スマイルがふと窓の外へと視線を投げるのにつられて佐久間も顔を上げた。スマイルはビールの缶に手を伸ばしたまま、じっと窓の外の気配を探っている。
「…ピアノ…?」
そう呟いて、時折部屋へ忍び込んでくる音色を聞き取ろうと耳を澄ませた。佐久間はテーブルに頬杖を突いてその顔をじっとみつめ、
「近くに教室があるみてえでな」
そう言って静かにビールを飲み干した。
「これ、聞いたことがある」
スマイルはそう言うと、ピアノに合わせて小さな声で歌いだした。佐久間も同じように耳を澄ませたが、残念ながら聞き覚えのある曲ではなかった。
時につっかえ、時におかしな和音を響かせながら部屋へ忍び込んでくるピアノの旋律は、五月の濡れたような気だるい晩にわずかな彩りを施してくれていた。
佐久間はしばらくのあいだスマイルの横顔を眺め、それからそっと煙草に手を伸ばした。まだピアノに耳をかたむけている彼の邪魔をしないよう、なるべく静かにライターを鳴らす。煙を吐き出すとスマイルはようやくこちらに振り返った。
「なんて曲だっけ、これ」
「俺が知るかよ」
小さく笑い、灰を叩き落とす。
「楽器が出来る人って、なんかいいよね。うらやましい」
「そっかぁ? 俺ぁ別に習いてぇとも思わねえけどな」
「アクマはそうだろうなぁ」
妙にしみじみと言うので、思わずビールをぶっかけてやりたくなった。渋い顔をしていると考えていることが伝わったのか、スマイルはごまかすように笑いながら「冗談だよ」と言った。佐久間は「けっ」と吐き出して、煙草を口にくわえたままごろりと横になった。
ゴールデンウィークが終わり、佐久間は再び忙しくも惰性的な日常へと戻っていた。毎日決まった時間に目を醒まし、ちゃっちゃと仕度を整えて会社へ行く。山積みとなった書類を片付け、合い間に煙草を吸い、北原やほかの同僚たちとバカ話に興じ、また仕事をする。そんな退屈な日々の繰り返しだ。去年と違うところといえば、多分たまにスマイルからメールが入るようになったことぐらいだろう。
佐久間は手探りでテーブルから灰皿をおろし、煙草の灰を叩き落としながらもう一方の手を伸ばした。そうして床についたままのスマイルの指に触れると、スマイルは少し驚いたような顔をして小さく笑い、軽く指をからませて握り返してきた。
スマイルの手はいつものように少し冷たくて、思わず温めるように指先で軽くこすってしまう。連休前のあの晩以来、こんなふうなちょっとした接触が二人のあいだで増えてきていた。
「…お前がメールよこすなんて、珍しいな」
「そう?」
とぼけたように微笑みながらスマイルは呟いた。
「なんとなくね…顔見たくなってさ」
佐久間は小さく笑い返しながら、あんなに一緒に居たのになとぼんやり思った。
恋人が会社の同僚と旅行へ行ってしまい、もともと暇だった長い休みがもっと暇になってしまった。どちらが言い出すともなく佐久間とスマイルは連絡を取り合い、いつものように飯を食い、いつものように佐久間が部屋へと引き込んだ。三日のあいだスマイルはほぼ佐久間の部屋に入り浸り、ゲームをしたりテレビを見たり酒を飲んだりしてだらだらと過ごし、時に抱き合って恍惚に溺れた。
それでもまだ顔が見たいと言うスマイルの気持ちはよくわかる。仕事の合い間、部屋に一人で居る時、ふとした瞬間に考えるのはスマイルのことだ。恋人のことを思い出すのは五回に一度といったところか。鬼の居ぬ間の洗濯という言葉が思い浮かび、佐久間は思わず苦笑した。
――しょうがねえよなぁ。
不意に手を持ち上げられて佐久間は振り向く。スマイルの唇が手に触れた。佐久間は導かれるままに身を起こし、スマイルの首を抱き寄せると唇を重ねた。時折うっすらと目を開けて表情を盗み見ると、スマイルも同じように薄く目を開けてどこともつかぬ場所をみつめている。こちらの視線に気付いて目を上げ、少し照れたように笑ってきた。
「煙草くさい」
「――いい加減慣れろやっ」
力任せにスマイルの首を押しやって佐久間は笑う。煙草を拾い、煙をわざと顔に向けて吐き出してやった。スマイルは顔をしかめて煙を払い、
「いじめっ子」
「嫌なら帰ればー?」
「…ホントに帰ったら寂しい癖に」
「んなこたねぇよ」
「あっそ」
そっぽを向いてビールを飲み干す。そうして不機嫌そうに空き缶を床に置くと、「おかわり」とぶっきらぼうに言い放った。
「冷蔵庫んなか。ご自分でどうぞ」
立ち上がった横顔が本気で不機嫌そうなので内心焦ったが、スマイルが冷蔵庫の扉を開けた時、
「俺のも」
「ご自分でどうぞ」
「いいじゃん、ついでだろ」
不承不承持ってきてくれたので少し安心した。
「アクマってホントにやさしくないよね」
スマイルは新しい缶のフタを開けながらむっつりとした顔でそう言った。
「あのね、やさしくするのと甘やかすのは違うんすよ、おわかり?」
「だからって限度があるだろ」
ぐびぐびと二口ほどビールを飲み、
「そんなんだからケンカが多いんじゃない」
「――誰が?」
「アクマと。…彼女と」
佐久間はゆっくりと天井へ向けて煙を吐き出すと煙草をもみ消した。
「別に、そんなことお前に関係ねーじゃん」
「そうだけど」
スマイルは缶をつかむ自分の手元を落ち着きのない目で見下ろしている。しばらく気まずい沈黙が続き、ごまかすように佐久間も缶へと手を伸ばした。
「ま、いざって時には伝書鳩が飛んできてくれんだろ」
そう言うと、スマイルは困ったように小さく笑った。
「あんまり役に立つとも思えないけど」
「そのまま終わっちまったりしてな」
「そしたら僕がもらってあげるよ」
笑い返そうとした口が固まった。
「お前って時々、信じらんねえぐれぇ無神経になるよな」
自分でも驚くほどひどく突き放すような声だった。
スマイルの顔から表情が消えた。佐久間は無言で立ち上がると台所の電気をつけて流しの前に立った。夕べ使った食器が洗い桶に入ったままになっている。自分でも何故怒りを覚えるのかわからないまま蛇口をひねり、食器を洗い始めた。
背後にスマイルの気配を感じたが佐久間は手を止めなかった。少し逡巡するような間があり、やがてシャツの裾がかすかに引っぱられた。
「…ごめん」
「あにがー?」
佐久間は振り返りもせずに言い放つ。
「気にするこたぁねえんだぞ。電話で呼び出して、二人で遊び行ってくりゃいいじゃねえか。別にお前らがどうなろうと俺にゃあ関係ねーしよ」
「……」
――言い過ぎか?
そう思った時は既に遅かった。
「…わかった」
スマイルの怒りの声が耳に飛び込んできていた。
「帰るよ。じゃあね」
「――ちょちょちょ、待てよ、おいっ」
佐久間はあわててスポンジを放り出し、泡だらけの手でスマイルの腕をつかんで止めた。振り返ったスマイルは怒りの為にむっつりと黙り込んでおり、つかまれた腕を不機嫌そうに一瞥した。視線に気付いて佐久間は手を放す。
「お前、帰んのは行き過ぎだろうがよ」
スマイルは不機嫌そうな表情を崩さなかったが、口の端がかすかに笑いをこらえていることに気付いて、佐久間は先に折れることにした。
「悪かったよ」
「……」
「言い過ぎました、すいませんでした。謝りますから謝ってください」
「――その言い方が気に障るっ」
「だーもう、めんどくせぇなあ」
二人は同時に笑い出していた。佐久間はスマイルの首に腕をかけて抱き寄せ、耳の辺りに軽く唇を触れた。
「悪かったよ」
「……」
「『ごめんなさい』は?」
「…ごめんなさい」
「よし」
顔を上げると、まだ少し拗ねたような表情でスマイルがこちらをみつめていた。
「開けたビールぐれぇ飲んでけよ」
佐久間はそう言って肩をすくめる。
「…帰って欲しくないなら素直にそう言え」
「帰るな、泊まれ」
「よしっ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑いながら唇を重ねた。
スマイルの首に回した腕をなにかが這う感触があり、佐久間は目を開けた。手についた泡が今にも落ちかかっていた。あわてて腕を上げたが、その拍子に泡が飛んでスマイルの首筋に跳ねた。
スマイルはおかしな悲鳴をあげて飛びのいた。