「お前、次授業?」
「うん。それでおしまい」
もう今日は帰るよと呟くと、鈴木は少し驚いたようにこちらを見た。
「どしたん」
「なにが?」
「なんか、元気ないじゃん」
そもそも未だかつて明るく元気に振る舞った覚えもないが、スマイルはとぼけた顔で、そうかな、と首をかしげてみせた。
「風邪っぴき?」
「そうでもないけど……」
そう言って本をしまい、イスに座り直すとじっと手元をみつめた。
「――あのさ、鈴木は遠距離恋愛とか経験ある?」
「遠距離? どんぐらい離れてんの?」
「神奈川と山形」
「……びっみょうな距離だなあ、おい」
鈴木はガムを取り出しながら苦笑した。
「え? ってか、お前彼女居たの?」
「……」
スマイルは返事が出来ないままじぃっと首をひねってみせた。そもそもこれは恋愛なのだろうかとあらためて考え出すと咄嗟には言葉が浮かばない。しかし鈴木はそんなことなど勿論気にした様子も見せず、
「なんだよ、そうならそうと早く言ってくれりゃあいいのにっ」
何故か嬉しそうに言って肩をばしばし叩いてきた。
「なんだ、そっかあ、月本にはかわいい彼女が居たのかぁ」
「いや、彼女って言うか、」
「皆まで言うな、いい雰囲気なわけなんですね」
一人で納得したようにうんうんうなずいている。言わなきゃ良かったなと後悔したがもう遅い。きっと明日には知り合い一同に話が広まっているに違いない。こんなお喋り男に相談することが既に間違っているとはわかっているが、何故か大学のなかで一番親しいのがこのお祭り男であるから困ってしまう。
「まぁ、まだ行くって決まったわけじゃないんだけどさ」
スマイルはあきらめて話を続けた。
「どういう付き合いの子なのよ」
「……小学校の時の同級生」
「あ、わかった。同窓会とかで再会したんだろ。そんで焼けぼっくいに火がついて――」
「言い回しが古臭いね」
思わず苦笑してしまう。
「でも、まあ……そんな感じかな」
きっかけは些細なことだった。こんな風にして縁が続くとは思ってもみなかった。ずっと離れているのが当たり前だった。
いつの間にかそうではなくなっていたのに、ずっと気付かないフリをしていた。そうして今、なにも考えずにいたツケを目の前で要求されている。
もし本当に行ってしまうのだとしたら?
――昔と同じようになるだけだ、最初は淋しいかも知れないが、きっとすぐに馴れる。そうは思うけれど、本当に馴れることが出来るのかどうか自信はなかった。
共に過ごした二年間がある。
たどってきた道はもう消えないのだ。
「……本気なのね」
鈴木の呟きに顔を上げると、驚いたことに真面目な表情でこちらをみつめていた。スマイルは思わず苦笑し、
「どうかな」
誤魔化すように呟いてそっぽを向いた。
近頃のテレビはサービス過剰だよな、と内心で文句を洩らしながらスマイルは参考資料を読み返している。コタツに入ってテレビを見る佐久間は時折大きな笑い声を上げては煙草に手を伸ばしていた。
「アクマ、ちょっとテレビうるさい」
「へえへえ」
佐久間はぞんざいに答えてリモコンを拾い上げた。
「っつうか、なんでわざわざ人んちで宿題やってんすか」
「だってしょうがないじゃん。母さんが友達集めて鍋パーティーやるって言うんだもん」
「まざってくりゃいいじゃねぇか」
「やだよ。女の人が六人も居るなかに僕一人居てみなよ。体のいいお手伝いかおもちゃになるだけだよ」
子供の頃は黙って食べていればなにも言われなかったが、近頃では彼女は居ないのかとせっつかれるようになってしまった。人のことなど放っておけと思うが、さすがに文句も言えないので早々に逃げ出してきたのだった。
寝転がっていた布団から身を起こして、スマイルはコタツに入り直した。印を付けた部分の要約をノートに書き出してレポートの為の文章を考える。しばらくして顔を上げると、佐久間が頬杖を突いて観察するようにこちらをみつめていた。
「なに?」
「……ガキの頃みてぇだなあと思ってよ」
勉強する姿が昔のようだと佐久間は笑う。
「まだルービックキューブ持ってんのか」
「あるよ。最近はあんまりさわってないけど」
部屋の隅に転がしたままだ。ずっと昔は絶えずカバンのなかに忍ばせていたことも、佐久間の言葉でようやく思い出した。
そんな頃もあったんだと、今は懐かしく思ってしまう。
「勉強、面白いっすか」
「――そうだね。わからなかったことが理解出来るようになるのって、純粋に楽しいよ。それこそパズルでも解いてるみたいで面白い」
「そういう奴も居るんだなぁ」
佐久間は呆れたように言ってコタツに突っ伏した。
「ガキの頃からそうなんすか」
「どうかな……まぁ、そういう面も確かにあったけど」
「……俺のこと好きか」
思わずまじまじと見返してしまった。佐久間は最初無表情を装っていたが、やがてきまりが悪くなったのか怒ったような顔になって体を起こすとそっぽを向いてしまった。
「や、やっぱやめた。今のなし、今のなし」
「なんだよ」
自分から話題を振ったくせに。
「返事聞かないでいいの?」
「……」
佐久間はむっつりと黙り込んだまま明後日の方向を向き続けている。手探りで煙草の箱を拾い上げ、なかの一本を抜き出しておきながらも火はつけずに指でもてあそび始めた。脇から見える顔がすっかりふてくされてしまっている。
彼女にもこんな顔を見せたんだろうかと思った時、
「好きだよ」
思いがけず、するりと言葉が出ていた。
「前よりずっと好きだよ」
「……」
「なんか言いなよ」
「……そりゃどうも」
「かわいくないなあ」
思わず呆れてシャーペンを放り出した。
「人が一世一代の告白したっていうのに、なに、その態度」
「うるせえな、俺は元からこういう態度ですよ。オメーが勝手に言ったんだろうが、聞いてやっただけでも有り難いって思え」
「先に訊いてきたの、アクマの方だろ!?」
教科書をつかんで投げつけてやろうかと思った。いくらなんでもその言い種はないだろう。スマイルはなんだかバカらしくなってしまい、これなら家に居ても同じだと帰り支度を始めた。
わざと大きな音を立てて荷物を片付けていると、佐久間が困ったような顔で振り返った。なにか言いたそうに口を開きながらも言葉はなく、ただ黙ってスマイルが持ち上げた荷物をひとつひとつ手から奪っては床に放り出していった。バッグの周辺に散らばった荷物と佐久間の顔を交互に見遣り、文句のひとつも言ってやろうと思うのに、こちらもどういうわけか言葉が出てこない。
不意に佐久間の顔が近寄ってきた。ためらいながらそっと唇を触れていく。そうしてうつむき、小さく吹き出した。
「俺ら、喧嘩ばっかだな」
「……誰のせいだよ」
そんなことがしたくてここに居るわけじゃないのに。
同じようにうつむいた先に佐久間の手があった。指が持ち上がってスマイルの手をつついてくる。そっと指を持ち上げて絡み合わせ、緊張を解くようにため息を吐き出した。
もしかしたら残っている時間は少ないのかも知れないのに、近頃は会えば必ず喧嘩になってしまう。互いに遠慮がなくなってきた証拠なのだろうが、時々、佐久間はわざと怒らせるようなことを言っているのではないかと思うことがあった。
怒らせて、愛想を尽かせようとしているのではないか――そんなことも考えてしまう。
元々佐久間には付き合っている恋人が居る。自分も彼女とは知り合いだ。今、二人で恋人を騙している。これまで長いあいだ騙し続けてきた。もしかしたら、もう潮時なのかも知れない――。
「帰んなよ」
不意に佐久間が呟いた。
「居てくれよ」
「……」
スマイルは無言で顔を上げた。うんともすんとも言えなくて、ただ唇を噛みしめたまま佐久間の顔を睨みつけている。
佐久間は困ったように肩をすくめ、
「嫌か?」
指を振りほどいて抱きついた。泣き顔を見られるのは嫌だった。
好きで好きで、ただ好きで――好きであるというだけで、どこへ行くことも出来ない。
――結構だらしない寝顔してるんだよな。
暗がりのなか、スマイルは布団で横になる佐久間の体を挟み込むようにして両膝を突き、その寝顔を見下ろしている。オレンジ色の豆電球が灯るだけなので、じっと目を凝らしていないと黒いもやのようなものに視界を妨げられてしまう。
部屋のなかはすっかり冷え切っている。じきに二時になるだろうか。トイレに行った帰り、なんとなく素直に寝る気になれなくて、意味もなく佐久間の寝顔を見始めた。
そういえば、こんな風にじっと見たことってなかったかも――明かりを付けたい衝動に駆られたが、そんなことをしては佐久間が起きてしまう。そうしてもっと良く見ようと両手を付き、ゆっくりと顔を近付けていった時、
「―――――だわあぁっ!!」
気配に気付いたのか、突然佐久間が目を醒ました。暗がりのなかでのしかかってくる影を恐怖の眼差しで見上げ、
「……んだ、オメーかよっ」
びびったぁ、などと言いながらごろりと横になってしまった。
「俺、今寿命が十年縮んだぞ」
「まさか」
スマイルは苦笑して立ち上がり、あらためて布団に入り直した。
「あにしてたんすか」
「……別に」
狭い布団のなかで乱暴に抱き寄せられながらスマイルはもごもごと口ごもる。
「とっとと寝よーぜ。明日もはえぇんだしよ」
「うん」
そうしていつもの温もりに包まれても、スマイルは目を開けたままだ。わずかな光に佐久間の顔を透かし見ては目をつむり、暗闇のなかでその表情を思い出そうとするのに、どういうわけか上手くいかなかった。
皮肉そうに笑う口元だとか、目の端でバカにするようにこちらを見る視線だとかは覚えている。だけど全体を思い浮かべようとすると、まるで霞がかっているかのようにぼやけてしまう。
「アクマ」
ささやき声はもう聞こえていない。静かな寝息が暗がりのなかで響いている。
スマイルはため息をつくと、あきらめて目を閉じた。そっと腕にしがみついて眠ろうとした。朝はすぐにやってきてしまう。時間はわずかにしか残されていない。
何処にも行けない/2006.12.15