幼い頃のシュンにとって、兄のガーインは権力であり、同時に城壁でもあった。
 成長して「マッチ棒」とあだ名されるほどひょろひょろの体型のシュンは、子供の頃はもっと体が小さく、どれだけ食べてもいっこうに太る気配がなかった。ガリガリに痩せていて、その姿はまるで欠食児童のようだった。
 そんなシュンが近所に住む悪童からちょっかいを出されないわけがない。毎日のようにケンカをふっかけられ、時には数人がかりでずたぼろにされることもあった。たいていは幾らかやり返して済ませるのだが、それだけで終わらないこともある。そんな時、シュンはいつもガーインに隠れて一人で泣くのだが、どういうわけか必ずみつかってしまう。そうして必要とあればガーインは一人で悪童の群れに飛び込んでいく。
 たかが子供のケンカとはいえ、その地域に漂う微妙な力関係は行動範囲を大きく左右する。自由で居たければ、勝つしかないのだ。
「弟に手を出してみろ」
 次々に飛びかかってくる悪童たちを秋の川へと放り込み、かつてガーインは高々とそう宣言した。
「次の日にはお前たちのお袋が冷たくなってるぞ」
 シュンを叱るのもガーインの役目だった。実力行使されることもしばしばだったが、それでもシュンにとってガーインは、なくてはならない存在だった。父親よりも強く、母親よりも大きな庇護で包んでくれた。
 居なくなるなんて、思ってもみなかった。
 シュンが八つの時、ガーインは家を出た。遠くに住む叔父の家に引っ越していったのだ。その話を聞いた時、シュンは有り得ないことだと思った。まるで明日の昼に世界が終わると呆気なく告げられたかのようだった。事実、シュンにとっては世界が終わるのと同じ意味だった。
 ――なんで?
 最初、シュンは何度もそう聞いた。なんで家を出る必要がある? 何故叔父の家へ行く必要がある? ここでは駄目なのか? 何故? 何故――?
 だが納得のいく答えは得られなかった。ガーインは最後まで言葉を濁し、本当のわけを話すことなく去っていった。呆気なく、まるで最初から居なかったかのように、跡形もなく。
 翌日からシュンは二度とケンカに負けず、涙を流すこともなくなった。近所のボスにのし上がるまでにたいして時間はかからなかった。
 そうして時間のある限り、シュンは空を眺めるようになった。
 この同じ空のどこかにガーインが居るのだと教えられても、シュンには信じられなかった。兄はもう手の届かない場所へと去ってしまった、幼いシュンの胸に残ったのはそんな絶望感だけだった。
 どこまでも続く青い空は高く遠く、どれだけ手を伸ばしても届きそうになかった。俺はここに閉じ込められているのだと、空を見るたびに何故かそう思った。夜になれば星がまたたき、果てしなく続く美しい天蓋は、しかしシュンにとっては檻と同等のものでしかなかった。
 ――いつかここを出てやる。
 幼いシュンはそう思うようになっていた。誰にも指図されず、どんな利害関係もない自由な場所へ、自分の力で。
 それはガーインによって確保されていた安穏とした「日常」を求める心だったのかも知れない。もしそうだったとしても、勿論シュンに自覚がある筈はなかった。
 やがてガーインは軍へ入り、シュンはヤクザになった。見掛けの上だけでなら、もうどちらも子供ではなくなっていた。
 そして九十七年五月。
 もうじき、香港が中国に戻る。


「でもさぁ、ホントにそんなにめでたいことなのかね」
 銀行に横付けした車のなかでシュンは煙草をふかしながらそう聞いた。ガーインはハンドルに身をもたれかけ、不意にクラクションを鳴らしてしまい、あわてて身を引いた。そうして「なにがだ」と聞き返した。
「香港が返還されて喜んでるのは大陸の人間だけだろ? 外国の企業なんかこぞって逃げ出してるっていうし、金持ち連中もあわてふためいて海外逃亡かけてるらしいぜ」
「そうなのか」
「兄ちゃんも仕事がなくなったし」
「それが一番悪い」
 ガーインはそう言って苦笑した。
 この三月までガーインは軍に居た。香港守衛の為の軍隊で、統治国であるイギリスの傘下で働いていたのだが、香港が中国に返還されると同時に人民解放軍がそれに取って代わることとなり、軍は解散した。――もっとも、当事者からしてみれば解散「させられた」のだが。
 なけなしの退職金をもらって実家に戻ったガーインは、無職の解放感を存分に味わったのち、結局シュンの口利きで組織の下っ端に入ることになった。元軍曹殿が、今ではしがない運転手である。
「古い連中は、それでも喜んでるみたいだがな」
 つられたように煙草を取り出しながらガーインが言った。
「古い連中たって、くたびれたジイサンバアサンだろ。そんな清朝の生き残りのことなんかどうだっていいんだよ」
 シュンは鼻で笑いながら煙を吐き出した。
「年上の人は敬わないといかんぞ」
「兄ちゃんは相変わらず頭が固いなぁ」
「だから敬えって言ってるだろうが」
 ガーインはシュンの髪の毛を引っぱり、背後で鳴らされたクラクションに振り向いた。
「――出るぞ」
「あいよ」
 走り出した車のなかでシュンは窓を全開にする。入り込んでくる風はそれでも心地良く、シュンはメガネを外して胸元に下げ、窓から顔を突き出すようにして風を受けた。
「なあ、おい」
 不意の呼びかけに振り返ると、ガーインは赤信号をじっと睨んだまま、まるで声をかけたことを忘れているかのような顔をしていた。そうしてぽつりと呟いた。
「本気じゃないんだろ?」
 シュンはなにも答えないまま、ただにやにや笑うだけだ。無言の不穏さを感じ取ってかガーインが振り向くが、シュンはまたそっぽを向いてしまう。そうして、
「さあね」
 歩道を歩く若い女に向かってそう言った。女は驚いて一瞬足を止め、訝しげにシュンを見て、またどこかへと歩き出した。

『なにを考えてる?』
『――銀行強盗』

 ガーインの元部下が再就職した先は英国系の銀行だった。香港ドルを発行している大きな銀行だ。そこで警備員として毎日銃を抱え、ロビーに立っている。その男に協力してもらえれば、案外難しいことじゃない。そうシュンは考えた。
「人を殺すわけじゃないんだからさ」
 部屋に戻ったシュンは窓際で夜空を眺めながらそう言った。
 街中へと引っ越して以来、殆ど星を見ていない――煙草を吸い込みながらシュンはぼんやり考える。湾岸を彩る様々な明かりのせいで星の姿がかき消されてしまっているのだ。星が見えないお陰で夜空はどこまでも深く、余計に閉鎖感が強まった。
「金があれば、兄ちゃんだってオッサンたちだって、嫌な仕事しなくて済むだろ」
「お前もな」
 シュンはガーインの言葉に振り返り、「ああ」とうなずいた。
「いっそのこと、国外逃亡でもするか。親父とお袋連れて南の島でも行ってさ、のんびり暮らそうよ」
「……」
 ガーインはなにも答えない。苦い顔で壁をじっと睨んでいるだけだ。
「兄ちゃん?」
「――夢物語だな」
 そう言ってガーインは苦笑した。
「銀行に勤めてる奴なら誰だって一度は見る夢だ」
「じゃあボビーなんか毎日見てんじゃないの。『この銃、乱射したらどうなるのかな』ってさ」
 ガーインは笑わなかった。シュンは夜空を眺めたまま小さく舌打ちをする。そうして、いっそのこと雨でも降りゃいいのにと思った。
 空が深い。どこまでいっても決して抜け出せないように思えて仕方がない。
「もう寝ろ」
 不意に呟いてガーインは立ち上がる。
「夢は寝て見ろ。起きてる時は現実を見るもんだ」
「その現実主義が無職にさせたんだろ。だいたいなんで軍隊なんか入ったんだよ。兄ちゃん頭いいんだからどっかの外資系企業にでも入れたんじゃないの」
「――堅実に、誠実に」
 ぽつりとガーインが呟いた。
「昔の親父の口癖だ」
「聞いたことねえなぁ」
「お前は変わったな」
 寂しそうにそう言われ、シュンは思わず鼻白んだ。
「変わってなんかいねぇよ」
 何故か顔を見ることが出来なくてシュンはそっぽを向いた。
「俺はもとからこうだ。兄ちゃんの考えが古いだけなんだよ」
「…そうかもな」
 ガーインが苦笑する音が聞こえた。
「拝金主義の世界にはついていけそうもない。――寝るよ。銀行強盗の夢でも見るとしよう」
「……」
 シュンはドアの閉まる音がするまでじっと窓の外を眺め続けた。


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