それは僕がまだ辛うじて大学生活を続けていた頃のことだった。その年の夏、初めてペコが戦う姿をテレビ越しに見た。
 いつもはすぐそばで――それこそ少し手を伸ばせば届くところで笑っていたペコを、ブラウン管越しに眺めるのはなんだか不思議な気分だった。昔から見慣れていたおかっぱ頭は既に存在せず、スポーツ選手らしく短く刈り込んだ髪からわずかに汗が飛び散るのを、僕は記録フィルムでも眺めるかのようにみつめていた。
 当時日本時間で夜の九時。現地時間で午後三時。時間の隔たりは地球という惑星の大きさを嫌というほどに実感させ、距離の莫大さに僕はめまいを覚えたものだ。
 ペコの試合が何時から始まるのかは既にチェック済みだった。僕は予定の時間に遅れないよう前もってシャワーを浴び、試合が終わったあとはいつでも寝られるようにとパジャマに着替えておいた。テーブルの上にはキンキンに冷やしておいたビール――と言いたいところだったけど、実は翌日、久し振りに学校へ行かなければいけなかったのだ。夏休み中のだらけた生活習慣が身についてしまっていた為に、油断は禁物、仕方なくキンキンに冷やした麦茶と共に、僕はペコの試合を観戦した。
 試合は一時間半ほども続いたろうか。相手はハンガリーの選手で、以前世界選手権で優勝したこともある人物だった。誰がどう見たって日本のあんなひよっこに勝てる相手じゃなかった。だけどペコはこれまでの試合を勝ち抜いてきた。それが単なる偶然だとか運が良かっただけじゃないことを、ペコは最後の最後で証明してみせた。
 バックサイドへ打ち込まれたドライブにペコはあやうくのところで追いつき、例の裏面打法で相手側のフォアサイドへと打ち返した。ハンガリーの選手はこれまたあやうくのところで追いついてラケットに球を当て――だけど、わずかながら角度が足りなかった。相手選手が打ち返した球はペコの側へと跳びながらも、台から大きくそれてそのまま床に落ちた。
 ペコは両手を天井へ向けて高く突き出した。場内は一瞬だけ落胆と驚きの声に満ち溢れた。だけど次の瞬間には割れるような歓声が場内を席巻し、アナウンサーの興奮した喋り声がやかましいほどに僕の耳へと突き刺さっていた。フェンスの向こう側から監督が飛び出してきてペコに抱きつき、ペコはやけに落ち着いた態度でその体を抱き返した。
 ペコが、てっぺんに立った瞬間だった。


 それは俺がまださらさらの髪を眉毛の上で一直線に切り揃えて、風に揺らしていた頃だった。ある時スマイルがぽつりと言った。
「故郷が出来るんだね」
 その頃俺はインターハイで二度目の個人戦優勝を成し遂げていて、とりあえず日本は制しちゃいました状態だった。勿論まだ戦ったことのない先達は大勢居たけど、俺の目はもう日本なんて狭っちい国から飛び出していた。
 故郷?
 俺が聞き返すと、スマイルはやけに寂しそうな顔でうなずいた。
「ドイツリーグ入ったら、しばらくは向こうで暮らすんだろ?」
「まぁ、そんなしょっちゅう帰ってくるわけにはいかねえよなぁ」
 飛行機代もかかるしねとスマイルが笑う。
 俺たちはその時神社に居た。ガキの頃よくここでスマイルが小突かれていた。俺はまるでスーパーマン気取りで助けに入り、お手製のお面をかぶって「悪を退治」した。もうだいぶ昔の思い出だ。
 スマイルは敷石の途中で立ち止まってじっと足元を見下ろしていた。まるで当時の自分の姿でも眺めているみたいだった。
「…でも、帰ってくるよね?」
「当たり前じゃん」
 俺はお社の前の石段に座って、敷石を見下ろすスマイルの姿を眺めていた。口にはチュッパチャップス(いや、ガリガリ君の棒だったかな?)。なんでそんなことを聞くのか理解出来なくて、思わず目を丸くした。
「あんでそんなこと聞くんすか」
 スマイルはなにも答えなかった。ただ顔を上げて、やけに寂しそうに笑うだけだった。腹立つからそれやめろよ、そう言うと、ごめんと呟いてまた敷石に目をやった。
 相変わらず横顔が寂しそうで、俺はムカムカしながら口にしていた飴だかアイスだかの棒を投げ捨てた。スマイルは音に気付いて顔を上げた。俺はじっとスマイルの顔を睨みつけ、スマイルはなにも言わないまま、そんな俺の顔を見返していた。


 海風が冷たく感じられるようになっていた。僕は最終試験を無事終わらせて、あとは結果がどう出るかを待つばかりとなっていた。
「スマイルなら平気っしょ」
 ペコはそう言って、あの笑顔でもって僕を慰めてくれた。僕もその言葉を信じたかったけれど、残念ながら教員への門は年々狭くなる一方だ。もし万が一(まぁこんな時に万が一なんておかしな言葉だけど)教師になれたとしても、ちゃんと続けられるかどうかわからない。唯一自分でみつけた自分の道である筈なのに、その頃の僕は不安のかたまりだった。
 でも仕方ないことだったと思う。まだ殆ど社会に出たことのない若造だったんだから。
「ほい」
 ペコはなんの前触れもなく、それをジーパンの後ろポケットから引っぱり出した。そんなところに入れてたのと驚くと、だって首にかけるわけにいかねえじゃんと苦笑した。でもそれは本来首にかけられるべきものだ。事実あの表彰台でペコの首にかけられる場面を、僕はブラウン管越しにじっと眺めていたのだから。
 僕は恐る恐る手を伸ばしてメダルを受け取った。最初はずっしりとした手応えにある種の感動を覚えたものの、手の上で重さを量ってみると、
「案外軽いだろ」
 案外軽かった。少し拍子抜けした。だけど、このメダルの為に人々はそれこそ血のにじむような努力をし、その日に臨む。泣き、笑い、怒り、それら渾沌の渦のなかからたった一人だけがこれを手に出来る。
 ペコが、それを成し遂げた。
 でもまだだとペコが言う。
「来年の五月だな。ホントのてっぺん取るにはさ」
 五月、世界選手権大会が二年振りに開かれる。そこで優勝してこその「トップ」だと。
「…まだてっぺんは遠い?」
 余計なことを聞いたと思った。言ってから後悔したけど、もう遅かった。ごめんと謝るのもおかしい気がして、僕はペコに声が届いていないことを願った。
「――おお」
 でもペコはちゃんと聞いていた。風にゆるく凪いだ江ノ島の海をみつめて、まだ少し遠いなとぽつりと言った。
「でも、尻尾はつかんだ」
 そう言ってこちらに振り向くと、にかりと笑った。


 俺は生まれてからずっと今の家に住んでいた。親父やお袋は実家を持ってたけど、俺はあの町しか基本的には知らなかった。確かにスマイルの言うとおりだ、故郷が出来る。
 俺の、帰るべき場所。
「お前もドイツ来るか?」
 そう言うと、スマイルは今にも笑い出しそうな顔をしてかぶりを振った。
「無理だよ」
「なんで」
「なんでって――」
 そうして、初めてスマイルは俺にしてやられた。返す言葉を失ったまま、動揺したふうにあちこちへと視線を飛ばして、結局うつむいた。
「…無理だよ」
 それだけを呟くと黙り込んだ。
「俺と一緒に英語習おうぜ」
「……」
「どーせだからドイツ語にしとくか? そうすりゃ向こうで仕事探すのも楽だろうしさ」
「……ペコ、」
「留学っつう手もあるじゃないっすか。お前頭いいんだしさ。部屋一緒に借りりゃあ家賃だって」
「ペコ」
 静かに、でもきっぱりと、スマイルが俺の言葉を遮った。俺はまだ腹が立ってたけど、とりあえず黙った。スマイルは困ったような顔をして俺を見ている。
「…卑怯だよ、そういうこと言うの」
「あんで」
 スマイルは泣きそうな顔をしていた。俺はそっぽを向いて神社を取り囲む林のあちこちに視線を散らした。俺もまた泣きそうになっていた。自分が出来もしない夢を語っていることはわかっていた。多分、腹が立つ原因はそれだ。
 俺たちは今、出来ることと出来ないことの分別がついた。もう戻ることの出来ない場所へ来ていた、それに気付くべき時だった。
 気付きたくなくて見ない振りをしていた。だけど、もう限界だ。
「…帰ってくっからさ」
 俺はなんとかそれだけを言った。林に向かって、言葉が風に乗ってスマイルの耳に届くことを祈りながら。
「それに、まだ行かねえし。っつうか、行けねえし」
 そう言うと、スマイルが小さく笑う声が聞こえた。
「テスト頑張らないとね」
「優秀な先生が居てくれっから大丈夫っしょ」
 俺たちはようやくのことで顔を見合わせて笑い合った。俺が手を伸ばすと、スマイルはゆっくりとした足取りで近付いてきた。そうして俺の両手を握って軽く唇を触れた。
 その時、思った。
 ――いつかは終わらなきゃいけないんだな。
 って。


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