人生には時として、あのきっかけがあったから今自分がこうしている、と振り返ることの出来る分岐点のようなものが存在する。
人によっては肉親との死別であったり企業への就職であったりと、大きな節目として記憶に残ることもあるが、佐久間の場合はそんな程度のことかと思われるような些細なことだった。あまりに些細で、それがきっかけだったのだと思い至った時は思わず苦笑してしまった。
――あんだよ、そんなことで、俺今こうしてんのか。
だがそれは別に過去を悔やむものではない。不可抗力だったと言い訳をする為でもない。ただしっかりと、自らの意思で自らの人生を歩いてきたのだと確認する時に、単純だと思っていた日々の繰り返しが本当は様々な要素が組み合わさって奇跡のように存在していたのだと、言葉もなく感動するだけだ。
そういう意味では、どんなに簡単なように見える事柄でも、「たまたま」そこにあるということはないのかも知れない。どんなに多くの人間がこの世に存在して、またどんなに遠くに離れていても、誰かの人生に関与していない人間など一人も存在しないのかも知れない。
その時佐久間は三時の休憩時間中に、喫煙所と定められた休憩室で煙草を吸っていた。
三人が並んで腰をおろせる大きなソファーを一人きりで占領し、スニーカーを脱いで手すりに両足を乗せていた。そうして寝転がった状態で煙草をふかし、テーブルの向かい側に座った前田と言う年輩の男性から、競艇についてのあれこれをレクチャーしてもらっていた。
佐久間は基本的にギャンブルが嫌いではない。金に余裕のある時なら知り合いが買うのに便乗して馬券を求めることもあるし、パチンコでしばしの勝負に出ることもある。だが熱くなることは殆どなく、決めた金額を使い切ったらそれですぐおしまいにしてしまう。儲かった時も所詮はあぶく銭と割り切ってそれを更につぎ込むようなことはしない。煙草代が浮いたと考える程度だ。
前田は五十を幾つか過ぎた小柄な男で、会社の事務を取り仕切る、いわば佐久間の大先輩だった。普段からあまり仕事以外の話をしたがらないのだが、佐久間はこの無口な男が嫌いではなかった。予想はするが実際に賭けることはあまりないという前田の競艇歴はそれでもかなりのもので、説明もわかりやすく、今度川崎にでも一緒に行くかとまで話題の乗った時だった。
「佐久間」
休憩室のドアが開けられて、ひょいと北原が顔を出した。
「あ、お疲れっす」
佐久間は寝ていた体を起こして頭を下げた。北原は片手を伸ばして、「ちょっと来い」と佐久間を手招きする。
「……なんすか」
「いいから来い」
「…うっす」
佐久間は煙草をもみ消して立ち上がった。
――これが、その「些細な」出来事の始まりだった。
店の自動ドアが開くと、空圧によって薄い雨がまばらに降りかかってきた。スマイルはわずかに目を細め、傘を開きながらも軒先へと頭を差し出した。雨は止みかかっていたが傘なしで歩ける状態ではなく、仕方なく開いた傘を頭上にかかげて暗い夜道を歩き出した。
バイトが終わって最寄り駅へ帰り着いた時は八時に近かった。なにかを作ることは勿論、買って帰るのも面倒だったので、たまたま開いていた定食屋に入って遅い夕飯を済ませた。小金があると下手に金遣いが乱雑になるなと思い、別に困窮しているわけではないがなるべく外食は控えようと考える。
梅雨前線が停滞し始めて一週間が過ぎようとしていた。それでも、梅雨入り宣言が出された日にどしゃぶりの雨が降ったぐらいで、意外にもどんよりとした曇り空が続くばかりだった。今日は珍しく梅雨らしいしとしと雨が朝から降り続いていた。
佐久間から電話があった時、スマイルは商店街の外れ辺りを歩いていた。シャッターをおろしたパン屋の軒先で足を止め、傘を持ったまま電話に出た。
「もしもし?」
『…スマイル?』
「そうだよ。なに?」
『今、話してて平気か?』
「大丈夫だけど」
スマイルは答えながら、なんだか暗い調子の佐久間の声に不安を覚えた。
『お前、今どこ居んだよ』
「今? 駅と家の中間辺り。商店街の外れのところ」
『悪ぃんだけど今から駅に引き返してさ――あぁ駄目か、店もう閉まってんな』
「…なに、どうしたの。忘れ物?」
話が長引きそうだったので、そろそろと自宅方向へ向かってスマイルは歩き始めた。駅から帰ってゆく人の影はまばらで、自分を追い越していく人の殆どが、コンビニなどの買い物袋を手に提げているのがなんだかおかしかった。
佐久間はしばらく沈黙したのち、電話の向こうでうなり声を上げた。
『お前ん家にさ、正露丸あるか?』
「正露丸? …あったかなぁ」
薬やバンソウコウなどをまとめて放り込んでおく箱はあるが、実際には風邪薬ぐらいしか滅多に使用しない。その箱ものぞいたのは冬場が最後だから、ほかにどんな種類の薬が揃っているのか、あまりはっきりとは覚えていなかった。
「なに、腹痛でも起こした?」
『いや、下した方』
「下痢かよ。きったないなぁ」
くすくすと笑いながらも、スマイルは急に早足になって道を急ぎ始めた。とりあえず家に帰って確認してみると言って電話を切り、小さく吹き出して、あわてて表情を引き締める。
――なにやってんだかな。
佐久間と気軽に連絡が取れるようになったのはここ一二ヶ月のことだ。二月のあの晩まではひどく冷たい時間が流れ、もしかしたら一生このままかと本気で危惧していた。それを思うと今は信じられないほど心が軽く、以前にも増して互いの顔を見たいと思うことが多くなった――少なくとも、スマイルの方はそうだった。
ただ時折、まるで不意に夢から醒めるように、どこへ行けるというんだろうとひどく冷静な自分が呟くことがある。
同じなにかを抱えているわけではない。離れてはいけない理由があるわけでもない。ただ一緒に居たいと思うからそばに居るだけで、本当に、それだけの話でしかないのだ。確実に相手を繋ぎとめておける何物もなく、もしかしたらあの去年の梅雨明けの晩のように、またあっさりと全てが変わってしまう可能性もある。むしろその方が現実的だ。いつまでもこんなことは――多分――続かない。
だから最近のスマイルは余計な現実を見ないようにしようと努めていた。今ここにある想いだけが全てで、
――それで充分だ。
佐久間が会いたいと言い、スマイルが会いたいと思う、その互いの気持ちの発露だけでいい、それだけあればいい…。
意外にも正露丸はあった。匂いのきつくない糖衣錠の方で、どうやら何年も前に母親が買い込んだものらしい。使用期限が迫っていた。それでもスマイルは薬を上着のポケットに突っ込んで家を出た。佐久間のアパートへ着くまでのあいだに、雨は少し強く降り出していた。
呼び鈴を鳴らすと、しばし待たされたのちにドアが開けられた。
「よ」
出てきた佐久間は眉間に皺を寄せている。
「あったよ、正露丸。多分まだ平気だと思うけど」
スマイルはとりあえず薬を渡し、「大丈夫?」と今更のように聞いた。
「まあ、トイレから出れねぇとか、そういう状況じゃあないんでね」
それでも腹を押さえながらよろよろと部屋へ歩いていく後ろ姿は、なんだか見ていて不安にさせられた。あとに続いて部屋へと入り込み、テーブルに着きながら佐久間の様子をじっと観察する。
「熱とか測ってみた?」
「いんや」
佐久間は答えながらポットのお湯をカップに注ぎ、箱から薬を取り出した。
「なにか悪いものでも食べた? 生ものとか――」
「食ってないっす。いやまあ、だいたい原因はわかってんだよ」
錠剤を口に放り込み、カップの湯に息を吹きかけつつ薬を飲み下す。
「…効くかね」
「効かないと困るんだろ」
くすくす笑って足を伸ばすと、佐久間は腹を押さえながら太ももに頭を乗せてきた。
「本日、上司から命令が下りまして」
「どんな?」
「十一月にある、危険物取扱者試験を受けろと」
『もう決定事項だから拒否出来ねえぞ』
そう言って北原から渡されたのは、試験の申込書と何冊かの参考書だった。
佐久間の勤める会社はとある大手家電メーカーの下請けのまた下請けで、主に精密部品を作っている。佐久間自身も入社したての頃は工場で働いていたが、一年半ほど前に部署が異動となって内勤に変わった。言ってみれば多少の昇格でもあったのだが、遠方の関連工場と細かく連帯を図って書類を作成するという今の仕事は、いささか気の詰まる業務内容だった。それに加えて今度は会社命令での受験である。
要するに、神経的に参って下痢が起こっただけの話だ。それほど大袈裟に心配することでもなかったのだ。話を聞いたスマイルはなんと言えばいいのかわからなくて、とりあえず「ご愁傷様」とだけ言い、佐久間の肩の辺りへそっと手を伸ばした。