「お前、もう帰れ」
片手で頬杖をつき、メガネを押し上げながら佐久間はそう言った。見るとスマイルも真似をするようにコタツの上で頬杖をつき、じっとこちらを見下ろしていた。
「事情は承りましたよ。ご苦労様でした。俺の女が迷惑かけて悪かったな、あとはこっちで適当にやっとくわ」
「……」
「…帰れよ」
「彼女になんて報告すればいいんだよ」
「好きにしろっつっとけ」
わずらわしそうにそう言うと、佐久間は再びごろりと横になった。頭の後ろで手を組み、ぼんやりと天井を見上げる。
「俺が嫌なら別れりゃいいだろ。別に結婚してるわけでもねえんだし」
「そういう問題じゃないんじゃないの」
「うるせえな、んなことぐれえテメーで決められねえような奴ぁ、こっちからお断りだ。ガキじゃあるまいしよ」
そう言って佐久間は身を起こす。そうして缶をつかみ、やけのようにビールを流し込んだ。
「結局俺がどうこう言ったって、あいつが嫌だっつえばおしまいじゃねえか。好きにさせるしかねえだろ」
スマイルはなにも答えない。頬杖をついたまま、じっと佐久間の顔をみつめるだけだ。
「あんだよ」
「――相変わらず、人にも自分にも厳しいんだね」
無表情にそう呟いた。
「悪ぃか」
「…彼女にぐらい、やさしくしてあげたら?」
「性分なんだよ。今更変えられるか」
佐久間はまるで他人事のようにそう答える。
「どうせ俺は頑固一徹ですよ」
「現実的だよね」
「いいじゃねえか。目の前の現実見据えなきゃ生きてけねえんだ。住むには家賃払わなきゃなんねえし、飯食うにも金が要る。夢で食ってけるような天才じゃねえんだよ俺は」
「ペコみたいに?」
思わぬ名前が出てきて、佐久間は一瞬返す言葉を失った。驚いてスマイルの顔をみつめ、ひどく冷めた瞳に何故か怒りを覚える。
「…そうだよ」
イライラとまた煙草に手を伸ばした。そうして火をつけて吸い込みながら、
「俺ぁ凡人だ。…そう言ったのはテメーだろうが」
「……」
「あいつはガキの頃からずば抜けてたしな。どのみち、届かねえのはわかってたけどよ」
それでも追いかけずにはいられなかった。そうして自分の現実主義が自らを夢から引きずり落とし、そのきっかけとなった男が、今目の前に居る。
考えてみればおかしな縁だ。子供の頃からの付き合いではあったが、ペコとの関係ほど親しかった記憶はなく、あいだにペコをはさんでいつも等間隔で距離を取っていたような気がする。そんなふうな付かず離れずの間柄でありながら、何故か人生の決定打の時には必ずその場に居た。
時には大きな壁として、時にはペコの残影として。
「……なんで、んな面倒なこと引き受けたんだよ」
沈黙に耐えられなくなって思わず佐久間は聞いた。静かになった部屋のなかでは降り続く雨の音がかすかに聞こえていた。見るとスマイルは首をかしげてしばらく考え込み、それから、困ったように苦笑した。
「なんでだろうね」
そう言ってコタツの上に顔を乗せて、ぼんやりと佐久間の手の辺りをみつめた。
「自分でも、よくわかんないや」
「…ほんっとに、バカだなお前」
「そうだね…」
そうして、「アクマと一緒だね」と呟いた。
「一緒にすんじゃねえや、バカ」
「うるさいよ凡人」
「やかましいや、天才のなり損ねが」
「――、」
続けてなにかを言おうとし、結局なにも言わないまま口をつぐんでスマイルは小さく笑った。
「僕だって凡人だよ」
「……」
「天才は一人で充分だ」
「…ペコか」
「そう」
そうして不意に身を起こしてビールを飲む。
「ペコが特別なのは、当たり前なんだよ」
まるで自分に言い聞かせるかのようにそう呟いた。
佐久間はなにも言えないまま黙って煙草をふかし、やがて、小さく苦笑した。
「なんだよ」
「…なんでもねえよ」
そう言ってごまかすように缶を口へと運ぶ。
――所詮俺は負け犬か。
どうしても手の届かないものばかりをいつも欲しがっていた。どうにかして近くまでたどり着いたと思ったら、それはいつもほんの少しだけ先へと進み、いつまで経っても追いつけない。手に入れたと思い込んでいたら今度は別の方ばかりを向いている。
――バカバカしい。
笑ってしまうのは、それでも欲しいと思うことをやめられないからだ。自分の方を振り返ることは決して有り得ないとわかっていながら――だからなのか――いつまでも、幻ばかりを追うように夢を見てしまう自分が、ひどくおかしかった。
「まだ帰んなよ」
呟きにスマイルが振り返る。
「雨まだ降ってんだろ。…もちっと居ろや」
「…うん」
静かな部屋のなかでスマイルの寝息だけが響いている。
雨はいつの間にか上がっていたようだ。佐久間は煙草をくわえたままそっとコタツを抜けて窓際に寄り、カーテンを指で押し開けて外をみつめた。街灯に透かし見るが、雨の気配は消えている。
カーテンを押さえていた手を離して佐久間は部屋に振り返る。スマイルはコタツに突っ伏すようにして眠り続けていた。どれぐらい前から眠っていたのか佐久間は知らない。互いに言葉もなく、ただぼんやりと酒を飲むうちに、気が付いたらスマイルの寝息が聞こえていた。
コタツの前に戻り、電灯の紐を静かに引いて佐久間はまたコタツに入り込む。そうしてオレンジ色の明かりのなかで判別しづらくなったスマイルの寝顔をみつめ、ため息のように煙を吐き出すと煙草をもみ消した。
テーブルの上を探り、まだ中身の残っている缶を探し当てる。底に残っていたビールを飲み干しながら、なんか飲み足りねえなと小さく思った。
もう日付けは変わってしまった。
またスマイルの寝顔をみつめ、そういやぁこいつが泊まるのは初めてだなとふと思う。そうして空いている方の手をそっと伸ばして、スマイルのやわらかな髪を指で掻き上げた。指先で髪の毛をもてあそび、そのままかすかな温もりを確かめるように手を置きながら、
――なんつぅか、
だらしねえなと、自嘲の笑みを洩らす。
スマイルが身じろいだ。佐久間はそっと手を引き、様子をうかがった。
突然スマイルの手が伸びて佐久間の手首をつかんだ。驚いて手を引こうとしたが、オレンジ色の明かりのなかでスマイルは強く佐久間の手を握りながらかすかに笑っていた。そのままゆっくりと顔を上げて指先にキスをする。そうして手を引きながら身を起こし、ぼやける視界のなかで近付いては離れ、距離を確かめながら顔を寄せてきた。
唇を奪われ、奪い返し、時折洩れる小さな声を、佐久間は夢うつつのうちに聞いている。床の上で握り合ったスマイルの手がいつになく温かいのは、酒のせいかコタツに入っているせいか、それとも別のなにかのせいなのか、佐久間には判然としない。
長い口付けのあと、ふと唇を離し、
「犯すぞテメー」
半ば本気でそう言うと、
「……いいよ、別に」
存外静かな声でそう答え、
『誰か好きな人でも出来たんじゃないかって』
また唇を重ねてきた。
メガネがぶつかる感触にスマイルは小さく笑い、離れていった佐久間の唇をぼんやりと見下ろしている。そうしてこちらを見上げ、目が合った瞬間、佐久間は握り合った手を振りほどき、スマイルの首を強く押しやった。
「とっとと寝ちまえ、酔っ払いが」
「なんだよ」
スマイルはくすくす笑いながら佐久間の手を払い、コタツにもぐり込んで横になった。そうして佐久間の姿を見上げ、また笑う。
「…気色わりぃ」
憮然と呟くなかでまだスマイルの笑い声が続いている。離れてしまった佐久間の手を名残惜しそうにみつめ、そっと片手を伸ばして指先をつかむと、そのまま目を閉じた。
スマイルに指を取られながら佐久間は煙草を引き抜き、火をつける。そうして煙を吐き出すと、明日にでも恋人に電話をしようと、スマイルの指を握り返しながら考えた。
おかしな二人/2004.07.23