佐久間が家を出た時、アパートに電話は引かなかった。七万もの保証金を払うのはひどくバカバカしく、そんな余裕もなかったというのが実情だ。
だから代わりに携帯を持つことにした。新規の加入であれば安く済む。別に最新機種が欲しいとも思わなかったので、店頭で目についたのを無造作に店員に示し、その場で契約を済ませた。それが独り暮らしを始める際に揃えた家電の最後の品となった。
実際携帯を持ってもそれほど頻繁に通話をするわけではなかった。料金は最低限度のプランで、しかも無料通話分が毎月持ち越されるほどだ。恋人とのやりとりはたいていメールで済ませるし、仕事関係の電話はかけるよりも受けることの方が多い。五百人もの名簿が登録出来る電話帳は未だに十分の一も埋まっていない。こんなの全部埋まる奴居るのかと、時々佐久間は呆れたようにそう思う。メモリの無駄遣いとしか思えない。
その登録された名簿のなかに、新しくスマイルの名前が加わったのは今年の九月のことだ。かける用事があるとはお互いに思えなかったが、それでも一応と思って番号を交換した。以来二ヶ月ほどが過ぎたが、案の定殆どその番号が利用されることはなかった。暇を持て余していたある日、一度こちらからかけたことがある程度だ。
そうしてスマイルと入力されているその名前を、今度サイレントに変更してやろうかとくだらないことを考えていた十一月のとある晩、そのサイレントから電話があった。
呼び鈴が鳴らされるのを佐久間はうんざりとした気分で聞いていた。そうして嫌々立ち上がり、玄関口に向かいながら「開いてんぞ」と声をかけた。
「こんばんは」
ドアが開けられると、そこには当然のようにスマイルが立っていた。
「よう」
「お土産」
「ん」
差し出されたビールを受け取り、佐久間はスマイルが持っているビニール傘に目を止めた。
「なんだ、雨降ってんのか」
「うん。さっき、ちょっと降り出してきた」
佐久間はビールを持ったまま部屋に戻った。そうしてコタツに入り込みながら吸いかけだった煙草を口にくわえ、一度吸い込んだのちに消してしまう。
「コタツ出したんだね」
「寒ぃからな」
もうじき十一月も終わる。日増しに朝の空気が冷たくなっていくのを肌で感じるのは、なんとなく気が重い。
スマイルは上着を脱いで足先だけコタツに入れた。そうして壁に寄りかかるようにして身を落ち着かせると、なにを感じてなのか、一度小さく眉をひそめた。
「なんだよ」
「相変わらず煙草臭いなと思って」
「すいませんねぇ」
そう言って佐久間は、これ見よがしにまた煙草に手を伸ばす。
煙草は高校を辞めた時に吸い始めた。それまでは隠れてこっそりと吸っている友人たちをバカにもしていたのだが、卓球から離れることを決意した時、全てからの決別の意味を込めて吸うようになった。もっとも、今ではやっぱりやめておけば良かったかと後悔もしている。なにも悪いこととは思わないが、とにかく無駄金を使っているという意識が強い。
スマイルは軽く肩をすくめるとビールに手を伸ばした。そうしてフタを開けながら、
「まあ、用向きはこの前電話した時に話したことで全部なんだけどさ」
「……」
「彼女に電話した?」
「しねえ」
「なんで」
そう言ってスマイルは頭のなかでなにかを数えてみせる。
「一昨日だよね、アクマに電話したの」
「おお」
答えて佐久間もビールをつかんだ。くわえていた煙草をわずらわしそうに灰皿に置き、フタを開けると二口三口、一気に飲み込む。そうしておくびのように息を吐き出すと、あらためてスマイルに向き直る。
「っつうかさ、お前、ホントにそんな話俺にさせる気か」
スマイルは返事に困って首をかしげた。
「頼まれちゃったし」
「…ほんっと、バカだなお前」
けっと吐き出して佐久間はまた煙草を口にくわえた。スマイルは返す言葉もなくただビールを飲むだけだ。
ことの起こりは二週間ほど前のことだった。電話で恋人とケンカになった。
ケンカのきっかけはささいな言葉の行き違いが原因で、まぁそんな程度のことはこれまでにもしょっちゅうあった。だからだんだん話がエスカレートしていって、別れるの別れないのというところまでいっても佐久間はたいして気にしていなかった。正直恋人が本当に別れたいと思うならそうすればいいとも思っていたのだ。
よくよく考えてみれば、何故彼女と付き合っているのかはっきりしない。なんとなく惰性でここまで来てしまったようにも思える。付き合い始めて三年は過ぎただろうか。倦怠期といっても差し支えのない頃合いだ。
そうして互いに連絡不通になった十日後、スマイルから電話がかかってきた。
『…ムー子ちゃんに泣きつかれちゃって』
本当に別れるつもりなのか確かめて欲しいと言われたそうだ。
なんでそんなに仲良しさんなんだよと聞くと、
『前に駅でばったり会ったんだ。向こうから話しかけてきたんだけどさ』
なんとなく話の流れで携帯の番号を教えてしまったらしい。
あの記憶力の悪い女がよくまぁスマイルの顔を覚えていたものだと佐久間は感心し、同時になんでそんなことを他人に頼むんだあのバカはと呆れもした。そしてそれ以上に頼まれたからといって素直に電話をしてくるスマイルにも呆れた。呆れながらも、その日は話をする気力がなく、そうして今日の会合と相成ったわけである。
――なんでよりによってこいつに頼むかな。
しばらくのあいだ無言で煙草をふかし、合い間にビールを飲みながら佐久間は内心で毒づいた。
「ほんで、今日の俺の言葉をお前がムー子に伝えると」
「…まあ、そうなるね」
「お前は伝書鳩か」
吐き捨てるようにそう言うと佐久間は煙草の灰を叩き落す。
「だいたいあの女も、なんでそんなこといちいち人に頼むんだよ。はっきりさせたいっつうんなら、直接電話してくりゃ済む話じゃねえか」
「またケンカになるのが怖いんだってさ。なんか、かわいいね」
「欲しけりゃくれてやる。勝手に持ってけ」
「物じゃないんだから」
スマイルはそう言って苦笑し、佐久間がコタツの上に放ったスナック菓子に手を伸ばした。
「そもそも、なんでケンカしたの」
「…さあな」
いささか投げ遣りに呟いて、佐久間はごろりと横になった。
「聞いてねえのかよ」
「一応事情は聞いたんだけど、なんだかはっきりしなくて」
「……」
言われて、あらためてケンカの理由を思い返してみるが、佐久間にしてもあまりはっきりとした理由が語れるわけではなかった。
いつもしているような言葉の行き違いである。そしてたまたまその日、佐久間は面倒な仕事を抱えていた。入ったばかりのバイトがしでかしたミスをかぶる羽目にもなっていた。多分タイミングが悪かったのだろう。
「…いつものこったけどな」
そう呟いて、横になったままコタツの上を探り、灰皿を頭の脇に置いた。
「くだらねえ理由だよ。話すのもバカらしいぐれえだ」
「なのに、別れ話になっちゃうんだ」
「売り言葉に買い言葉ってヤツでな。こういうのはどっちかが引ける余裕がねえと、どこまでも行っちまう」
あの日はお互いに余裕がなかったのだ。
恋人もこの四月に高校を卒業し、働きに出るようになった。そのせいか振られる話題は職場での愚痴が多く、それでも最初のうちは仕方がないと思い、素直に聞いていた。「社会」という広い世界では無尽蔵に多様な価値観が転がっており、それらの一つ一つに慣れるにはしばらく時間がかかる。自分もそうだったから、まぁしょうがねえなとあきらめていた。
だが半年経った今でも恋人は相変わらずで、佐久間にしてみればたいした問題でもないことをいつまでもクドクドと言い続けている。そんなに嫌なら辞めりゃいいじゃねえかと言うと、
『そういうわけにもいかないでしょ』
それがわかってるなら愚痴なんざ言うなと、ケンカが始まってしまったのだ。
思い返せば、情けない理由である。
「あいつはなんて言ってんだ」
「――最近アクマが冷たいんだって」
「はあ?」
「誰か好きな人でも出来たんじゃないかって言ってた」
「…んで、お前はなんつったんだよ」
コタツのなかで横に体を起こし、煙草の灰を叩き落してそう聞いた。
「『そんなことないんじゃないの』って」
そう言ってスマイルはビールを飲む。
「ほかに言えないだろ」
佐久間はゆっくりと煙草を吸い込んだ。そうして灰皿に押し付けながら、思わず苦笑が洩れるのを抑えることが出来なかった。