暗い夜空に吸い込まれそうになる。落ち着かず、イライラと何度も煙草をふかし、咳き込んで窓の外に投げ捨てる。
 ――変わったのは兄ちゃんの方だ。
 腹立たしさと共にシュンはそう思う。
 あんなに弱々しいガーインなど見たことがない。昔、兄はシュンの世界を支配する権力であり、同時に外敵から守ってくれる堅牢な城壁だった。それがいつの間に変わってしまったのか。
 拝金主義のなにが悪い? 金があれば全ては丸く納まるのだ。ガーインは嫌がる組織の仕事を辞められる。ガーインの元部下たちだって、なけなしの退職金が日ごと目減りしていくのを嘆かずに済む。俺だって――。
 シュンはまた煙草をくわえて火をつけた。そうして煙を吐き出しながら狭い部屋のなかを見回し、再び夜空へと視線を投げる。
 ――金があれば、あの空を越えられる。
 自由な世界、わずらわしさのない世界。安穏とした日々。――あの頃の幸せが、きっと戻ってくる。


 ガーインは真っ暗な部屋のなかでベッドに倒れ込んだ。そうして窓の外で輝く街の明かりをぼんやりと見上げ、停滞した空気をかき回すように大きくため息をついた。
『なんで軍隊なんか入ったんだよ』
 それが一番確実だと思ったのだ。安定した身分、給料。そんなに多くはないが親への仕送りも出来た。
 ――まさか解散するとはな。
 そんなオチが待っているとは予想外だった。
 煙草を取り出して口にくわえ、火をつける。煙を吐き出すと、窓の外の景色が一瞬だけかすんで見えた。
 このマンションも両親の住む部屋も、みんなシュンが金を払っているという。実家を逃げ出した時は父親のせせこましい暮らしが嫌だったのに、いつの間にか父親以上につつましい生活に慣れてしまっていたようだ。ことあるごとに親が金の話をするのを聞くたびに、どこか軽蔑するような気分になってしまう。
 昔、一家が住んでいた場所はひどい田舎だった。周囲を山に囲まれており、川と田んぼ以外には見るべきものはなにもないような土地だった。いつかそこを抜けて街の近くに住むのが夢だった。歩いていける場所に便利な店があり、自分の車を持ち、裕福に、出来ればのんびりと暮らしたいと思っていた。だがそれは罪を犯してまで手に入れるようなものじゃない。
 銀行強盗? 夢物語だ。あふれんばかりの札束に埋もれて歓喜の悲鳴をあげていられるのはほんの一瞬、待っているのは監獄の臭い飯だ。出来るわけがない。
 あれからドアの向こうで物音はしない。シュンはまだ部屋に戻っていないようだ。窓の外を眺めたままイライラと煙草をふかしているのだろうか。
 ――本気じゃないんだろ?
 ガーインは暗がりのなかでシュンが居るであろう方向を睨み、ふと身を起こしかけ、またベッドに横になる。
 煙草をくゆらせながらぼんやりと窓の外をみつめ、ため息のように煙を吐き出した。そうして灰皿に押し付けて火を消し、目を閉じた。
 百万ドルの明かりを背中に受けながら、静かにガーインは眠りに落ちていった。


 返還が目前に迫ってきているせいか、年明けからこっち、ひっきりなしに観光客の姿を目にしていた。ただでさえ人の多い街中は、あちこちおのぼりさんたちでいっぱいだ。歩道にテーブルを出した食堂で麺をすすりながら、シュンは流れてゆく人波に目を向けてうんざりしたように首を振った。
「こんな成金趣味の街のどこがいいんだか」
「成金趣味だからいいんじゃないのか」
 向かいに座ったガーインは煙草に火をつけながらそう言った。
「良くも悪くも、権力の象徴だ。金はないよりある方がいいに決まってる」
「――このあいだと言ってることが逆じゃん」
「それぐらいは俺だって思うさ。退職金がどんなに少なかったかは話しただろ」
 そう言って苦笑した。
「金にがめついのは嫌だが、金がなけりゃ生きてはいけない。…清廉潔白な賢人が竹藪のなかで生きていられた時代はとうの昔に終わっちまったんだ」
「もう二十世紀も終わるしなぁ」
「まさかこんな歳まで生きるとはな」
 不意の呟きにシュンは顔を上げた。見ると、ガーインはしまったというような顔をして、そっぽを向いてしまう。
「ガキの頃は二十一世紀なんてものが本当に来るなんて思えなかったよ。周りの大人がみんなうそをついてるんだとばかり思ってた」
「なんだよ、それ」
「三十路が近くなるとな、嫌でも自分を取り巻く現実に気付いちまうもんだ」
 ガーインはそう言ってごまかすように笑った。シュンは言葉もなくただ肩をすくめ、通りがかった店員にビールを頼んだ。
「なあ兄ちゃん、やろうぜ」
 ビールを受け取り、片方を差し出しながらシュンは言った。
「なにを?」
「銀行強盗」
「――お前、まだそんなこと考えてたのか」
「悪い?」
 シュンはメガネを外して服の裾で曇りを拭う。そうしてメガネをかけ直し、クリアになった視界のなかで燦然と輝く夜の街を見上げた。
「どうせ大陸に吸収されたら社会主義の波に呑まれてド派手なことなんか出来なくなるんだろ。その前にさ、大金持って逃げ出そうぜ」
「夢は寝て見ろって言わなかったか?」
 ガーインは渋い顔つきでビールを飲む。
「やるなら勝手にやれ。俺は知らん」
 そう言って乱暴に煙草をもみ消した。
「兄貴をヤクザにして、今度は犯罪者にしようってのか。バカも休み休み言え」
「なんだよ、仕事が欲しいって言ったのは兄ちゃんだろ。ヤクザったって、車の運転しかしてない癖に」
「このあいだ、人の始末がどうのこうの言ってたな」
 不意に真面目な顔つきになってガーインが言う。
「やらせたのか」
「……」
「金をもらって人殺しの斡旋か。たいしたもんだな」
「それが俺の仕事だ、これでお袋たちを食わせてきたんだ、なにが悪い? ヤクザヤクザってバカにするけど、じゃあ兄ちゃんほかに仕事みつかるのかよ。みつかんないだろ? あのオッサンたちだってそうだ」
 ガーインがこんなにも執拗に今の自分を否定するのが何故なのか、シュンには理解出来なかった。どうすれば認めてくれるんだと、思わずヒステリックに叫びそうになった。
「わがままばっかり言って現実見てないのはどっちだよ」
 吐き捨てるようにそう言ってシュンは大仰にビールをあおる。
「軍隊なんか国が持ってる合法のヤクザじゃねえか。俺とどこが違うってんだ」
 欲しいものを手に入れ、大事な人を守り、幸せになる。
 それだけが望みなのに。
 食ったばかりの飯を吐き出しそうになり、シュンはそれを阻止するようにビールを飲み続けた。周囲は腹が立つほどに騒がしかったが、二人のテーブルはまるでガラスにでも遮られているかのように静かだった。
「…そうだな」
 イライラと通りを眺めるシュンの耳に、ガーインの苦笑する小さな音が聞こえた。
「確かに、そうかも知れん」
 やがて二人は店を出た。そうしてシュンのバイクに乗り合わせてマンションへと向かう。その途中で、
「シュン」
「あー?」
 風で声が飛ばされてよく聞こえない。シュンは一旦スピードを落とし、わずかに頭を後方に向けた。
「金が手に入ったら、足を洗うって約束するか?」
「――約束するよ兄ちゃん!」
 シュンはそう大声で叫び、一度エンジンを大きくふかした。
「足どころか体まで洗っちゃう!」
「なんだ、そりゃ」
 ガーインの笑い声に乗るようにシュンは更にバイクを加速させる。
 行く手に大きな夜空が広がっていた。川を渡る大きな橋にかかり、その夜空へと向けて飛び上がるかのように、シュンはまたエンジンをふかした。


望郷/2004.07.15


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