めまいがしそうなほど、暑い日のことだった。

 朝方、母親が帰ってくる時に、誰かの話し声が聞こえた。店の客でも連れてきたのかと思ったがそういうわけではなかったらしい。ありがとうね、そう呟く母親の声を、スマイルは夢うつつのうちに聞いていた。
 その日は明け方から妙に蒸し暑いおかしな日で、前の晩からずうっと、眠っているのだかいないのだか、自分でも良くわからないような夜だった。夏休み中だというのに七時にベッドを抜け出してシャワーで汗を流したあと、スマイルはようやくそれに気が付いた。
 台所に、大きなダンボールの箱が置いてある。しかも三つ。ふたが開いていたので、麦茶を飲みながらなんだろうと思って開けてみると、大きなスイカがこれでもかというほど詰まっていた。
「お客にもらったのよ」
 昼過ぎに目を醒ました母親が、同じように暑さにうだりながらそう言った。
「あんなにもらってどうするの」
「食べればいいでしょ」
 なにを当たり前のことをと、母親はすげなく言い放つ。
「じゃあこれから毎日、お昼はスイカだね」
「食べ終わる前に夏が終わらなければいいけどね」
 さすがにそれはないだろうと思ったが、それ以前に腐らせてしまうことの方が心配だった。仕方ないので二人で手分けして幾つかもらってもらうことにした。母親は近所の友達に何個か配り、スマイルはペコとオババのところへと持っていった。
 オババは、
「持ってきたついでにうちまで運んでくれ」
 そう言って自宅まで運ばせた。さすがに還暦を過ぎた老人に丸ごとのスイカを持たせるのは忍びない。あとで小泉先生のところへ一つ持っていこうと思いながら、スマイルはペコのうちへ行った。
 ペコはもう居ない。春先にドイツへ行ってしまった。
 ペコの母親が出てきて、驚いたようにスイカを受け取ってくれた。礼を言われたが、そんな義理はこれっぽっちもないんだよなと、スマイルはふと思う。むしろ礼を言うのはこっちの方だ。そう思いながら、ペコの母親が出してくれたジュースを玄関先で飲んだ。
 少しペコの話をした。間もなくブンデスリーガのツアーが始まるらしく、いよいよ本番開始だと意気込んでいたそうである。相変わらず元気なようで、スマイルは少し安心する。
 帰り際、不意に思い出したようにペコの母親が両手を打った。
「そうそう、そういえばね――」
 ひどく久し振りに、その名前を聞いた。


 込み入った道をうろうろと歩きながら、やっぱりやめておけば良かったかなとスマイルは少し後悔した。
 一応自宅で周辺の地図は大まかに頭に入れてきたから迷うことはないと思うが、こんなうだるような暑い日に、こんな重い荷物を持って歩き回るのはどう考えてもおかしい。そうは思いながらも、今更帰るわけにもいかない。仕方なくスマイルは、電信柱に貼られた住所と手のなかの紙に書かれた住所を照らし合わせながら、またうろうろと道を行く。
 道路を焦がす太陽の光が痛いほどだ。うつむくようにして足元に視線を落とし、自分の前を歩く影をみつめながら、スマイルは目的地へと向かった。
 案外迷わずにたどり着けた。モルタル造りの二階建てのアパート。その一階の一番手前の部屋。作り付けの表札に名前はないが、郵便受けで確認すると、きちんと名字が書いてあった。
『佐久間』
 階段が作る日陰で一息つきながら、これでアクマが居なかったらどうしようと、スマイルは今更のように心配した。
 考えてみればバカげた話だ。在宅をきちんと電話で確認すれば済む話なのに、それをしなかったのは、多分前もって自分が訪ねることを知られて警戒されたくなかった為だろう。
 ――警戒?
 流れ落ちる汗を腕でぬぐいながらスマイルはぼんやりと考える。
 なにが警戒なんだろう。別におかしな話でもない筈だ。幼馴染みのうちにスイカを差し入れで持っていく。どこにもおかしいことは、ない。
 スマイルは小さく息をつくと佐久間の部屋の前に立った。そうして呼び鈴を鳴らす。…出ない。もう一度鳴らす。
「――はい?」
 かったるそうな声が聞こえて扉が開いた。膝までの長さのズボンだけ身につけた、坊主頭の、黒縁メガネの懐かしい顔がそこにあった。
「こんにちは」
「…んだよ、テメーか」
 気だるそうに佐久間は胸を掻き、扉に寄りかかるようにしてあくびを洩らす。
「なんの用だよ」
「差し入れ」
「ああ?」
 佐久間は今更のようにスマイルの持つスイカに目をやった。
「母さんが店のお客から山ほどもらってきたんだ。二人じゃ食べ切れないから、あちこちに配ってる。良かったら食べてよ」
「……」
 しばらくのあいだ黙ったままスイカをみつめていたが、やがて佐久間は顔を上げてあごをしゃくり、
「入れよ」
 そう呟いた。
 狭い台所があり、先に部屋へと足を踏み入れた佐久間は「そこ、適当に置けや」と言う。急に暗いなかへ入ったせいで視界がきかない。スマイルはしばらくのあいだ台所に立ち尽くして、壁に手をつきながらそっと息をつく。そうして床にスイカを置き、一間きりの部屋を眺めた。
 敷きっぱなしのふとんと小さなテーブル、それと扇風機があるだけの、閑散とした部屋だった。
「寝てたの?」
 部屋に入り込みながらスマイルは聞いた。
「おお。暑くてなんもする気になれねえ」
 首の後ろを揉むようにしながら、佐久間は脱ぎ散らかした服を部屋の隅に放る。そうして台所へ行き、グラスと緑茶のペットボトルを持って戻ってきた。
「…あんで、うちがわかったんだよ」
 グラスに緑茶を注ぎながらぽつりと聞いた。
「ペコのお母さんが教えてくれた。ずっと前に引越しの知らせのハガキが届いたって――」
「ふん」
 つまらなさそうに鼻を鳴らして佐久間は扇風機の首を振らせる。そうしてふとんの上に座り、窓の外を眺めた。
 扇風機の風は部屋のなかの生ぬるい空気を掻き回す。スマイルはテーブルについてグラスの緑茶を飲み、ふう、と息を吐いた。
「また坊主にしたんだ」
「わりいかよ。楽でいいんだよ」
 グラスの中身を半分ほど飲み干して佐久間は、そういうテメーは相変わらずうっとおしい髪型しやがって、とぼそりと呟いた。
「一人で暮らしてるんだね」
「おお」
 佐久間は煙草に手を伸ばし、火をつけて吸い込んだ。
「学校辞めた時からな。家、おん出されたんだよ。ただ飯食わせる余裕はねえっつってな」
「…そっか、働いてるんだ」
 今更のように呟くと、佐久間はいささか不機嫌そうにスマイルを睨みつける。そうして、
「誰のせいで辞めたと思ってんだ」
 また、ぼそりと呟いた。
 スマイルは返す言葉を失ってふと視線をそらせる。
 煙草の煙を吐き出して、佐久間は「けっ」と吐き捨てた。
「もっと前に来てりゃあな。落とし前つけろっつって殴りかかりでもしたんだろうがよ」
 そう言ってごろりとふとんに横になった。
「今更そんな気も起きやしねえ。まいんち、バカみてえに汗水垂らして働いてっとよ。むしろこっちの方が気楽でいいや」
 くわえ煙草で佐久間は笑う。
「今日は?」
「あん?」
「仕事」
「――お前、世間には日曜日ってえもんがあるのを知らねえのか」
 ふと考え込んで、そうか今日は日曜日かと、今更のようにスマイルは壁のカレンダーを見る。毎日、することもなくうちでボーっとしていると、曜日感覚が簡単になくなってしまう。「知らねえで来たのかよ」と佐久間は笑い、
「俺が居なかったらどうするつもりだったんだ」
「……」
 頭がぼーっとする。
 扇風機が送る風は生ぬるく、まとわりつくような熱気が、思考を強制的に奪い去ってゆく。
「お前、大学行ってんのか」
 煙草の灰を叩き落して佐久間が聞いた。
「うん。今夏休み」
「いいねえ、学生さんはお気楽で」
「明日、また仕事だ」
「おお。暇ならうちでバイトしねえか。ちょうど今、募集してんだ」
 冗談とも本気ともつかない口調で佐久間が言った。スマイルは返事をしあぐねて、ふと首をかしげる。
「…退学になるなんて思わなかった」
「…俺もな」
 呟いて佐久間は体を起こし、灰皿に煙草を押し付けてもみ消した。そうしてテーブルの上のグラスをつかんだ。
「まあ部活はクビになるだろうと思ってたけどよ」
「そうなんだ」
「海王は無断の対外試合を禁止してっからな。負けりゃあソッコーで退部よ。…ま、別に後悔しちゃいねえさ。やるだけやって駄目だったんだ。そのあとのケンカはおまけみたいなもんだったけど」
「……」
「お前殴ったところで、もっとむなしくなるだけだしな」
 グラスの中身を飲み干して佐久間はまた煙草に火をつける。ゆるやかな風に乗って煙が窓の外へと流れてゆくのを、スマイルはぼんやりと眺めていた。


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