日が暮れるのが早い。
僕たちはすっかり闇に溶けてしまった海原を眺めながら並んで立ち尽くしていた。
潮騒は耳に心地良く続き、満ち潮となった波がすぐ足元まで打ち寄せてきていた。
吹きつける風は少し冷たくて、僕はペコに帰ろうよと言おうとしては、闇に浮かび上がるその横顔に言葉を失った。
黒い瞳がじっと闇を見据えている。言葉をかけるのが憚られるほどにその意志は強く、もう完全に僕の手が届かない場所に立っているのだということが嫌というほどに実感出来た。だけど不思議とそれは悲しいものではなかった。
ペコは遠いけど、遠くない。
僕たちはもうずっと以前に別々の道を歩き始めていたけれど、それは決して決別を意味するものではなかった。――昔は、それがわかっていなかった。
「ペコ」
僕が声をかけると、ペコは今更のように寒さに身震いしながら振り返った。
「帰ろう」
「そっすね」
僕たちは並んで砂浜を歩き始めた。ペコが捨ててあったゴミにけつまずいて少し遅れた。僕は道路に昇る階段に足をかけてペコを待った。ゴミはゴミ箱に捨てろよとペコがゴミに向かって言い、そんなの捨てた人に言わなきゃしょうがないじゃんと僕は笑った。
道路に上がると、またペコが足を止めて海に振り返った。
「――すげえ」
なにが?
僕は聞いて、同じように立ち止まる。
「俺、帰ってきたんだな」
スマイルは俺の手を握りしめたままずっと動かなかった。冷え込み始めた空気のなかで俺はなんて声をかけたらいいのかわからなくて、ずっと黙り込んでいた。卑怯だよ、そう言ったスマイルの責めるような声が耳の奥で響いていた。
確かに俺は卑怯だった。終わらせることなんて出来ないものに無理やり終止符を打とうとしていた。出来ることなら自分だけでも逃げ出そうとしていた。
まだ俺たちは、自分という存在に自信が持てずにいた。信じるということがどういうことなのか、全然わかっていなかった。不安でたまらなくて、でもどうしたら安心出来るのかもわからなくて、いつも相手のなにかを奪うことだけ考えていた。
タイムリミットが少しずつ近付いてきていた。なんとかしなくちゃと気ばかりが焦っていた。焦ったお陰で、俺は変なことを口走っていた。
「俺、日本に生まれて良かったなぁ」
「…なんで?」
「お前が居たし」
笑おうとしたのに、泣いちった。
誰も居ない夜のグラウンドはどこまでも果てがないように見えた。暗がりのなかに聳え立つ校舎は非常灯の緑色の光だけを投げかけて、ただでさえ寒々しいグラウンドに更に冷たさの香味を加えていた。
「…懐かしいな」
ペコは門に手をかけてじっと校舎をみつめていた。グラウンドを取り囲む桜並木は、暗がりでもわかるほどに葉を落とし始めていた。小学校へ来たのは多分卒業以来だと思う。あの頃はとてつもなく大きく見えたこの正門も、今では僕の首にも届かない。僕はペコの横に立って同じように校舎をみつめ、ここで過ごした六年間のことをぼんやりと思い返していた。
「お前、あの頃すっげーいじめられてたよな」
「いじめられてたねえ」
「…あいつら、今なにやってんだろうな」
僕のことなんか忘れてしまったに違いない。せわしない日常は昨日の出来事でさえ呆気なく過去へと葬り去ってくれる。残るのは場所だけだ。
「…あの時――」
「ん?」
ペコに会ってなかったら、どうなってたんだろう。
そう言うと、
「想像出来る?」
「…出来ない。だから、どうなってたのかなぁって」
ペコは肩をすくめるようにしてしばらく考え込んでいた。それから、
「多分、俺と会ってたんじゃねえ?」
「――いや、だからさ、」
「あの時じゃなくってもさ」
ひどく穏やかに微笑みながら、わかんねえけどと付け加えた。
同じようにしばらく考え込んでから、そうかもねと僕は笑った。
――あの時でなければ別の年。
そうでなければ、また違う機会に。
もしかしたら会っていたかも知れない。もしかしたら会っていなかったかも知れない。
「…そう考えると、すごいね」
「…すげぇな」
偶然って、すごい。
僕は少しのあいだペコの横顔をみつめていた。手を伸ばして髪に触れたいという思いはあったけれど、やめておいた。拒絶されているわけではなかったけど、少なくとも今はそういう雰囲気じゃない。
門に両腕をかけてもたれかかりながらずっと二人で校舎を眺めていた。そうしてぽつぽつといろんな話をした。
ペコは少なくとも来年の世界選手権までは日本に残るそうだ。そのあとのことはまだ考えていないという。ただ専属選手にならないかというオファーは日本のあちこちからあるらしく、多分そのうちのどこかに入ることになるだろうと言った。
「しまいには、オババのあと継いでやらねぇとな」
「そんなことまで考えてるの?」
「一応予定には入ってんだぜ。まぁその頃にはもっと店でっかくしてもらわねえとだけど」
何年先の話だよ。
僕が苦笑すると、だってしょうがねえじゃんとペコは言った。
「だってしょうがねえじゃん。俺の帰ってくるところ、ここなんだからさ」
ここが故郷なんだからさ。
そう言って笑いながらペコは腕を伸ばす。僕の首に腕を引っかけて抱き寄せると、まだずっと先の話だけどなと呟いた。
僕も同じようにペコの首に腕を回して顔を寄せた。
そういえば、僕が言ったんだよね。
『故郷が出来るんだね』
「俺思うんだけどさ、別に故郷って生まれた場所っていう意味じゃねえんだよな、きっと」
「じゃあ、どういう意味?」
「…多分だけど、思い出のある場所って言うか、あの時に帰りたいって思う場所っつうか」
――幸せのあった場所。
「…ケンカしても?」
「ケンカしても」
「落ち込んでも?」
「落ち込んでも」
そこに、確かに自分が居た。
もう決して戻ることは叶わない、あの時の自分が居た場所。
一年が過ぎれば風景は変わらなくても自分が変わってしまっている。その年のその景色は、その年にしか見ることは出来ない。一日ずつ変化していく自分の名残りが残る場所。
「…そうかもね」
それなら、確かにここが故郷だ。僕にとっても、ペコにとっても、ここは幸せの残る土地。
もしかしたらペコはドイツで新しく故郷を作ったのかも知れない。僕もこの先、どこか別の場所を故郷だと感じるのかも知れない。まだ未来はわからないけど、多分、それは嫌なことじゃない。
「スマイル」
ペコは校舎をみつめたまま、ぽつりと言った。少し遅くなったけどと付け加えながら。
「誕生日、おめっとさん」
「――ありがと」
新しい年の僕の目のなかで、あの頃と変わりながらも変わらない、昔ながらの友達が笑っていた。
―― I wish your Happy New Year.
幸せのあった場所/2004.12.31