電車を待っている時、携帯が鳴った。メールの着信音だったのでスマイルは一瞬差出人を確認するのをためらった。なにかあった時の為に一応携帯を所持してはいるが、実際やりとりをする人間は限られている。
 案の定、メールの差出人は佐久間だった。

『今日暇か? 暇なら来いよ。』

 暇であることを知っていながらわざわざそう聞いてくるところが腹立たしいが、無視するわけにもいかず、スマイルは短く返信する。

『七時半以降。』

『駅前のマック。』

 それで終わりだった。スマイルは携帯をしまいこみながら小さくため息をつく。
 佐久間との逢瀬は相変わらず続いていた。だがそれは以前とは比べようもないほど事務的な付き合いだった。楽しく話をしながら酒を呑んだことなど夏以来一度としてない。今では殆ど喋ることもなく、目をあわせることすらしていない。
 目を見たら聞いてしまいそうになる。
 ――いつから思ってた?
『早い話がエンコーだろ?』
 佐久間のせせら笑う姿が思い浮かぶようだ。勿論そんな筈がなかった。ただ会いたかった。――それだけなのに。
 援助交際だと言われたあの晩、いっそのこと殴っておけば良かったとスマイルは後悔している。それでも呼びつける気があるなら好きにしろ――そんなふうに啖呵が切れていたらどれだけ楽だったろう。そもそも佐久間からの呼び出しを本気で拒絶出来ないのは、まだスマイルのなかに未練があるからだ。
 未練があり、実際、心のどこかで責任も感じていた。だがそれは佐久間本人が気にするなと言ってくれていた筈だった。
『別に、お前が退学させたわけじゃねえだろ』
 ――じゃあなんなんだよ。
 あれだけ頻繁に誘いをかけてきたのはどういうわけだ。本当に金目当てで会っているなどと思っていたのか? 一度だってそんなバカげた無心をした覚えもないのに。
 どこでどう間違えたのか、どれだけ考えてもわからなかった。わからないままスマイルは佐久間に会い、義務のように体を投げ出し、厭いながらも相変わらずメールが送られてくることを待ち望んでしまっている。
 ――バカじゃないのか。
 それでも、会えることを嬉しいと思う。あの手の感触を恋しいと思う――。
 踏み切りの警笛が突然鳴り出して、スマイルは顔を上げた。ふと泣きそうになってあわてて奥歯を噛みしめ、吹きつける風へと顔を向ける。まだ四時にもなっていないのに暮れ始めた空はひどく寒々しい。
 ――いつまで続くんだ。
 耳に突き刺さる警笛を聞きながら、スマイルは心の内で誰にともなく問いかける。
 勿論答えはない。


 佐久間は窓際の席に陣取って、ただ塩辛いだけのポテトを口に放り込みながらじっと窓の外を眺めている。やがて人ごみのなかからお目当ての人物の姿をみつけだして、ふと口元をゆがめた。
 店の自動ドアをくぐり抜けたスマイルは、人の姿の多さに少し困惑したように表情を曇らせた。そうして座席へと視線を投げて佐久間の姿をみつけ、そのまままっすぐこちらへと歩いてきた。
「来たよ」
 座席の脇に立ってそれだけを呟く。
「まだ食い終わってねぇんだよ。お前もなんか食えや」
 佐久間はそう言って財布をテーブルに放り出した。スマイルはそれを言葉もなく見下ろして、
「…別にお腹空いてないんだけど」
「いいじゃねえか、コーヒーぐれえ付き合えよ」
 スマイルはまた言葉もなくちらりと佐久間の顔を見遣り、そのままレジカウンターへと向かった。佐久間は肩をすくめて財布をしまい込み、再びポテトを口に放り込む。
 夕飯時を過ぎたとはいえ、まだ店内は混みあっていた。注文の列に並ぶスマイルの姿を見、カウンターのなかで異様なほど明るい声を出す若い女の姿を見、佐久間は意味もなく鼻を鳴らす。
 ――ねえお姉さん、
 心のなかで呟く。
 ――俺とそいつ、どんな関係に見えます?
 スマイルは看板の文字をぼんやりと見上げている。そうしてカウンターで注文している母親の姿にふと視線を投げ、その子供の騒ぎ声にかすかに眉をひそめた。そんな姿が、今は不思議と遠い。
 ――俺ね、これからそいつとヤルんすよ。ええ、そいつも男ですけどね。ヤっちまうんすわ。
 また窓の外へと視線を投げて、佐久間は店内のざわめきから逃れようとした。十一月に入り、町の風景はどこもかしこも見るにつけて寒々しい。
 ――なんでそんなことするんだって? …なんでですかねぇ。
 やがてスマイルがコーヒーのカップを持って戻ってくる。そうして向かい側に腰をおろし、砂糖を放り込んでかきまぜながら窓の外へと目を投げた。それはまるで佐久間の視線を拒否するような素振りで、佐久間はもはや言葉もなく自嘲の笑みを洩らすだけだ。そうしてコーラの入れ物を手に取り、言葉もなく飲み込みながら、じっとスマイルの横顔をみつめる。
 ――俺ら、もとはただの幼馴染みだった筈なんですけどねぇ。
 なんでこんなことになっちまったんだか。
 そう内心で呟き、ただ目の前のジャンクフードを事務的に片付けながら、佐久間はこっそりとため息をついた。
 スマイルがなにかに気付いたようにちらりとこちらを見た。佐久間はわざとらしくそっぽを向いて、窓の外を歩く人波に目を走らせた。
 こんな関係が始まってから既に数ヶ月が経過していた。自ら言い出した手前、佐久間が撤回するわけにもいかず、梅雨明け以来気まずい空気を二人とも存分に味わっていた。それでもこうして呼びつけることをやめられず、スマイルもそれを拒否することはない。
『だったら好きにすればいいだろ、幾らでも落とし前つけてやるよ』
 スマイルの怒りに満ちた声を思い出す。
 ――本当に落とし前つけてるつもりなんかな。
 佐久間はあらかた食事を終えて煙草に火をつけながらぼんやりと考える。
 そもそもそんなことなど望んではいなかった。今更高校中退という学歴が変更出来るわけではないし、夜学へ通うつもりもない。退学してからだってそれを悔いたことも殆どなかった。いってみれば意味の無い「落とし前」だ。それがわかってはいたが――。
「…行くか」
 スマイルは言葉もなくうなずき、コーヒーを飲み干す。
 もともと静かな男ではあったが、まるで昔の彼に戻ってしまったかのように今は喋らない。佐久間は今更のようにペコの存在の偉大さを思い知っていた。
 ――お前、すげぇよ。
 こんな奴、俺だったら五分で放り出すわ。
 そう思いながら佐久間はスマイルのコーヒーカップを拾い上げた。
「…ありがと」
「どういたしまして」
 そんなやり取りですら、どことなく空々しかった。


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