枕に頭を乗せたままスマイルは床に寝そべっている。素直に布団に入ればいいと自分でも思うのだが、今布団に横になったらそのまま眠り込んでしまうのは確実だった。畳のやわらかな感触をシャツの下に味わい、軽く握り合わせた佐久間の指を意味もなくもてあそんでいる。
「それ、会社の書類?」
テーブルについた佐久間の顔を見上げながらスマイルは聞いた。
「そ。仕事とはあんま関係ねーんだけど」
そう答えると佐久間はボールペンを置いて煙草に手を伸ばした。片手をスマイルに取られている為に、一度に一つのことしか出来ないらしい。
煙を吐き出す佐久間の横顔を見ながら、
――ちょっと違うなあ。
スマイルはぼんやりとそんなことを考えている。
佐久間は時折なにかを考え込むような顔をする。どうしたのと聞くと、自分でも気付いていないらしく、「あにが?」と怪訝そうに聞き返されてしまう。そんな時スマイルはいつも笑ってごまかすのだが、深く追究出来ないのは、多分怖いぐらいに佐久間が真剣な顔をしているせいだ。
なにか問題を抱えている時に見せるしかめっ面でもなく、どうやってこちらの揚げ足を取ろうかと算段する時の顔でもない。ただなにかを直視し、そのことについて考えている。
覚悟、を決めている。
なんとなく考えていることはわかるような気もした。だから余計に聞くのが怖かった。
「風呂でも入ってこいよ」
煙草の灰を叩き落としながら佐久間がこちらに振り向いた。
「暇でしょうに」
「暇だけど」
佐久間の手を強く握り、ぎゅうと握り返され、そのままスマイルは手を引いて軽く唇を触れた。
「なんすか」
「……なんでもない。お風呂入ってくる。タオル借りるね」
手を放してスマイルは立ち上がった。
佐久間は湯気で曇ってしまったメガネをタオルで拭き、冷蔵庫からポカリスエットのペットボトルを取り出した。
「あー、僕も一口」
「あいよ」
食器カゴからグラスを二つ拾い出して部屋へと戻る。スマイルは布団に寝転がりながら漫画雑誌を読んでいた。その脇に座り込み、二つのグラスにジュースを注いで片一方を渡してやる。スマイルは身をもたげてグラスを受け取り、口を付けながら雑誌を閉じた。
「明日も七時起き?」
「そっすよ。いつも通り」
「時間が半端だな。どうしよう」
三年生になってだいぶ授業の数が減ったそうだ。一日に一つしか授業のない日もあって、時間のやりくりが難しいらしい。
「お前、俺の代わりに仕事行け。あの書類の山片付けてください」
「やだよ、なに言ってんの」
くすくす笑いながらスマイルは立ち上がり、あぐらをかいた佐久間の足を抱え込むようにして目の前に腰をおろしてきた。
「…あに、この体勢」
「なにが?」
すぐ目の前にスマイルの顔がある。互いにジュースを飲む時は少し背を反らせないとグラスがぶつかってしまいそうだ。
「なんか、襲われそうで怖いんすけど」
「バカ」
スマイルは苦笑してグラスをテーブルに置いた。顔が近付いてくるのを佐久間はぼんやりと眺め、軽く唇を触れる。そのまま何度かキスを交わし、唇が離れていくのを見守った。スマイルはわずかにうつむいて佐久間の空いている方の手を握る。そうしてそっと肩にもたれかかってきた。
嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが鼻についた。恋人が自分用に買って置いてある女物のシャンプーだ。佐久間は何故か突然罪悪感に見舞われ、恐れをなしたようにスマイルの顔を見た。
――まただ。
あの顔をしている。
「…なに?」
視線に気付いてスマイルが顔を上げた。佐久間はなにか返事をしようとして言葉がみつからず、
「なんでもね」
ごまかすように唇を重ねた。
時折スマイルの顔に怯えの色が見えることがある。そんな時スマイルは、いつも自分の内にじっと耳をかたむけて、かすかなささやきを聞き取ろうと耳を澄ましている。それがどんな音なのか佐久間には勿論聞こえない。そこからなにを選びどこへ向かうのか、干渉することも出来ない。
ただ出来るのは、じっと横顔を眺めることだけだ。
佐久間は一旦唇を離してグラスをテーブルに置いた。そうしてスマイルの手を握り返し、もう片方の手で背中を抱き寄せると唇を重ね直した。舌を絡ませ、かすかに抗議するようなスマイルの声を聞き、冷たい指先が首筋に触れるのを感じている。
顔の位置をずらせると互いのメガネがぶつかりあった。二人は顔をしかめて唇を離すと、互いの秘密を確認し合うかのように小さく笑った。
「メガネ」
「はいはい」
命令するように言ってスマイルがあごを上げた。佐久間はうやうやしい手付きでスマイルの顔からメガネを外し、テーブルに置いた。
「あと、電気」
「……はいはい」
「『はい』は一回」
「はいよっ」
佐久間はスマイルの手を握ったまま立ち上がって電灯の紐を引いた。オレンジ色の淡い光のなかでスマイルのくすくす笑う声が響いている。佐久間もメガネを外すとテーブルに並べて置き、手を引いて布団の上に座り直した。
「なんだよ、その反抗的な態度は」
「お前はガッコの先生かおかんかっつうの」
「だって気になるんだもん」
まだ笑いながらスマイルが首に抱きついてきた。手を放して互いに抱き合い、唇を重ねた。舌を絡ませ、熱を存分に味わい、息を交わす。スマイルは小さな声を洩らして、時に逃げるように身を引いてしまう。唇を離してうかがうように顔をのぞきこむと、あの怯えの色をちらつかせながらもかすかに笑い、またキスをねだってきた。
寝間着代わりに貸してやったTシャツの裾から手を差し込むとわずかに体を震わせた。佐久間はひどくゆっくりと背中をさすり、まだだ、まだだと自分に言い聞かせながら何度も何度も口付けを交わす。スマイルの手が首筋にかかり、あごの辺りをそっと撫でていった。佐久間が顔を寄せる仕種に誘われるかのようにまぶたを伏せ、またキスをする。
スマイルの怯えの原因がなんであるのか、多分佐久間は知っている。それは自分が思っていることと恐らく一緒だ。袋小路に行き当たってしまったかのような閉塞感。高い塀の上にはただ青空が広がり、不思議な開放感だけは伴った絶望のようなもの。
ここがどん詰まりであることをお互いが知り、相手が知っていることもわかっていながら、それでも現実を見るのが怖くて口には出せずにいた。もしかしたら一言「好きだ」と言ってしまえば簡単に抜けられるのかも知れないが、そうしたら全てが呆気ない夢のように終わってしまう気がして、怖くて口にすることが出来なかった。
二人で手をつなぎながら危ない綱渡りをしているようなものだった。ほんの少しバランスを崩せば一瞬で終わってしまう。だけど悲しいことに――嬉しいことに――その微妙な感じが、ひどく心地良くてたまらない。
スマイルが甘えるように声を洩らした。佐久間はかすかに笑い返し、首筋に唇を触れてそっと吸い上げていく。陶酔したような息が静かに吐き出され、首にかかる手にわずかに力が込められた。
もうスマイルの手はあまり冷たくない。
佐久間は顔を上げるとまた唇を重ね、強くその身を抱きしめた。何度も何度も口付けを交わし、ほんの少しずつ熱を上げては二人だけの世界に没頭してゆく。
過去はしっかり歩いてきた。未来になにがあるのか考える気にもなれない。――自分たちには「今」しかない。抱き合う以外になにが出来る?
言葉に出来ない/2004.12.27