やがて風間がトイレに立つと、ようやく佐久間は「お兄さん」とスマイルに声をかけた。
「なに?」
「…なんすか、これ」
そう言って佐久間は取られたままの指をひょこひょこと動かした。
「んー、愛情表現」
思わず飲みかけのビールを吹き出しそうになった。スマイルはくすくすと笑って「冗談だよ」と言う。
「いいじゃん。ちょっとこうしててよ」
「……すっげー恥ずいんすけど」
「言わなきゃばれないって」
「そういう問題じゃねえだろうがよぉ」
だがスマイルはまた素知らぬ顔に戻ってビールに手を伸ばし、素手で唐揚げをつまみ上げている。佐久間は再び言葉を失い、吸いかけの煙草を拾い上げた。
「お前って時々、わけわかんねぇ」
スマイルは苦笑するだけだ。佐久間は肩をすくめてそっぽを向き、煙草の煙を吐き出した。
「そうだ、遅くなったけど、試験合格おめでとうございます」
不意にスマイルがそう言いながらジョッキをぶつけてきた。佐久間は煙草をもみ消しながら「あー、どうも」と言葉を返す。
「勉強頑張った甲斐があったね」
「まあなぁ。これでやっと肩の荷がおりましたよ」
会社の命令で危険物取扱者試験を受けたのが十一月の半ば、合否の通知を受け取ったのはその三日後だ。
試験を受けろと言われた時からストレスで腹を下すことが増え、正直試験を終わらせるまではひどく気の重い日々を過ごしていた。真面目に勉強をすることなど本当に久し振りだったから最初はなかなか頭が働かず、半分以上捨て鉢で試験を受けたのだが、どういう幸運か合格してしまった。
最初に通知を見た時は我が目を疑った。だが書状の指示に従って免許を交付してもらうと、さすがに実感が湧いてきて、やるじゃん俺、と思わず呟いた。免許は今、財布のなかにしまってある。
「ただよぉ――」
「なに?」
佐久間は開きかけた口を閉じてしばらく考え込んだ。そうして、なんでもね、と呟いてビールを飲む。スマイルはとぼけたような顔でこちらを見ていたが、やがて肩をすくめると同じようにビールを飲み、不意に立ち上がった。
「トイレ行ってくる」
入れ代わりに風間が戻ってくる。そうしてあらためて向かい合うと、それまであいだにスマイルが居てくれたお陰で緩和されていた緊張感が今更のように襲いかかってきた。佐久間はごまかすように煙草へと手を伸ばし、「風間さんって、今大学でしたっけ?」と聞いた。
「ああ。来年の三月に卒業だ」
「そのあとは――」
「実業団一本だな。今も練習には参加させてもらっている」
有り難いことだよと風間は呟き、ジョッキの底に残っていたビールを飲み干した。
「君は働いているのだったか」
「はい。学校辞めて、そのあとバイトで働き始めまして」
社員として採用されたのは一年近く経ってからのことだった。最初はこんなに長く一箇所で働くつもりもなかったのだが、いつの間にか五年近くも過ぎてしまった。五年、と一口に考えると長い気もするが、過ぎてしまえばあっという間だ。
「そんなになるのか」
「高一で退学しましたから」
佐久間は苦笑するように煙を吐き出して、通りかかった店員にビールを頼んだ。
多少の戸惑いはありながらも、徐々に緊張はほぐれていった。当時部に居た人間の消息を色々と教えてもらううちに、本当に五年もの歳月が流れたのだということを佐久間は実感した。一番大きかったのは、もうこの男を恐れる必要はないのだ、ということだった。
共に同じ場所を目指していた当時は風間に対して強い憧れと尊敬、そして畏怖があった。今はそれら全てを過去のものとして眺めることが出来る。それは寂しくもあるが目を背けたいほど辛いことでもなかった。自分はそこを越えてきたのだと事実として認識するだけだ。
思い出は心の底に隠れていて、普段はどこかに見失っている。だけどこんなふうに偶然の再会があれば静かに息づき、確かにそれがあったのだとやさしく教えてくれる。
スマイルが戻ってきた。当然のようにまた指をつながれた。
二時間ほどもそんなふうにして飲んだだろうか。やがて三人は店を出て、小田急線だと言う風間と別れた。別れ際、頑張ってくださいという言葉を佐久間は投げかけた。自分でも驚くほど自然にその言葉が口に出ていた。
「ありがとう」
また、というスマイルの言葉に笑って手を振る風間を見送り、佐久間はふう、とため息をついた。
「帰りますか」
「あ、ねえ――」
江ノ電の駅へと向かう途中、ロータリーに並ぶバス停の看板を見上げてスマイルが上着を引っぱってきた。
「バス乗って帰ろうよ。これ、アクマのアパートの方行くんじゃない?」
「あー?」
言われて看板をのぞき込む。確かに停留所として名前の上がっている一箇所がアパートの近所だった。時刻表を見ると十分後に出発となっている。どのみち電車で帰るとしても同じほど待つことになるのだから、たまにはいいかと佐久間はガードレールに腰をおろした。隣にスマイルも並んで腰をおろしてくる。
「いつ風間さんに会ったんだよ」
「一月に駅でばったり。久し振りだからってちょっと飲みに行ったんだ」
「へえ」
一月といえば、まだスマイルとの関係がギクシャクしていた頃だ。下手に話を振ると気まずくなりそうな気がしたので佐久間はそのまま口を閉じた。
五分も待たないうちにバスはやって来た。スマイルが後ろへ行こうと言うので、最後尾の長いソファー状の座席に腰をおろし、佐久間は身をくつろげた。ふと横を見ると、スマイルはなんとなく締まりのない顔でバスのなかを見回している。
「お前、酒弱くなったんじゃねえ?」
「そう?」
ぽかんとした表情で見返されて、佐久間は思わず苦笑した。そうして窓の外へと視線を投げながら、あとどれだけこんなふうにして一緒に過ごせるのかとぼんやり考えた。
転勤の可能性が出てきたと上司に教えられたのはつい三日前のことだった。全国に点在する関連工場への出向人員を選出するよう上層部から命令が下ったのだという。俺みてぇな若造が行ったってなにも出来ませんよと言ってはみたのだが、
「でもお前、試験受かっただろ?」
直属の上司である北原は書類からちらりと目を上げてそう返してきた。
「…試験受けさせたのって、その為っすか」
「まあ、半分はな」
初めから意図していたわけではなかったが、結果的にそうなってしまったと北原は言った。
「まだ決まったわけじゃないけどな。確かにお前は若いけど勤務歴はそれなりに長いし、独身で身軽だから可能性は高いわけさ」
それでも三年ほどで戻ってこられると言われ、最初に思い浮かんだのはやはり恋人のことだった。結婚しているわけではないから連れていくわけにはいかないし、かといって三年も――下手をすれば九州の工場へ異動させられる――離れていて大丈夫なのかと心配になった。そうして、ややあってからスマイルの存在を思い出して、佐久間はそれ以上なにも言えずにただ苦笑を洩らした。
自分の身勝手さをあらためて思い知らされた気分だった。
正式な辞令が下るのは二月頃だという。その前にわかればこっそり教えてやると北原は言ってくれたが、会社の命令とあれば逆らうわけにもいかない。嫌なら辞めるしかないのだ。もし本当に異動となればどうするのか――それは、自分でもまだわからない。
「今日はおとなしいね」
不意にスマイルに声をかけられて佐久間は振り向いた。
「風間さんに会って緊張した?」
「…まあな。ま、先輩の前でバカ騒ぎするわけにもいかねぇしよ」
「そっか」
スマイルが肩をすくめた時、バスの扉が閉まってロータリーを発車した。乗客は自分たちを入れても十人にも満たない。佐久間は足場の狭いなかで座席に腰かけ直し、黒縁メガネをずり上げる。その時「ねえ」とまたスマイルに声をかけられ、
「あんだよ」
上着の襟を引っぱりながら聞き返した。
「このままどっか行こうか」
「どっかって?」
「どっか。――心中しに」
スマイルはまっすぐ前を向いている。佐久間がみつめてもちらりともこちらを見ようとしない。真剣な表情ではないが、笑ってもいないその横顔に、佐久間はなんとなく気おくれを感じた。
『今度一緒に心中すっか』
「……バカ言ってんじゃねぇや」
自分の方から言い出した言葉ではあったが、あらためて人の口から聞くと、これほどまでに威力のあるものだとは思いもしなかった。それ以上なんと言えばいいのかわからなくて、佐久間はごまかすように窓の外へと視線を投げた。ややあってから「そうだね」とスマイルが苦笑するのが聞こえ、そうして振り返ると、どことなく沈んだような顔でうつむいていた。
互いになにも言葉を口に出来ないまま、時折気まずい視線だけが交わされた。佐久間は自分たちを取り巻く重い空気を払うように大きく息をつき、不意にスマイルの手を取ってぎゅうと握りしめた。指を組み合わせながらまた窓の外へと向くと、スマイルがかすかに笑う声が聞こえた。
バスは通りを走り抜けてゆく。暗がりを照らす街灯の明かりがやけにまぶしく見えて佐久間は目を伏せた。そうしてもしこのまま眠りに落ちて、目が醒めた時に知らない土地に居たとしたら、俺はどうするだろうかとぼんやり考えた。
おぼろのとき/2005.06.30