幼い頃の自分がどんな風にして言葉を飲み込んでいたのか、忘れてしまっていることにスマイルは気が付いた。
 佐久間と一緒に居ると、時々小学校時代のことが話題に上る。クラスのいじめっ子のことだとか、ペコに連れられていった駄菓子屋だとか、タムラでの練習のことだとか。そういうことを話す時、スマイルはそこで自分が見ていたものを思い出し、なにかをぼんやり感じていたことを思い出すが、当時自分がどんな風にしていたのかは忘れてしまっていた。
 幼馴染みでもある佐久間との会話は、ある時期のことまでは互いに共通の認識があるせいですらすらと話題が進む。そうして話をしていると、以前からずっとこんな風に会話をしていたのではないかと錯覚してしまう。
 でも違ったのだ。
「ペコのクラス行くとよ、休み時間なのに教科書開いて勉強してる奴が居るんだよな。これ見よがしのガリ勉君で、すっげー胸糞わりぃって思った」
 それがスマイルの第一印象だと佐久間は笑う。スマイルは苦笑してビールジョッキを持ち上げ、
「あの頃はほかに時間の潰し方がなかったからさ」
「だからそれが普通じゃねぇっつうの」
 佐久間のことは知っていた。クラス一の暴れん坊と仲のいいメガネっ子。当時はまだメガネをかけている者が少なかったからそれだけでも印象に残る。星野のような人間はああいうタイプと付き合うのかと思いながら見ていた記憶がある。やがて自分がその輪に引き込まれることになるとはこれっぽっちも思わなかったが。
「ペコから電話あったよ」
 テーブルの上の残り物を片付けながらそう言うと、佐久間は少し驚いたように顔を上げた。
「三月に戻ってくるって。ビザの更新があるみたい」
「まだ向こう行ってんのか」
 佐久間は呆れたように鼻を鳴らす。あいつも飽きねぇなあという呟きに、スマイルは思わず吹き出してしまった。
「頑張ってるんだよ。いいことじゃん」
「……まあな。向こう居れるってぇのは、そんだけ実力があるってことなんだろうしな」
「そうだね」
 てっぺんに立つ、という非常にシンプルで且つ難題な目標の為にペコは走り続けている。その姿を思い出すたびに、では自分はどこまで進むことが出来たのだろうといつも考えさせられる。
 昔はそんなことなど思いもしなかった。社会のなかで点のように存在し、流れに逆らうことなく普通に生きていくのだろうと夢想していた。
 そもそも夢や目標というものを持っている人間の思考回路が理解出来なかった。たとえどれだけ大きな夢を描いていようと、全てが叶うわけじゃない。自らの器に合った人生がそれぞれにきちんと用意されている筈なのに、どうしてそれを拒否するのか――と。
 だから佐久間の憤りも、あの当時は理解出来なかった。
 ――なんでお前なんだよ。
『それはアクマに卓球の才能がないからだよ』
 夢や期待を抱くということ、そうしてそれ故に恐れたり不安になったりするのだということ。そんな当たり前の気持ちを、スマイルは今更ながらに理解し始めている。
「……あのよ、」
 呟きに顔を上げると、佐久間は煙草を引き出しながらうつむいていた。ちらりとこちらの顔を盗み見ておいて、また視線を外してしまう。
「なに?」
 通りかかった店員にお茶を頼んでスマイルは訊き返す。
 いつもの飲み屋でいつもの飲み会、ただこの頃不思議なのは、佐久間が時折言葉を濁すようになったことだ。しばらく考え込んだあとで、なんでもね、と誤魔化しはするが、なんでもなくてあんな顔をするとは思えない。なんだよと重ねて訊くと、
「あとでな」
 ようやく考えを決めたという風に強く言って煙草に火をつけた。
 スマイルは湯呑みを受け取って口に運びながらもどことなく落ち着かなかった。向かい合って座っているのに二人のあいだには沈黙が流れている。話の続きを催促したい気持ちは多々あったが、佐久間の目は完全にそれを避けていた。
 すごく嫌な予感がする。
 スマイルは言葉を探して口を開き、だがなにも言わずに閉じてしまう。据わりの悪い空気のなかで、昔はこんなの平気だったのにとぼんやり思った。
 以前の自分だったら相手が話したがらない話題は聞けなくても気にならなかったし、素直に待てた筈だ。なのに今は黙っているとなにやら悪い想像が働いてしまう。
 未来を考えるようになるにつれて、こんな瞬間が怖くなる。強い望みを抱けば抱くほど、それが裏切られた時の恐怖を思って更に不安になってしまう。起こってもいないことを心配するのは馬鹿げているとわかってはいるが、感じてしまう不安は、自分ではどうしようもない。
「行こうぜ」
 緊張の空気を感じ取ったのか、佐久間はかすかに笑いながら立ち上がった。
 外では雨が続いていた。一月の終わり、降り注ぐ雨とゆるやかに吹き渡る風から逃れるように、二人は身を寄せ合いながらのろのろと家路をたどり始めた。
 吐く息が白くけぶる。スマイルはわずかにうつむき、なにか話題はないかと探している。
「まだ決定じゃねぇんだけどよ」
 唐突に佐久間が本題に入った。スマイルはゆっくりと足を運びながら顔を上げた。
「もしかしたら山形の関連工場に異動になるかも知れねぇんだと」
「……え、アクマが? いつ?」
「四月」
 呟いたあと、佐久間は黒縁メガネを指でずり上げた。スマイルは返す言葉を失ったまま、その横顔をみつめている。そうして目をそらし、そう、と呟いた。
「東京駅から新幹線?」
「そっすね。三時間ぐれぇらしいけど」
「……ちょっと遠いね」
 乗り換え時間も含めたら半日近くかかってしまうのではないだろうか。立派な旅行である。
「十一月に危険物取扱者試験受けただろ」
「うん」
「あれに合格したから異動の話が出たんだとよ」
 ふざけてんよなあ、と佐久間は笑う。
「嵌められましたよ」
「……」
 なんと言って返せばいいのかスマイルにはわからなかった。傘を持ち直して、「でも、まだ決まったわけじゃないんだよね」と確認した。
「まぁな。実際に辞令が出るのは三月入ってっかららしいけど、その前にわかったら教えてやるっつって上司が言ってら」
「……異動になったら、行くしかないんだよね」
「そっすね」
 あとは辞めるしか手はねぇなあ。少し投げ遣りにそう言って、また佐久間は笑った。
 スマイルは唇を噛んだまま歩き続けている。
 行くな、とは勿論言えなかった。それは佐久間の会社の都合であって自分とは関係ない。もし無理に辞めさせるにしても、そのあとをどうするのかと考えると、自分にはなんの力もないのだということばかりが理解出来る。バイトはしているが独り立ちすらしていない身だ。そんな風に考えた時、はからずも八つ当たりのような言葉が口を突いて出た。
「なんで、今言うの」
 少し怒ったような口調になってしまった。佐久間もそれに気付いたようだ。足を止めて振り返った顔が同じく怒っているように見えた。
「んだよ、じゃあ引越しの前の日にいきなり行って『明日から山形だから、じゃあな』っつった方が良かったんかよ」
「別にそういうこと言ってないだろ。――いや、それも嫌だけど」
「んじゃ、どうしろっつうの」
「……そんなの知らないよ」
 吐き捨てるように言ってスマイルは一人で歩き出した。佐久間の気配がどんどんと遠くなっていく。冷たい雨が手元に降りかかり、なんでこんなことになってしまったんだろうと不意に泣きたくなった。ついさっきまでは楽しく酒を飲んでいた筈だ。嫌な予感がこんな形で的中することになろうとは思いもしなかった。
 どうりで言葉を濁していた筈だ――ここ最近、なんとなく様子がおかしかったことを思い出してスマイルは足を止めた。
「異動の話って、いつ出たの」
 佐久間はふてくされたような顔でのろのろとあとをついてきていた。声をかけられたところでゆっくりと立ち止まり、「十二月」とぼそりと呟いた。
「ずっと黙ってたんだ」
「決まってねぇのに、言ったってしょうがねぇだろ」
「そうだけどさ……」
 彼女には? と訊くと、佐久間は黙って首を振った。
「……教えてあげなよ。決まってからいきなり知らされるよりは、ずっといいと思う」
「おぉ」
 結果がわからずに一番やきもきしているのは本人の筈だ。そのことに思い至り、スマイルは急に自分の取った態度が恥ずかしくなってきた。傘を持ち直し、うつむきながら、小さな声で「ごめん」と呟いた。
「あー? なんか言ったー?」
「――もういい」
「ちょちょちょちょ、待てって」
 あわてて佐久間が追いかけてくる。腕を取られて思いっきり不機嫌な顔で振り返り、しばらくのあいだ睨みつけてやった。佐久間は困ったように苦笑している。
「すんませんでした」
「……どういたしまして」
 互いにしばらく沈黙したのちに、二人は顔を見合わせて小さく笑った。そうしてスマイルは視線を落とし、片手を上着のポケットにしまい込みながら「異動にならないといいね」と呟いた。
「そっすね。……まぁどっちにしても、とりあえず三月までは居るしよ」
「うん」
 でも、そのあとは?
 本当に山形へ行ってしまったら自分はどうするのだろう? 大学はまだ一年残っているし、……追いかけていくわけにはいかない、のだ。
 ぼんやりとみつめていた佐久間の手が注意を促すようにわずかに振れた。スマイルが顔を上げると、佐久間は一瞬ためらったのちに口を開いた。
「今日、うち来いよ」
「……うん」
 二人はまた身を寄せ合うようにして歩き出した。商店街を外れてひと気は少なく、ただ雨の降る音ばかりが続いている。


「居た! 月本、発見!」
 校舎のラウンジでぼんやりしていた時だ。突然大きな声で名前を呼ばれた。スマイルが驚いて本から顔を上げると、入口のところに鈴木を初めとして見知った顔が二三揃っているのが見えた。
 呆気に取られているあいだに鈴木たちが目の前へやって来た。そうして皆で両手を合わせてスマイルを拝み、
「先生、先生、お願いがあるんですけども」
「なに?」
「発達心理学のノートを貸してください」
 スマイルは思わず苦笑した。どうせそんなことだろうとは思っていたが、毎度のことながらよくやるよと呆れてしまう。
「なんだか風物詩だね」
 そう言いながらもカバンを探ってノートを取り出した。
「コピーするのはいいけど、今日中に返してよ」
「サーンキュー」
 なかの一人がノートを受け取ってテスト範囲を確認すると、すぐにコピーしてくるとラウンジを飛び出していった。残りの一人はあとでコピーを渡してくれるよう鈴木に言い残して同じくラウンジを出ていった。どうやらほかにも借りなければならないノートがあるらしい。
「いやー良かった良かった、これでひと安心ですよ」
 鈴木はそう言いながら隣の席に腰をおろしてきた。スマイルはなにも言わずにただ肩をすくめた。
 ラウンジのなかはひと気も少なく、がらんとしていた。だが講義が終わる頃になると学生たちで溢れ返るようになる。次の授業が終わったらとっとと帰ろうと考えてスマイルはペットボトルの水を飲んだ。


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