スマイルは白い息を吐き出しながら空を見上げた。冷え切った夜空には満天とはいかないまでも、普段見るより多くの星が輝いていた。毎年のことながら大晦日から元旦にかけて天気が悪くなったことは一度もないような気がする。
――なんでだろ。
やっぱり初詣に来るお客さんが減るのは困るからかなと、ぼんやり思いながら神社への道をたどる。途中、あまりの寒さに我慢出来ずにコーヒーを買った。通りを行く車の数は少なかったが、あちこちで誰かの話し声を聞くことが出来た。新年は既に明けている。
母親は例年の如く店で年明けを迎えると言ってうきうきしながら家を出て行った。不景気ではあるが、やっぱりこういう時には客からのご祝儀が多いのよーと嬉しそうに笑っていた。せいぜい稼いできてくださいと言って母親を送り出し、一人残されたスマイルは、特にすることもなくぼーっとテレビを見ながらその年最後の日を過ごしていた。
そうして「行く年来る年」で除夜の鐘を聞かされる頃、ふと初詣に行ってみようかと思い立った。人込みが嫌いな癖に何故そんなことを考えたのかというと、毎年元旦の昼過ぎに誘いに来てくれていた誰かが、今年はドイツへ行ってしまっているせいだった。
一人には慣れていた筈なのに、こういう時不意にその事実を突きつけられて、はからずも動揺している自分がおかしかった。
神社の参道入口が見える道路へと出た瞬間、
「……うわー」
スマイルは思わず呟いていた。
参拝客が参道に収まりきれず、道路に沿って長蛇の列を作っていた。しばらく無言でその列を眺めたあと、やれやれと首を振り、ともかくなかへ行ってみるだけ行ってみようと道路を渡った。お参りは別にいつだって構わないが、どうせ来たのだから屋台の一つや二つは冷やかしておきたかった。
人込みのあいだを縫ってのろのろと歩きながらなにを食べようかと思案する。夕飯を済ませ年越しそばまでしっかり食べたあとだけあって、あまり食欲は湧かなかった。それでもソースの匂いにつられてたこ焼きを一皿だけ買った。
ビニール袋を提げて参道を外れながら、どこか足を止められる場所はないかと辺りを見回す。薄暗い境内には幾つもの提灯が灯り、灯籠にも火が入っていた。奥の広場では古いお守りなどを焚き上げている。
人の少ない境内の外れを目指して歩くうちに、社務所らしき建物のそばにある灯籠に目がいった。あそこなら腰がおろせそうだ。誰かが既に腰をおろして携帯をかけているようではあったが、他に目立った人込みもない。敷石を踏みしめながら先客が座る真裏に回り、やれやれとため息をついた時、不意に先客の話し声が耳に飛び込んできた。
「…おお。――わぁってるよ、しつけえな」
おろしかけた腰を再び上げて、スマイルはそっと顔をのぞかせる。
「おぉ、お前もな。…あいよ。じゃあな」
電話の最後の方で先客も人の気配に気付き、顔を上げてこちらを見た。黒縁メガネと視線が合い、
「…こんばんは」
スマイルは呟いた。
「…明けまして」
電話をしまい込みながら、佐久間が呟き返した。
二年参りをしてみようかと佐久間が思い立ったのは、紅白歌合戦の軍配がどちらに上がったのかまだわからない頃だった。
いつもだったら恋人と前もって約束をして元旦の午後辺りに出かけるので、明けてすぐの神社へはここ数年訪れていなかった。何故今年に限ってそんなことをしようと思ったのかといえば、話は簡単、今年は恋人が両親と共に実家へ帰ってしまって居ないせいだ。
神社へたどり着いた時はまだ大晦日のうちで、とりあえずその年最後のお参りをした。そうして年明けを待とうと近くをぶらついて引き返してくると、既に長蛇の列が出来上がっていた。ほんの二十分ほどのあいだの出来事だった。
参道をはみ出して続く参拝客の列を茫然と眺めたあと、初詣はとりあえずあきらめることにした。そうしておみくじだけでも引いてこようと境内へ入ると、焚き上げをしているそばで振舞い酒が出されているのをみつけた。一杯分けてもらい、灯籠に寄りかかってちびちびと酒を飲んでいると携帯が鳴った。恋人からだった。
恋人とはあのあと結局仲直りをし、相変わらず惰性のような付き合いが続いていた。未だに口ゲンカの回数は減らなかったが、さすがに第三者を引っ張り出してくるような事態へ進展させることはなくなっていた。――というよりも、またスマイルにあいだを取り持たれるようなことになってはたまらないと、佐久間の方が自重している感じだった。
それでもイベント好きな恋人が佐久間の重い腰を引っぱり上げてくれるので、それなりに楽しい時間を過ごすことが出来ていた。先が見えないのは今も昔も同じことで、結局スマイルには迷惑だけかけたということになってしまった。
一応礼を言っておこうと思ってはいたが、年明け早々、まさか本人と顔を合わせることになるとは思いもしなかった。
「…お前、酒もらってきた?」
灯籠に並んで腰をおろしながら佐久間が聞いた。
「お酒?」
「あっちの、お焚き上げしてる方で酒配ってんだよ。ちっともらってこいや、二人分」
「もう飲んでるじゃん」
「ただ酒ならいくらでも入るんです」
そう言って佐久間はスマイルを送り出し、目の前に広げられたたこ焼きを口のなかに放り込んだ。
境内のあちこちでにぎやかな笑い声が起こり、新年の浮かれた空気が辺り一帯を包み込んでいた。じっとしていると爪先から冷気が込み上げてきたが、酒の酔いが少しだけ温もりを与えてくれていた。
やがて戻ってきたスマイルと入れ替わりに佐久間は立ち上がり、屋台でヤキソバを買い込んだ。参拝客の列はさっきよりも長くなっていた。
「こりゃあ、今日は無理かな」
「なにが?」
スマイルは酒を口に運びながら、興味なさそうに聞き返す。
「なにがってお前、元旦に神社来て、やるこた一つだろ」
「ああ。お金投げることね」
「…お参りしないんすか」
「そのつもりで来たんだけどなぁ」
スマイルは屋台の隙間から見える人の波に視線を投げ、うんざりしたように首を振った。
「こんなに混んでるとは思わなかった」
「俺もだ。いっつも昼過ぎに来てたからな」
煙草を取り出しながら佐久間は言い、つられたようにため息をついた。
「そうだ。――はい」
スマイルは不意に呟くと、佐久間に向かって手のひらを差し出した。
「……んだよ、その手は」
「お年玉くださいな」
「バカ野郎、ダチにたかってんじゃねえや」
佐久間は手のひらを叩き返して煙を吐き出す。スマイルは小さく笑いながら紙コップを拾い、口へと運んだ。
「その後、どうですか」
「あにが」
「彼女とさ。――上手くやってるの?」
「…まあな」
「そう」
腰かけた灯籠の冷たさに我慢出来なくなり、佐久間は不意に立ち上がった。そうして首を回しながら煙草の灰を叩き落し、風に乗って漂ってくるお焚き上げの煙に小さく眉をひそめた。
「お蔭さんで、まあ上手いことやってますよ」
「そのわりに一緒じゃないんだね」
「今日はな。お袋さんの実家に行ってら。――っつうか、電話してねえのかよ、あいつ」
一応礼は言っておけと伝えた筈なのだが。
スマイルはしばらくなにかを考え込むようにじっと闇をみつめ、ぽつりと「もらったよ」と呟いた。
「すごい喜んでた」
「…知ってんなら、わざわざ聞くなよ」
「そうだね」
そう言ってスマイルは酒を飲む。
佐久間は立ったまま煙草を吸い尽くし、足元に落としてもみ消した。そうして上着のポケットに両手を突っ込むと再び灯籠に腰かける。
「さみぃな」
「冬ですから」
「…お前さ、新年だから目標立てろ」
「どんな?」
「『今年は愛想良くなる』って、でけぇ紙に書いて壁に貼っとけ」
「じゃあアクマは『今年はやさしくなる』だね」
「俺ぁいつだってやさしいですよ」
「………ふうん」
「…んだよ、その間は」
「別に」
小さく笑いながらスマイルは紙コップを差し出し、佐久間が新しく飲み始めた酒をねだった。