
 懐かしい風景だなとペコは思った。勉強机、本棚、手に触れる壁の感触も、なにもかも。
 目の前でなにかが動いた、と思ったとたんにスマイルの指先が頬に触れた。ペコは息を凝らしながらスマイルへと振り向いた。必要以上に緊張している自分が、今更ながらに恥ずかしかった。
 スマイルの指はゆっくりと動いて頬を撫で、耳たぶをやさしくつまみ、そのまま耳の後ろをくすぐって、そっと髪を梳いた。ペコは時折なんとも言えない感覚に身を震わせ、小さく息を吐いた。それでもスマイルの手は止まらない。まるで感触を懐かしむかのような緩慢な動作で、ずっとあちこちを撫で回している。
 事実、こんなふうにして触れ合うのは久し振りのことだった。最後に抱き合ったのは一年近くも前。あの時も桜は見ることが出来なかったな、そうペコは思う。
 高校を卒業して、ペコはドイツへ渡った。望み通りドイツリーグへの入団を果たし、一年振りにビザの更新の為に日本へ帰って来た。
 あの時、最後に抱き合ったのはこの部屋だった。スマイルの部屋、スマイルのベッド。高校に居る頃からずっとそうだった。スマイルの母親は仕事へ出てしまうと朝まで帰らない。二人きりで思う存分互いを貪り、何度も抱き合ったまま眠った。
 たった一年前のことなのに、ひどく遠い昔のことのような気がする。
 スマイルの手が頬に落ち着き、親指でくすぐるように肌を撫でる。そっと顔を近付けてくるのがわかった。唇がかすかに触れて、すぐに離れていってしまう。ペコは手を伸ばしてスマイルの肩に抱きつき、わずかにねだるように力を込めた。唇が重ねられて何度か軽いキスを繰り返したのち、不意にスマイルの舌が唇を舐めるようにして滑り込んできた。
「ん…っ」
 舌を絡ませてすぐ、スマイルの方が怯えたように身を起こした。ペコは緊張と恐怖を吐息として吐き出し、なにかを言おうとしながらも言葉が思い浮かばず、結局もう片方の手をスマイルの首に回して静かに抱き寄せた。
「……も一回」
 甘えてるみたいに聞こえればいいんだけどとペコは思ったが、成功したかどうかはわからない。スマイルは小さく苦笑して、不意にペコの体をきつく抱きしめると唇を重ねてきた。
「…ん…、……っ」
 スマイルがベッドに乗るのがわかった。トレーナーの裾から手が入り込んできて背中を撫でられ、ペコは一度大きく首をそらせて悲鳴を洩らした。
 強引にまた唇が重ねられた。舌を絡ませるあいだにもスマイルの手の動きは止まらない。わき腹を撫でさすり、へその窪みを指でくすぐり、そのまま胸元へと上がってくる手の動きにペコはビクビクと体を震わせ続けた。
「や、あ…っ」
 スマイルの唇が首筋をきつく吸い上げている。咄嗟に洩れる声を隠そうとペコは手を口に当てて、それでもこらえきれずに悲鳴は暗がりへと飛んでいた。
 剥ぎ取るようにしてトレーナーを脱がされた。髪の乱れを直す暇もなくスマイルが覆いかぶさってくる。まるで噛み付くような勢いで首筋を吸われ、胸元をまさぐる手の感触にペコは鳥肌を立てた。
「……ぁっ!」
 胸の突起をつまみあげられてペコは体を震わせた。舌先でくすぐるようにいじくられ、不意にきつく吸い上げられて、ようやくわずかな快感を覚えた。何故だか突然に逃げ出したくなったが、羞恥と戸惑いに力が入らない。震える指でスマイルの髪をつかみ、暗がりに慣れた目でその懐かしい姿をみつめながら、きっとそのうち慣れると自分に言い聞かせた。
 多分、久し振りだから恥ずかしいだけだ。――怖いわけじゃない。
 泣き疲れたあとの気だるさがまだ残っていた。スマイルの舌の動きに身を震わせ、悲鳴を洩らしながら、本当はこんなことしたかったんじゃないんだよなと気付いて悲しくなった。
 一年振りにスマイルに会った。一年振りに顔を見た。安堵すべきところでペコは泣いた。何故泣いたのか未だに良くわからない。寂しかった。それは本当だ。会いたかった。それも本当だ。会えた嬉しさに泣いたのだったら良かったのに。
 ペコは、怖くて泣いたのだ、多分。
 ビザの更新が済んだらまたドイツへ戻らなければいけない。離れ離れは最初からわかっていた。だからこそ、ようやく会えた今日が嬉しい筈なのに、ペコは出来ればスマイルに会わないままドイツへ戻りたいと思っていた。
 顔を見ず、言葉も交わさず、――出来ればスマイルの存在を忘れたままで居たかった。会えば好きだということを思い出す。好きなのに、また会えなくなるという現実を思い出す。そうして、再会を喜ぶ暇もなく、ただ悲しくなってしまう。それが怖かった。
 事実、怖くてペコは泣いた。そんなペコを抱きしめながら、涙を流さないままスマイルも泣いていた。
 ――そんなことがしたかったわけじゃないのに。
 唇が重ねられた。そっと触れるだけの、ひどくやさしいキスだった。
「……?」
 暗がりのなかでこっちを見下ろしたまま、スマイルはじっと動かない。胸元の手はもうどいていて、最初の時のように頬に触れるとゆっくりと肌を撫で始めた。
「…ごめん」
 ぽつりとスマイルが呟いた。
「やっぱりやめよう」
「…なんで?」
 拒絶の感触が伝わってしまったのかとペコは咄嗟に言い訳を考えた。スマイルはなにかをためらい、やがて苦笑すると、「ごめんね」と繰り返した。
「……ちょっと、僕が駄目な感じで…」
 そう言って抱きついてきた。意味を理解するのに二秒ほどかかった。わかった瞬間、ペコは思わず吹き出してしまった。
「わりぃ」
 謝りながらも笑いをおさめられない。いいよ別に、スマイルは半ば自棄のようにそう答え、やがて自分でも笑い始めた。
「男ってめんどくせぇなあ」
「ある意味単純なんだけどねぇ」
 互いに気まずさを吹き飛ばすようにそう言い合って、また笑った。
 鼻筋にかかるスマイルの髪がくすぐったかった。抱きついたままスマイルが頬にキスをしてきた。ペコは振り向き、スマイルもそっと顔を上げて、あらためて二人は唇を重ねた。
 ペコの髪を撫でながら、
「散歩行かない?」
 スマイルがそう聞いた。
 いいよと答えながらも安堵してしまった自分が、ペコは恥ずかしくてたまらない。


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