連絡をもらったのは待ち合わせの時間を二十分近く過ぎてからだった。人手が足りなくてどうしても仕事を上がれないと言う。それなら仕方あるまいと言って風間は電話を切った。またあとで電話する、その言葉への返事を落ち着いて聞く余裕すらなさそうだった。
 ともかく予定はなくなり、晩飯は一人で食べることになった。それなら別に藤沢でなくてもいいなと思って改札口へ歩き出した時、不意に目の前に誰かが邪魔をするように立ちはだかった。
「――やっぱり風間さんだ」
「月本」
 風間はその邂逅に驚いて目を見開き、歩き出そうとした足をピタリと止めた。
「お久し振りです」
「驚きだな、まさか君に会うとは」
「僕もですよ」
 メガネの奥で目が楽しそうに笑っていた。一年近くも前に会った時、ひどく辛そうな顔をしていたことを思い出して、その対比に風間は安堵した。
「今帰りか?」
「いえ、ちょっと買い物に――」
 そう言いながらスマイルは背後へ振り返り、ほら、と手を振った。のそりと背の高い男が近付いてきて風間のそばで立ち止まると、ぺこりと頭を下げた。
「…こんばんは」
 黒縁メガネの奥で、つり上がった目が気おくれしている。


 まだ時間が早いせいか店は空いていた。奥のテーブル席に案内されて三人はそれぞれ腰をおろし、とりあえずビールを注文した。
「君たち二人が一緒というのも珍しい組み合わせだな」
 風間にそう言われ、スマイルはおしぼりで手を拭きながら思わず佐久間と顔を見合わせた。そうして、確かにそうかもと小さく吹き出した。
「でも付き合い自体は長いですからね。もう十年? もっと昔?」
「もっと前だろ。――やだねぇ、腐れ縁ってのは」
「こっちの台詞だよ」
 佐久間の腕を殴りつけ、スマイルはテーブルに広げられたメニューへと視線を落とした。向かいの席で風間が楽しそうに笑っている。
「風間さんは、今日は――」
「ああ、連れと待ち合わせをしていたのだがな」
 予定が狂って会えなくなり、ちょうど帰ろうとしていたところだと言う。
「なんだか僕が風間さんに会う時って、いっつも約束すっぽかされてませんか?」
「別にすっぽかされたわけではないぞ」
 風間は苦笑しながらそう返し、丁寧におしぼりをたたんでテーブルに置いた。
「なんだよ、前も会ったことあんのか?」
「え? あ、うん。一年ぐらい前に――」
 言いながらスマイルは風間と目を見合わせ、言葉が続けられなくて互いに小さく笑いあった。佐久間一人だけが事情を知らず、怪訝そうにこちらをみつめてくる。
「あんだよ」
「なんでもないよ。アクマには関係ないこと」
「こちらの事情だ」
「そうそう」
「…なんか、やな感じっすね」
 スマイルはくすくすと笑いを洩らしながら運ばれてきたビールジョッキを佐久間の目の前へと押し遣った。店員に注文を済ませたのちに三人はジョッキを合わせ、乾杯をする。
「風間さん、来月の全日本には出場されるんですよね」
 スマイルがそう聞くと、風間はビールを飲みながらうなずいた。
「個人戦で優勝出来れば、夏の世界選手権への出場権利がもらえるからな。なんとか狙っていきたいとは思っているが」
「大丈夫でしょう、風間さんなら」
「そう簡単に言ってくれるな」
 風間は苦笑し、肩をすくめた。
「思い上がっていたわけではないが、やはり世界は広いな。先達のプレーには歴史とプライドの重みがあるし、高校生には星野のような思い切りの良さがある。下手に意地ばかり張っていると、簡単に置いていかれる」
 難しいものだと言って風間は笑う。スマイルはなにも答えられずにただ首をすくめた。
「そういえば、まだ星野とは連絡を取っているのか?」
「たまに電話もらいますよ。先月一度電話かかってきて、『寒くてたまんねぇ』なんて言ってましたけど」
「元気そうだったか」
「相変わらずですね」
 不意に佐久間が「便所」と言って立ち上がった。壁際に座っていた佐久間を通す為にスマイルは一度席を離れ、佐久間の姿が通路を曲がって見えなくなると、「あの時はすいませんでした」と小声で謝った。
「ホントは一度電話入れてちゃんと謝ろうと思ってたんですけど」
「構わんさ。別に迷惑をかけられたわけでもないし」
 風間はそう言って笑った。そうだったかなとスマイルは考え込むが、下手に話を蒸し返しても墓穴を掘るだけのような気がしたので、「すいません」とだけまた呟いた。
『大丈夫だよ。――なんとかなるさ』
 一年前の今頃は佐久間との関係がひどい状態にあった。なにもかもがどうでもよく思えて、かなりやけっぱちになっていた。風間と会ったことが直接問題の解決につながることはなかったが、それでも、少しだけ気が楽になったのは確かだ。
「それで、問題の方はなんとかなったのか?」
「まあ…半分ほどは」
 そう言ってスマイルは肩をすくめた。
「先が見えないのは今も同じですけど」
「それは仕方がなかろう。誰だって明日のことなどわからんしな」
「そうですね」
 スマイルも苦笑するように笑い返した。その時店員が料理を運んできたので二人は口を閉じた。取り皿を受け取り、「なにも出来んがな」という風間の言葉に顔を上げる。
「愚痴が言いたければいつでも電話してくるといい。そのつもりで番号を置いていっただけだ」
「…ありがとうございます」
 ――そんなふうになごやかに会話をするスマイルと風間という組み合わせが、佐久間にはどうしても不思議に思えて仕方がない。
 トイレで用足しをしているあいだ、ずっとどんな経緯でどこでどう出くわしたのかとか、二人で一緒に居てどんな話をするのかとか考えてはみたが、どうも上手く想像が出来なかった。自分がスマイルと一緒に居る以上に接点のない組み合わせだ。まさかまだ卓球関係で引っぱろうとしているのかと考えた時、自分がひどく嫉妬していることに気が付いて佐久間は一人で赤面した。
 ――んだよ、ったくよぉ。
 もうそんな子供じみたしがらみは捨て去ったと思っていたのに。
 やれやれと首を振って手を洗い、佐久間はトイレを出た。テーブルに戻ると二人はインターハイの話題で盛り上がっていた。
「海王も、なかなかあとが続いてくれないようだな」
 席に腰かけると風間がそう話題を振ってきた。佐久間は苦笑して、「風間さんの代が凄すぎたんすよ」と返した。
「予選は抜けても、全国じゃ通用しなくなってきてる感じっすよね」
「そうだな。監督も頑張ってはいるようだが、なかなか大変だと言って笑っていた」
「会ったんですか?」
「秋の地区大会を見学に行ったんだ。その時にな」
 元気だったよという風間の言葉にうなずき返して佐久間は煙草を拾う。
 卓球部の監督には世話になりっぱなしで学校を辞めてしまったから、機会があれば一度会いたいと思っていた。一年にも満たない短い高校生活だったが、そのあいだに得たものはとても大きく、やはり完全には捨てられない。
 不意にスマイルが指をつついてきた。なんだと思って振り返るが、本人は素知らぬ顔でビールを飲んでいる。気のせいかと煙草の煙を吐き出した瞬間、するりと指が一本絡んできた。佐久間は左手の薬指をスマイルに取られる格好になった。
 なにやってんだこいつ、と佐久間はしばらく言葉を失った。スマイルは箸を使う時だけ指を離して、使い終わるとまた指を絡ませてきた。表面上は何事もないかのように風間と話をしているが、その間二人の手はつながったままだ。


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