「今更試験勉強なんざ、するなんて思ってもみなかったよなぁ」
佐久間はぼやくようにして言い、伸ばされたスマイルの手を取って握り返した。
「難しい試験なの?」
「合格率四十パーセント。ぜってぇ無理だって。金どぶに捨てるようなもんじゃねえかよ」
そう言って佐久間はメガネを外し、スマイルの手を握ったまま床で横向きになった。
「お前、時間平気?」
「平気だよ」
「ちっと居てくださいよ。なんか気ぃ重くなってきた」
「別にいいけど」
そんなに思い悩むほどのことかとも考えてしまうが、業務上の必要に於いて受ける試験となればかかるプレッシャーも強いのかも知れない。スマイルは空いた方の手で佐久間の肩を軽く叩き、「元気出しなよ」と呟いてみせた。
「替え玉受験でもすっか」
「バカ」
その年、梅雨は長引いた。
月が替わってもなかなか曇天は動かず、ともすれば冷たい雨粒が降り注ぎ、このまま梅雨が明けることはないのではと人々に思わせるような陽気が続いた。だが南の方からゆっくりと成長しつつあった台風が日本の本土を舐めるようにして通り過ぎていくと、一転して青空が広がり、突然夏がやって来た。
佐久間はようやくエアコンを買った。「文明の利器って素晴らしいっすねぇ」と、風呂上り、下着姿で冷風に吹かれながら嬉しそうに洩らした。
「寝る時も点けっ放し?」
「いんや。さすがに電気代がもったいねぇしな。タイマーかけて消してる」
スマイルがお中元だと言って持ってきたビールを飲みながら佐久間は煙草に手を伸ばす。
「フィルターはまめに掃除した方がいいよ。埃が溜まってると余計に電気代食うし、嫌な匂いも溜まるから」
「掃除ってどうするんすか」
「掃除機で吸い込むだけ。年末の大掃除の時は、普通の中性洗剤かけて水洗いするけど」
スマイルはそろそろ夏休みに入る頃だと言う。
「そればっかは、さすがに羨ましいよなぁ」
「夏休み? 会社だって休みあるんだろ?」
「あるけどよ。長さは比べもんになんねえじゃん」
「そうだね」
苦笑するように言ってスマイルが後ろ向きに背中へとのしかかってきた。エアコンを買って得た最大の利点は、夏場こんなふうにしてくっついていても、うっとうしくなくていいというところだろう。
「どっか旅行行きてぇなあ」
ごつごつと後ろ頭を軽くぶつけ、煙草の灰を叩き落としながら佐久間は呟いた。
「ムー子ちゃん誘って行ってくればいいじゃん。海でも山でもどこへでも」
「……」
「ないの? そういう計画」
「…盆暮れは、料金高ぇしな」
ごまかすように呟きながらも、なんでこいつはそういうことをあっさり言えるんだと、内心いささかムッとしていた。勿論自分がそんな文句を言える立場でないことは重々承知しているが、それにしたって――と、そこまで考えて、佐久間は唖然とした。
嫉妬している。
――うわ、無茶苦茶恥ずかし。
「アクマ?」
様子がおかしいことに気付いてスマイルが振り返った。
「どうしたの」
「なんでもねえよ」
わざとらしくぶっきらぼうに呟いて煙草をもみ消した。
「…どうしたんだよ」
「なんでもねえっつってんだろうが」
それでもスマイルは素直に聞き入れず、缶をテーブルに置くといきなり後ろから抱きついてきた。
「どうしたんですか、学さんは」
「うるせぇな、なんでもねえっつってんだろ。放せよバカ野郎」
スマイルの腕を払おうとして床に倒れ、テーブルにぶつかりながらしばらく揉み合った。互いに手を振り上げては押さえつけ、なにがおかしいのかわからないまま笑い声を上げた。スマイルは佐久間の腹の上にどっかりと座り込み、最終的に両手を捕まえて床に押し付ける格好となった。
「きゃーいやー、犯されるー」
「バカ」
小さく吹き出して顔を近付けてくる。唇を触れて、互いのメガネが邪魔になりながら何度かキスを交わし、そのまま佐久間はゆっくりと身を起こしていった。スマイルはつかんだ腕を放して少し下の方へと座り直し、キスを交わす合い間に片手だけを佐久間の首にかけ、また唇を重ねた。
佐久間は畳に両手をついたまま、抱き寄せる為の腕を伸ばせずに居た。息を交わし、舌を絡ませ、時にスマイルがなにか苦しむようにわずかに眉根を寄せる様をのぞき見ながら、テメーでしたことだもんなとぼんやり考えている。
結果がどうであれ、きっかけを作ったのは自分だ。先に動いたのは自分の方だ。嫉妬するのはお門違いだし――少なくとも、スマイルは居てくれる。
「今度、どっか遊び行くか」
そっと唇を離して佐久間は呟いた。
「どっかって?」
「どっかさ。海でも山でも、どこでもいいぞ」
「……いいよ、別に」
真正面にみつめられて、少しだけ照れたようにスマイルは視線を落とした。
「こうしてるのが一番好きなんだけど」
「…別に反論はしねぇけど、たまにゃあお出かけすんのも悪くないんじゃないんすかね。車借りてドライブとかでもいいしよ」
「免許あるんだ?」
「ありますよ」
「それは知りませんでした」
唇が重なり、ようやく佐久間はスマイルの背中を抱くようにして肩へと手を伸ばした。自分の熱が必要以上に伝わってしまわないよう、そっと触れるだけにしておきながら、唇を離し、また重ねる。
「ん…っ」
わずかに逃げるような素振りを見せられて、反射的に押さえつけていた。空いた方の手を握りしめて強く背中を抱き寄せ、激しく舌を絡ませては息を交わす。ある瞬間、ふとスマイルが泣きそうな顔をしているのをみつけて唇を離し、かすかに触れた。
「……」
スマイルは照れたように笑い、そっと抱きついてきた。
――なんでだよ。
深く息を吐き出しながら佐久間は思う。
――なんでお前なんだ?
五年も昔、同じ言葉を投げつけた。あの時あった憤りは、実は今でも少しだけ残っていた。
どうしても手の届かない存在、自分が決してたどり着けない地平を垣間見ながらも、常と変わらぬその落ち着いた表情が、時としてひどく憎らしく、だからこそ惹かれるのだと今は知っている。
メガネがぶつかってかちゃりと鳴った。顔の位置をずらし、首筋に唇を触れるようにしながら、佐久間はきつくスマイルの体を抱きしめる。
「痛いよ」
「…ちったぁ我慢しろや」
抱きしめながらじっとしていると、互いの鼓動が感じられた。佐久間は顔を上げて頬に唇を触れ、そのままあごの下を舐め、首筋をたどっていった。かすかな笑い声が洩れるのをどこか遠いところで聞き、黒髪のなかへと指を差し込みながら、泣き出しそうになるのを懸命にこらえている。
――なんでこんなに好きなんだ。
佐久間の方が先に駅へ着いていた。スマイルは改札口を抜けながら「ごめんね」と言って、謝るように片手で拝んでみせた。
「あっちで祭やってんだよ。ちっと見てこうぜ」
佐久間はそう言ってスマイルの首に片腕をかけると、ぐいと引き寄せた。
「お祭? もうそんな時期?」
毎年七月の下旬に、商店街主催の夏祭りが開催されていた。あちこちに屋台が並び、浴衣を着込んだ若い男女が連れ立って歩いている。
「とりあえずビール飲みてぇな。おごってくださいよ、お兄さん」
そう言って佐久間は振り向き、確実にそれとわかるようにスマイルの頬にキスをした。びっくりして振り返ると、佐久間はかすかに笑いながらじっとスマイルをみつめていた。なにかを言おうと思って口を開きかけたとたんに佐久間が先に歩き出し、
「ねー、ビール飲みたいよお兄ちゃーん」
「あーもう、うるさいな、放せバカっ」
二人はもつれあいながら人ごみのなかへとまぎれていった。
石を投げる/2005.02.17