戸惑ったようにこちらを見下ろし、そのまま煙草をもみ消した。
「俺と居てよ。――こんなんされてよ」
 一度、佐久間の手が頭を撫でるようにスマイルの髪を梳いた。そのまま頭に置かれた手から逃げるようにしてスマイルは体を起こし、ぼやける視界のなかで佐久間の横顔をじっとみつめた。
「…嫌じゃないから困ってるんだけど」
「困ってんのかよ」
 佐久間は苦笑しながらもこちらを見ようとはしない。
 しばらくのあいだ、部屋は沈黙に包まれた。スマイルは開きかけた口を閉じてわずかにうつむいた。髪に手が触れる感触で顔を上げ、目が合うと、とたんに佐久間の方がそらしてしまう。
「そっちこそ嫌じゃないの」
「あにが」
「あんなこと言われてさ、ケンカして学校退学させられて」
「――別に、お前が退学させたわけじゃねえだろ」
 佐久間はゆっくりと指先で髪を梳き始めた。そうして横目でうかがうようにこちらを見る。
「何年前の話だよ」
「そうだけどさ…」
 実を言うと、こんなふうにして佐久間と二人で居るのは、いささか気詰まりでもあった。
 佐久間は非常にはっきりとした行動原理を持っており、それがどういうものなのか、スマイルには昔から理解出来なかった。明らかに自分と違いすぎる価値観に基づいているせいで次の言動が全く読めず、時に恐怖すら覚えることもあった。
 ペコの考えは単純明快で、気に入らないことがあればすぐに口に出す。わかりやすく、一緒に居ても安心出来た。そばに居ない時でもすぐに探し出せた。だけど佐久間は違う。表面上は無関心を装いながら腹のなかでなにを考えているのかさっぱりわからない。佐久間にしてみれば、スマイルの方こそなにを考えているのかわからないと言うかも知れないが。
 どこかが決定的に違い、多分、どこかが似ているのだ。だから佐久間の言葉の一つ一つが気にかかり、閉じた口の奥にどんな言葉を隠しているのか知りたいと思ってしまう。
 佐久間の恋人に相談を持ちかけられた時に思ったのもそれだった。佐久間がどう答えを出すのかが知りたかった。なにをどう思い、なにを大事にし、なにをぞんざいに扱うのか――同じ年数しか生きていない筈なのに、時にひどく大人びて見えるそのわけが知りたかった。
「いい加減、忘れちまえよ」
 佐久間はそう言って酒を飲む。スマイルは佐久間の手が髪の毛を引っぱるのを阻止することもせず、ぼんやりと横顔をみつめていた。
「今更ガッコなんざ行きたかねえや。もともと勉強だって好きじゃなかったしな。大学まで行こうって奴の気が知れねえ」
 そう言って佐久間はおかしそうに笑った。つられたようにスマイルも小さく笑い、
「アクマとは違うんだよ」
「おお。違って当たり前だ。それでいいじゃねえか」
 嫉妬があり、羨望があり、憧れのようなものもどこかにあった。抱く必要のない罪悪感もまだ胸のなかに残っている。本人が気にするなと言ってくれるものを素直に受け入れられないのが何故なのか、スマイルにはわからない。
 ――わからないことだらけだ。
 そっと頭の力を抜いてスマイルは身を乗り出した。佐久間の手が一瞬止まり、やがてためらいがちに抱き寄せられた。佐久間の肩口にあごを乗せると煙草の匂いが強く香った。逃げるように顔を上げた時、メガネの奥の視線とぶつかった。
 ――なに考えてるんだろ。
 仲が悪かった筈だ。嫌われていた筈だ。少なくとも好かれてはいなかった。同じように佐久間の存在を気にしたことは今までなかった。時に恐怖を覚え、時に嫉妬も覚え、それが何故なのか、わかったことは一度もない。近付こうとすれば同じ距離だけ離れていき、いつだって牽制しあいながら、互いのテリトリーを侵さないことだけを考えていた。
 なのにこんなふうに近くに居れば、それはそれで不思議と落ち着いてしまう。髪に触れる手は心地良く、重ねられた唇の感触はひどく気持ちがいい。
 なにを考えているのかわからないのは自分も同じことだ。そうしてすっきりしない気持ちのどこかが、こんなふうにして触れてくる佐久間の唇を、もっと味わいたいとせっついてくる。


 気が付くと二人とも止まらなくなっていた。何度も口付けを交わしながらスマイルは佐久間に抱きつき、床に押し倒され、素肌に触れる指の感触に身を震わせた。
「…あに笑ってんだよ」
 怪訝そうな佐久間の呟きに、スマイルは「くすぐったいんだよ」とぶっきらぼうに答える。
 本当は、少し恥ずかしかっただけだ。
 寒さに震えながら佐久間の舌の動きに首をのけぞらせ、乱れた息の合い間に洩れる自分の悲鳴だけは聞くまいと、ただ陶酔の波に溺れている。不意に髪を掻き上げられて目を向けると、こちらをじっと見下ろしながら佐久間が唇を重ねてきた。首に抱きついてまた口付けを交わし、ようやくちゃんと見たなとスマイルは思う。
「――アクマ」
 佐久間の背中は温かい。温もりを求めるようにしがみつきながら、
「アクマ、寒い」
 知らずのうちに呟いていた。自分でも驚くほど、ひどく甘えたような声で。
 佐久間は一旦動きを止め、スマイルの体を引きずって布団に横たえると上から毛布をかぶった。
「どうせそのうち邪魔になんだけどな」
 そう言って小さく笑った。スマイルは聞かなかった振りをしてそっぽを向き、背中をさする手の感触に声を洩らす。
「電気消しなよ」
「いちいちうるせぇな」
 苛立ったような声で佐久間は言い、そっぽを向いたままのスマイルを見下ろして、ふと首をかしげた。
「…なんだよ」
 毛布をかぶっていても冷気は隙間から入り込んでくる。スマイルは無意識のうちに佐久間の腕に手をからませ、視線から逃げようと壁をじっと睨んだ。
 不意に佐久間の手が伸びてきて乱暴に頭を撫でた。
「照れたってかわいくねえぞ」
「誰が照れたよ、まぶしいんだよ」
「へいへい」
 佐久間はぞんざいに答えると立ち上がって電灯の紐を引いた。そうしてあらためて毛布のなかに入り込み、
「男相手に姫始めたぁな」
「嫌ならやめれば?」
「…今更やめられっかよ」
 そう言ってまた唇を重ねてくる。キスの合い間にスマイルは小さく笑い、腰を撫でられてふと我を忘れた。
 それこそ今更のように酔いが全身に回り始めていた。制御の効かない手で佐久間の温もりを求め、時に背筋を走る快感に甘い悲鳴を洩らす。互いにいつしか行為に没頭しており、寒さも忘れて二人は抱き合った。
 体を貫く佐久間の熱にスマイルはまた悲鳴をあげた。背中にしがみつき、慰めるような口付けを夢心地で受けた。荒々しい呼吸がどちらのものなのか既にわからなくなっていた。体がひどく熱く、快感の波に呑み込まれるのが心地良かった。何度か名前を呼ばれ、何度か呼び返した。ひどく幸せな気分で、まるで恋でもしているかのようだった。


 自転車がストッパーを外す音で佐久間は目を醒ました。
 部屋のなかは既に明るく、ありゃあ郵便局員だなと無意識のうちに考えながらメガネを探した。コタツの上に無造作に放り出してあるのをようやくみつけ、寒さに震えながら煙草と灰皿を手に布団へ戻ろうとした時、見覚えのない人間がこちらに背を向けて寝入っていることに気が付いた。
 そっと顔をのぞきこむと、見覚えがない筈はない、スマイルだった。煙草を抜き出して口にくわえながら夕べの出来事を反芻し、
「…ああ」
 思わず呟いた。
 スマイルは静かに寝入ったままむき出しになった肩へと布団を引っぱり上げ、不意に寝返りを打った。そうして胎児のように体を縮こませて、佐久間が居なくなった場所へと手を伸ばした。
 佐久間はコタツに寄りかかるようにして煙草をふかし、時計に目をやった。まもなく正午になろうとしている。
 台所で水を飲み、トイレへ行ったあと、メガネを外してまた布団にもぐりこむ。布団を占領しているスマイルの腕を持ち上げると、不意に目を開いてこちらを見た。声をかけようかどうしようか迷っているうちに目を閉じてしまう。そうして佐久間が横になると、無意識なのか抱きついてきた。
 同じように背中に腕を回して、佐久間はしばらくのあいだスマイルの後ろ頭を指で撫で続けた。髪の毛をもてあそび、息をついて目を閉じようとしたとたん、
「あ」
 外の明るさに今更のように気が付いた。
 ――初日の出、見損ねた。
「…なに」
 わずらわしそうにスマイルが呟いた。佐久間は「なんでもねえよ」と素っ気無く答え、スマイルが寝入ったことを確認してから自分も同じように目を閉じた。
 ――ま、いっか。
 どうせ見たってなにが変わるわけでもない。ともあれ新年は明け、今、腕のなかにはスマイルが居る。それだけで充分だ。
 温もりを確かめるように佐久間は顔を寄せ、そうして静かに眠りに落ちていった。


『一年の計は元旦にあり』――もしその言葉が本当だったら、いい年の始まりである筈だった。


うたかたの夢/2004.08.19


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